苦しい夢とうつつ
夏休み初日だというのに、純はだるくボンヤリした朝を迎えた。
いつものように朝食を用意して、今日から出張だという勝を送り出す。
練習しなければならないバイオリンもピアノも、たくさん出された夏休みの宿題も、全然集中出来なくて、頭は別のことでいっぱい。思い浮かべるのは敏のことだけだ。
『誰もいないから、好きなだけ泣ける・・・』
うっすらと微笑みながら涙を落とす。
心の深い部分が壊れてしまったかのようだ。
昼食もとれないまま、憲人の見送りをするために家を出る。
憲人の乗る飛行機は、午後六時の出発だ。
憲人とは、空港鉄道の始発駅での待ち合わせ。
大きなキャリーバッグを横に置いて、バイオリンケースを背負った憲人。
「純ちゃん大丈夫なの?昨日より顔色が悪いよ」
泣き腫らした目のことには触れず、心配の言葉をかける。
「なんでもない。大丈夫。ごめんね、これから出かける人に心配させるなんて」
「そうだよ。僕がいない間、元気でいてくれなきゃ」
「他のみんなは見送りに来ないの?」
「とりあえず、四週間だけだから、来なくていいよって言ったんだ」
「そうなの」
二人は空港鉄道に乗り込む。車列の最後尾に乗り、並んで立つ。
「もし、サマースクールの後のコンクールで良い成績がとれて、本格的に留学することになったら、その時には、一度帰国するから・・・」
「うん」
純が目を上げると、そこには憲人の熱い眼差しがあった。
「だから・・・待ってて」
「うん?」
「本格的に留学したとしても・・・僕が帰って来るまで待っててよ」
「え?」
「誰のものにもならないで、待っててよ」
純が戸惑っているすきに、憲人は純を引き寄せ、きつく抱きしめた。
そして、憲人の潤んだ瞳が純の驚きを含んだ瞳に近づく。
『渡とも、同じようなことがあったっけ・・・』
純は一瞬で我に返って、憲人の唇を避けた。
「・・・イヤ?・・・なの?」
憲人の瞳が暗く変わる。
「ううん。びっくりしたの・・・だって、こんなところで・・・」
乗客の数人は、今の二人の様子に気付いたみたいだ。
「やっぱり、純ちゃん・・・村上先輩のこと・・・」
憲人が涙声になる。
純は憲人の口から、敏の名前が出てピクリとした。
「ううん。村上君は、私のことなんて何とも思ってないから・・・はっきりそう言ってたから・・・」
純は必死で涙をこらえるが、言葉は途切れる。
二人で泣いた顔のまま、空港駅に到着する。
周囲には、別れを惜しむ恋人同士に見えたかもしれない。
しかし、気持ちはすれ違ったまま、憲人はアメリカに旅立って行った。
憲人を見送り、純は家に戻った。
ひどい疲労感に襲われて、やっとのおもいでシャワーを浴びると、そのままがっくりとベッドに倒れ込んだ。
熱い涙が巻き毛を濡らし、純は目覚める。
夢を見ていたようだ。
胸が苦しい。
涙を拭いながら起き、ベッドの上に座る。
身体がひどくだるい・・・。
カーテンの隙間から、薄日が漏れている。
ベッドから降りて、カーテンを開いた。
曇り空で、風が木々を揺らしている。
振り向くと、クローゼットの鏡の中に、乱れた髪に腫れぼったい目をした純が映る。
誰もいない広い家の中は、ただ時間だけがすぎていく。
気持ちも身体も動かない。
何もする気になれず、敏のことだけを思い出し、涙が落ちるのを拭うだけだ。
『こんな気持ちのまま、夏休みを過ごさなければならないなんて・・・』
日が落ちるころには、窓の木々がざわめいて、風がかなり強いことを知らせている。
夜、憲人からのメッセージが届いた。
アメリカに到着して、ホームステイ先の様子や、バイオリンは練習しているか、など、簡潔にかかれてあった。
純はメッセージを既読にしたまま放置し、ベッドにもぐってしまった。
枕元には、敏にもらったペンケースを置いて、腫れぼったいまぶたを閉じる。
明け方近く、聞いたこともない風の音で、純は目を覚ました。
ひどく喉が渇いて、水を飲みに行こうとベッドから降りたとたん、めまいを覚えた。
『なんだろう?急に立ち上がったからかな・・・』
疑問に思いつつも、ふらつきながら水を飲みに行き、キッチンから戻るとベッドに再び横になった。
うとうとしながら、純は夢を見る。
七夕の華やかな飾り。
敏の笑顔。彼のたくましい腕の感触がリアルに再現される。
風景は楽しかった遠足に替わる。
水辺のベンチで、のり巻きとサンドイッチを食べた記憶・・・。
楽しかった二人きりの時間。
いつの間にか、暗い森の中にシチュエーションは反転する。
今まで一緒だった敏の姿が無い。
「どこにいるの?」
敏を呼ぼうとしているのに、声が出ない。
ふいに、敏の顔が目の前に現れる。
怒った目・・・。
「憲人とはどんな関係なの?」
「僕とは関係ないでしょう?」
敏が嫉妬心いっぱいの目で涙を浮かべている。
「ちがう・・・違う・・・私は・・・」
叫ぼうとしているのに、口が開かない。胸が潰れそうだ。
純は息苦しさで、目を覚ました。
枕が涙でぐしょぐしょになっている。
『村上君に、自分の本当の気持ちを伝えたい。伝えなきゃ。このまま夏休みを過ごすのは耐えられない』
純は、充電の着れそうなスマホを手にして、敏の名前をタップした。




