反芻される痛み
『関係ない』『どうでもいい』
思いもかけない敏の言葉が、純の中で反芻する。階段を下りながら、手の甲で涙を拭うけれど、拭いきれない。
階段の踊り場に寄って、リュックからハンカチを出してそっと目に当てた。
「大丈夫?」
声を掛けてきたのは、同じクラスで、ダンス部員の鮎川真二だった。
「村上とケンカしたの?」
真二は教室からベランダでの一部始終を見ていた。
純はあわててデニムパンツのポケットにハンカチを仕舞った。
「ううん、違うよ。何でもない」
「何でもなさそうには、見えないけど・・・大丈夫?」
真二が純の顔をのぞき込む。
「ホントに大丈夫。ありがと。私、急ぐから・・・。ごめんね」
「ん。バイバイ」
真二は心配そうな顔のまま、純を見送った。
昇降口の二年三組の靴箱の前では、憲人が人待ち顔で立っていた。
ただでさえ、憲人は目立つのに、一年生が二年生の靴箱のところにいるから、なおのこと目立つ。
敏の純のさっきのやり取りを見ていた人がいたならば、もっと興味深々だろう。
憲人はそんな視線をものともせず、純の姿が現れると、彼女の手を取らんばかりに近付いた。
純はそんな憲人の脇をすり抜け、距離を置くように、先に外に出る。
「何かあったの?」
そんな、いつにない純のつれない態度と、泣いた跡のある顔に気付いた。
「ううん、何でもない。何にもないよ」
「本当?」
憲人の怪訝そうな顔。
「小母様が待ってるから、早く行こう」
憲人の母親を見舞うため、二人で校門を出た。
西山駅前からバスに乗る。
目指すは憲人の母親の入院している病院。
座席が空いていたので、二人で一緒に座る。
「アメリカへの出発、明日だけど、純ちゃん、空港まで来れる?」
「え?」
純は、敏のことで頭がいっぱいで、憲人の話しが耳に入っていなかった。
「明日、空港に来れる?」
「あ、ああ・・・お見送りね。行くよ、もちろん」
口ではそういったものの、純の心を占めるのはぜんぜん別のことだ。
「純ちゃん。どうかしてるよ。本当に大丈夫?」
泣いた跡のある、今も顔色の悪い純を思って、憲人は心配でたまらない。
「何でもないから。大丈夫だから」
純は、明日アメリカに発つ憲人を心配させてはいけないと思い、平気なふりを演じなければならなかった。
憲人の母親の入院している病院は、明るい外観の総合病院だった。
憲人は慣れた様子で、純を六階の病室まで案内した。
「来てくれたのね」
パジャマにカーディガンを羽織った憲人の母。
ベッドの上の脚が痛々しい。
「お久しぶりです。お加減いかがですか?」
憲人の母親は、いつもの美しい笑顔。
「手術の後は痛かったけど、今日はもう、動かさなければ痛みは無いのよ」
そう、言って彼女は純の顔を見た。
「純ちゃん、顔色がよくないみたいだけど・・・」
「そうですか?今日はちょと暑かったから、少し疲れているのかもしれません」
純は誤魔化した。
「そう?気をつけてね」
「はい」
「そういえば、憲人の作った曲を、今年の発表会で演奏してくれるんですって?」
「ええ、とってもすてきなセレナーデです」
「あら、セレナーデなの?私には楽譜も見せてくれないし、何にも教えてくれなかったのよ」
憲人の母は意味深な微笑みをベッドサイドに立つ二人に投げかける。
「でも、いいわ。発表会に行って、純ちゃんの演奏を聞くことにするから」
「練習、頑張ります」
純は、憲人の母と発表会で会う約束をした。
そのあと、憲人と母親は、留学中のことで話しがあるとのことで、純は席を外すことになった。
一階のロビーで、純は憲人を待つことにした。
エレベーターで一階に降り、待合室の隅っこの席に座る。
純の座った席のそばに、ベビーベッドが置いてあり、小さな女の子が眠っていた。
その子の母親はどこにいるのか、純は心配になってあたりを見渡す。
午後の診察時間が始まるらしく、七、八人の診察を待つ人がいるけれど、その子のママらしき人はいない。
気になって女の子を見つめる。
そのうちに、女の子は目をつぶったまま、グズグズ泣き出した。泣きながら目を覚ましベビーベッドの柵につかまって起き上がる。
「ママ~ッ!ママ~ッ!」
と、泣きながら、純の方に手を差し伸べる。
純は小さな子をどう扱ってよいのか分からなかったけれど、立ち上がってベッドのそばに寄り、柵ごと女の子を抱きしめた。
「大丈夫よ。大丈夫・・・」
女の子は純を母親だと勘違いしているのか、しがみついてくる。
女の子の体がとても熱い。熱があるらしい。
汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら、女の子は泣いている。
「ごめんなさい。ありがとう」
その子の母親らしき人が、慌ててやって来た。
純がほっとして、女の子から離れた。かわって、その女性がその子を抱き上げる。あっという間にその子は泣き止んだ。
「純ちゃん、どうしたの?」
憲人がそばにやって来た。
「あ、ううん。小さな女の子がママを探していたから・・・」
憲人と二人で、診察室に入って行く母子を見送った。
「じゃ、帰ろうか」
憲人は純を促し、病院を後にする。
明日の見送りの約束をして、純と憲人はバス停で別れた。
バスに乗って、座席にすわったとたん、敏とのことを思い出し、純の目に涙が浮かぶ。
こっそりハンカチで目を覆った。
『関係ない』『どうでもいい』
敏の声が、心の中で繰り返される。涙があふれるのを止められない。
夕食時、珍しく父親の勝が早く帰って来た。
「どうした?」
「え?なにが?」
「なんだか顔色が良くない気がするけど?」
憲人の母と、同じことを言われる。
「そう?暑かったからかな。なんでもないけど」
同じ答えをする純。
「そうか。私は明日から出張だから、気を付けて過ごしなさい。藤井さんも一週間休みだし・・・」
「大丈夫。明日から夏休みだから、ちょっとはゆっくりできるから。それと、明日は憲人を見送りに空港まで行って来る」
「純もアメリカへ行きたかったか?」
「ううん。それはもういいの」
「明日から夏休みなら、ゆっくりこれからのことを考えてみなさい」
「ええ、そうする」
今の話題には関係ないはずなのに、再び心に浮かぶのは敏のことだ。涙が滲む。
「やっぱり、留学したかったか?」
「え?」
「留学したいなら、勉強したいことがはっきりしてからだよ」
勝は、純の涙目の理由が留学についてのことだと勘違いしたようだ。
寝苦しい夜。
純の心を占めるのは、敏の言葉だけだ。
彼からもらったペンケースを抱きしめ、暗い天井を見つめる。
涙が耳を濡らす。
今夜は、眠れない夜にいつもするように、母の残したCDを聞く気持ちにもなれなかった。




