ベッドルーム(三)
敏は、まぶしさで目を覚ました。
カーテンが少し空いていて、その間から陽の光が見える。
『もう一度、純に水をのませようと思っていたのに、いつの間にか寝入ってしまった』
ハッとする。
純がベッドにいない。
あわてて飛び起きる。
シングルベッドに二人で寝ていたせいか、身体がだるい。
隣のグランドピアノの部屋にも、勉強部屋にも、純はいない。
廊下に出てみる。
洗面所の向こうから水音がする。
バスルームからのシャワーの音だ。
「純ちゃん」
敏の呼ぶ声は聞こえないらしい。
もう一度呼んでみる。
水音が消え、純の声が聞こえた。
「お願い、来ないで」
慌てた声。
『なんだよ、そばにいてって言ったり、来ないでって言ったり・・・』
敏は苦笑する。
『熱があるのに、シャワーなんて浴びて大丈夫なんだろうか・・・?」
今日は病院に連れて行った方がいいのか、敏が考えていると、ガチャリとバスルームのドアが開く音がした。
敏はドキッとして、洗面所のドアの前から飛び退った。
朝から刺激が強すぎる。
一瞬、純の裸体を想像してしまった自分が恥ずかしい。
敏はすごすごと退散して、ベッドルームに戻った。
戻ったはいいが、昨夜のことを思い出して、立ち尽くしてしまった。
『このベッドで、一緒に寝ちゃったんだよね。キスもしちゃったし・・・それもディープなヤツ・・・。純ちゃん、「愛してる」って、僕のこと・・・僕を「敏君」って・・・』
枕もとのアイスパックが熱で溶けている。
枕と一緒にベッドの脇に落ちているキリンのペンケースを拾ってベッドに載せた。
敏は、もうベッドには触ることも出来なくて、ベッドの足元にあるソファに腰を下ろした。
純のスウェットの上衣と一緒に、昨日脱いだ自分のパーカーとジーンズが、生乾きのままソファに掛かっている。
パーカーのポケットから、スマホを取り出す。母親の携帯からの着信が何件もあった。
初めての無断外泊・・・。
「ああ、どうしよう・・・。すっかり忘れてた・・・。とりあえず、今、この瞬間は、純のことだけ考えよう。都合の悪いことは、今は忘れてしまおう・・・』
純が戻って来る足音。
敏はソファから立ち上がった。
純は、銀色のトレーにトーストと果物、紅茶を載せてベッドルームに入って来た。
「シャワー浴びたりして大丈夫?熱は?」
「ちょっと疲れたけど、大丈夫」
純の顔に疲労の色が見える。
「無茶しないでよ・・・」
「うん」
そう言いながらも、二人は目を合わせることも出来ない。
「あの・・・とりあえず、これ食べて」
トーストと紅茶のいい匂いが、昨夜の夕食を食べそこなった敏の鼻腔を刺激する。
「うん、一緒に食べよう」
純の手から、トレーを受け取る。
「私はあとでいい。ちょっと疲れたから、もう少し眠りたい。隣のお部屋のテーブルを使ってね」
純はベッドにもぐり込むと、目を閉じた。
敏は、トレーをソファの座面に置いて、ベッドの脇に立つ。
ベッドに横たわる純を見て、昨夜の切ない声を思い出した。
「僕、そばにいなくていいの?」
思わず口にしてしまった。
純は急に恥ずかしそうな顔になって、掛けていた布団の中に隠れた。
純の巻き髪だけが布団から見えて可愛い。
「我慢する・・・」
布団の中からくぐもった声。敏の胸の奥がドキッと跳ねる。
『ダメだ・・・。僕の方が我慢できない・・・』
ひざまずいて、布団ごとくるむように純を抱き締めた。
純の巻き髪からは、シャンプーのいい匂いがする。
布団の中から、純の鼻から上が覗いた。
「敏君。男の人の匂いがする・・・」
「あ、ごめん。僕、風呂はいってないから・・・臭う?」
純の切れ長の目が一瞬きょとんと丸くなってから、笑ってカーブを描く。
「ごめんね。ちがうの。不思議だなって思って・・・。敏くんが、こんなに近くにいることが、不思議。私が敏君の腕の中にいることが・・・不思議だなって」
「そんなに、不思議?」
敏は布団ごと抱きしめていた腕を緩めて、純の目を見つめる。
純は恥じらって視線を外し、敏の胸にいい匂いの巻き髪を押し付けた。
「ずっとあこがれてた敏君と一緒に・・・こうして・・・不思議・・・」
敏の頭の中で『ずっとあこがれてた・・・って、いつから?』の疑問が浮かんだが、それよりもこみ上がる衝動が抑えられず、純の唇を奪う。そして緩めていた腕をきつくして純の身体を抱きしめる。
