叫び
夏休みが始まっても、敏は憂うつだった。
部活に行っても、皆と一緒に体育館で練習をするわけでもなく、ただ暗い顔をして、部室の椅子に座って外をながめていた。
大抵のことに気が付かないボンヤリしている魚谷京平でさえ、敏の病みっぷりに怪訝そうな顔だ。
京平は、原因を聞かずにはいられず、良太を掴まえた。
「敏、どうしちゃったの?」
「住吉さんとケンカしたみたい。夏休み前に泣かしちゃったんだよ、彼女のこと・・・。その時、京平は教室にいなかった?」
「いなかったのかな・・・気付かなかったけど・・・。原因は何だったの?」
「わかんないんだ。敏に聞いたけど、教えてくれないんだ」
部員全員が、どうしようもなく落ち込む敏を、心配せずにはいられなかった。
その翌日は、台風が近づいているということで、予定していた部活は休みだった。
午後になって、雨風も強くなって来た。
敏は、自分の部屋から外を見て、ため息ばかりをついている。
思い出すのは、純の頬に流れた涙。
机に座って引き出しから純の写真を取り出して見る。
バイオリンを弾くブルーのドレス姿。写真部の友達からもらった学園祭のときの写真だ。
七夕の時の純のワンピース姿も思い出す。
左手に置いた、純の手の感触。右から見た純の横顔・・・笑顔。
忘れたくても、この気持ちを打ち消すことなんて出来ない。
『僕は純ちゃんが好きなんだ・・・純ちゃんが、ほかの誰かを好きだとしても・・・』
敏は、机に突っ伏して涙をこらえる。泣いてしまったら、純のすべてを諦めるような気がして・・・。
『スマホが振動してる?』
はっとして、ベッドに置きっぱなしのスマホを見た。
『・・・気のせいか』
立ってスマホを取り、ベッドに腰を下ろした瞬間。
本当に電話が鳴った。
画面に『純ちゃん』の文字。
「もしもし・・・」
「村上君・・・私・・・」
純が泣きながら電話を掛けているのが分かった。
「村上君に、イヤな思いばかりさせて・・・ごめんね・・・」
「僕があんなこと、言ったから・・・僕のほうが悪いんだ」
「違う・・・私が・・・私が悪いの・・・だから・・・」
純は、そう言って、泣きじゃくる。
敏も胸がいっぱいになり、もう言葉が出ない。
「寒い・・・」
「え?」
急に意味不明の言葉をつぶやく純。戸惑う敏。
「寒い・・・寒い・・・お願い・・・そばに来て・・・」
『台風も来る暑さなのに、どういうこと?』
「寒いって、どうしたの?」
敏は焦って、スマホを握りしめる。
「お願い。そばに来て・・・寒い・・・」
純は、ただ泣きじゃくっているだけではないようだ。なにか様子がおかしい。
「今、どこにいるの?」
「おうち・・・」
子供のように、ひどく甘えた口調。
「家に誰もいないの?」
「お父さんは出張で今週は帰らない。藤井さんは夏休み・・・」
純が『父』ではなく『お父さん』と言うのを、初めて聞いた気がする。
『藤井さん』というのが家政婦さんのことだったかな、と敏は思い返す。
「誰もいないんだね?」
「いない・・・。お願い、そばに来て・・・寒い・・・」
純のすすり泣きが聞こえる。彼女が平常でないことが分かる。
「わかった。出来るだけ早く、そばに行くから。待ってるんだよ」
「うん。待ってる。早く来て・・・」
敏の頭の中で、『待ってる』という言葉がフラッシュバックした。
『階段事件』のあと、純の家に訪ねる約束をしたときの言葉だ。
あの時は甘く感じた言葉なのに、今はこんなにも悲痛な叫び。
『お願い。そばに来て・・・』こんな言葉を、純が口にするとは。
いつもの内気で控えめな口調とは、全然違う。
純の心の奥底からの、叫び声。
敏は、防水のパーカーを着こみ、財布とスマホだけをポケットに突っ込んで、傘をさして家を出た。
敦がリビングで台風情報のテレビを見ていたが、声を掛けなかった。
でも、家の前のカフェから戻って来る母親に見つかってしまった。
「どこへ行くの?」
「友達のとこ」
「台風なのよ、こんな時に?」
母親は心配のあまり怒っている。
「大事な用事なんだよ」
敏は大声で言い捨て、走った。
風が強く、傘は役に立たない。諦めて傘を閉じる。
商店街を抜けて、バス停まで走る。
パーカーも敏の頭もびしょ濡れだ。
純の家まで一番早く行ける路線のバスが、なかなか来ない。
イライラしながら何度もスマホを見る。
やっと目当てのバスが来た。
バスに乗って、メッセージを送るが返信は無い。
バスのスピードが遅く感じて仕方なかった。
もうすぐ純の家のある須川駅前のバス停に到着する。
もう一度、メッセージを入れたが、やはり返信は無かった。
不安でたまらなくなり、バスが停まる前に立ち上がり、降車のドアの前に立った。
ドアが開くと同時にバスから飛び出した。
大通りから裏の通りに入る。
骨董店と画廊に角を曲がる。
もうすぐ純の家が見える。
雨に濡れながら走る敏。
風がだんだん強くなる。住宅街の木々が大きくざわめく。




