渡の胸の内
純が皆を見送って家に入ると、さっきまで賑やかだった家がしんと静まり返っていた。
寂しさを振り切って、キッチンに運ばれていた皿やカップを洗い始めた。
ふいに、インターホンが鳴る。
「僕です。渡・・・」
「どうしたの?忘れ物?」
急いで門扉の暗証番号錠を開錠して、玄関に向かう。
玄関の扉を開けると、外にはすでに渡が立っていた。
「翔君は一緒じゃないの?」
「一人で戻ってきました。正確に言うと、翔さんを巻いてきました」
そう言っている渡の暗い声が、純を不安にさせる。
「巻いて・・・って?どうしたの?」
渡は無言で、純の左手首を握りしめた。
背の高い渡を、純は見上げる。
渡の、いつも以上に真剣そのものの顔。
「純ちゃん、憲人とアメリカに行ったりしないでください」
「え?何でそれを?」
「憲人から聞きました」
純が驚いて渡の目を見る。
『まだ、お父さんにすら、言ってないのに・・・』
「それと・・・」
渡が純の眼差しから目をそらす。
「村上さんのこと・・・好きにならないで」
と、言ったとたん、純を握りしめた手に力が入り、純を抱き寄せた。
不意を突かれて、純は渡の胸に倒れ込む。
渡は両腕に力を込め、純を抱き締めた。
「お願い・・・誰のものにもならないで。翔さんや、貴さんのものにも・・・。お願い」
苦しく切ない声でせがむ。
「渡・・・」
純は、渡の広い胸から離れようと、もがいた。
「ダメ?」
純は、思いのほか自分が冷静なのに気付く。
「ダメなのは、こんなことをしちゃうことよ。離して」
「ごめんなさい・・・僕・・・」
渡は力を緩め、純を身体から離した。そして、青ざめてうつむいてしまった。
「ごめんなさい」
ふたたび渡が謝る。
「びっくりした」
いつもは大人びて落ち着いている渡が、衝動的な行動をしたことに、純は驚きをかくせない。
「アメリカに行く話は、まだ父にも一言も言ってないし、音楽教室の皆のことは、全員親友だと思っているから。そういうことだから」
純からすれば、渡もその親友の一人だということなのだが、興奮している渡は、そのことに気付いてない。
渡は、安堵の表情だ。
「ね、ほんとに遅くなっちゃうから、早く帰って」
渡の母親・・・純のピアノの先生・・・が、教育熱心で躾に厳しいのを知っているから、きつい言い方になってしまう。
「あ・・・ええ」
渡は、何度も振り向きながら、門を出て行った。
純は、渡の会話の中で、村上敏については全く触れていない。
そのことに、渡は気付いただろうか?
純は、真摯な渡にウソをつくことが出来なかったのだ。
『渡があんなことをするなんて・・・』
「誰か来たのか?こんな時間に」
二階から勝が降りて来た。
『お父さんに、今のシーンを見られなくてよかった・・・』
純は平静を装う。
「渡が忘れ物を取りに来ただけ」
「そうか」
勝はそれ以上、詮索しなかったから、純はホッとする。
その日は、サマースクールの話しをする余裕はなくなってしまった。
勉強のためとはいえ、敏を想いながら、憲人とアメリカに行くことは抵抗がある。
でも、語学留学には、とても魅かれるものがある。
しかし、『階段事件』のどさくさに紛れ、純自身、パンフレットも見ていない。何の準備もないまま父親に話すことは出来ない。
『理詰めで説得できなければ、そう簡単に行かせてくれるとは思えない』
高校受験の時の、勝の威圧的な態度を思い出し、渡のことも相まって、どんどん憂うつになっていった。