昨日より弾力が増した純の唇は、初めて敏の唇を求めて来た。求められることの喜びを、敏は胸に刻んだ。
長い時間、そうしたあと、
「好き」
と真顔で言いながら一瞬敏の瞳を見つめ、純は、すぐまぶたをギュッと閉じる。
そんな純への愛おしさがあふれ出して言葉になる。
「僕も好きだよ」
もう一度、重ねるだけのキスをする。
キスのあとの、純の深いため息。
疲れさせてしまったかと、敏は少し心配になった。
「少し、お休み」
「うん」
抱きしめていた腕をゆっくり外した。
純の肩の上のペンケースを、敏はベッド脇のテーブルのキリンのぬいぐるみのそばに置いた。しばらく純の寝顔を見つめてから、食事の乗ったトレーを持って、部屋を出た。
グランドピアノの部屋の窓を開けて、やや強めの風を部屋に入れた。窓から見える青空がまぶしくて、夏の日差しを感じさせる。
ピアノのそばの丸テーブルの席で、もうすっかり冷めてしまった紅茶とトーストを頬張りながらぼんやり考える。
金松貴久が彼氏ではないことがわかった、この部屋。
純が作ってくれた夕食を三人で食べたこと。
その原因の『階段事件』
遠足のときのこと。キリンのペンケース。
『使ってくれていないと思って、がっかりしたんだった。まさか、ペンケースと一緒に眠っていたなんて・・・。そういえば、さっき『ずっとあこがれていた』っていたけど。いつから僕のことを想っていてくれたんだろう?』
敏は急に、純の顔が見たくなった。
食べかけたものをそのままに、ベッドルームに引き返した。
横向きに純が眠っている。
ベッドサイドのテーブルに載っているキリンのぬいぐるみがこっちを見ている。
『ベッドルームの二人を見ていたよ』
と、言わんばかりの丸い目。
敏はベッドの足元にある一人掛けソファを、音をたてないように、ベッドの脇に引っ張って来た。
昨日敏が着ていた服が掛かったままのソファに、腰掛けた。
これで思う存分、純の寝顔を見つめることが出来る。
純の白い顔。その顔にかかる黒い巻き髪。閉じられたまぶた。濃いまつ毛。
ふっくらとしたピンクの唇・・・弾力を思い出して胸がうずく。
とがった顎のラインの美しさ。
いくら見ても見飽きない。
寝顔を見つめすぎて、夢なのか現実なのかわからなくなったころ、純が目を覚ました。
「おはよう」
敏は微笑む。
寝顔も可愛いけれど、やっぱり目覚めている純の瞳が嬉しい。
「すっとここに・・・いたの?」
「『そばにいて』って言ったのだれだっけ?」
「それは・・・」
「いちゃいけない?」
敏はおどけて、むくれた顔をしてみせた。
「・・・」
はにかむ純を見るのも嬉しい。
甘い気持ちのまま、のんきに敏が純を見つめていると、
「ねぇ」
と、急に純が真顔になって、ベッドの上に起き上がった。
「ん?何?」
「ゆうべ、家に帰らなくて大丈夫だったの?」
「ああ・・・大丈夫じゃないね。完全に無断外泊」
「おうちの人に叱られるんじゃ・・・」
「そうだろうね、たぶん」
敏は平気を装って答える。
「何て言いわけするの?」
「何て言おうね。純ちゃんと二人で一緒にベッドで寝ました。キスしました・・・って言う?」
「え?」
純は顔を赤くしていいのか青くしていいのか、戸惑う。
「事実でしょ?それとも夢?」
「それは、現実だけれど・・・」
純はベッドの上で真顔のまま、うつむいた。
「家のことは、自分で何とかするから、心配しないで」
敏は、純の両手を自分の両手で包んだ。
「本当に?本当に大丈夫?」
純は敏の手を握り返して、心配そうに見上げる。
「大丈夫。心配しないの」
敏はにっこりと笑って見せた。
しかし、『それでも・・・』と言う純に追い返されるように、敏は家に帰ることになった。
「『そばに来て』『そばにいて』って言ったのは、純ちゃんなのに・・・」
敏はブツブツ言ってゴネてみせたが、純は許してくれなかった。
それに、二日続けて無断外泊するほどの蛮勇は無い。
敏は帰りたくないけれど、純も返したくはないけれど・・・。
また明日、逢う約束をして、敏は帰ることになった。
敏は雨に濡れたまま乾いてしまったジーンズを身につけ、パーカーを小脇に抱え、まだ生乾きの靴を履いた。
「まだ、やっと熱が下がったばかりなんだから、気を付けて」
「心配しないで、もう大丈夫だから」
玄関に落ちていた傘を拾って、後ろ髪をひかれながらも、敏は純の家をあとにした。




