涙とエプロンと
純が部屋から出て行くと、貴久はグランドピアノで適当なフレーズを弾き始める。
「一時間に一回起こすって、何のことですか?」
敏は貴久に聞いてみた。
「医者の指示。頭を打っているから、一時間に一回意識があるかどうか確認しろって。寝ている間も起こして、な」
そんなことより、もっと気になっていることを聞いてみる。
「あの・・・住吉さん、金松先輩の家に泊まったんですか?」
「ん?泊ったよ。あいつには母親がいないの知ってるよね?」
「ええ、さっき知りました」
「さっき?さっきか・・・。そっか。まあ、純はそういうヤツだな・・・。そういうわけだから、あいつの父さんが看病出来ないときとか、家に来るけど、それが何?」
『・・・金松先輩と住吉さんの仲は、親公認なのか・・・』
敏はそう思い込んだ。
黙り込む敏を見て、貴久はハッとして、ピアノを弾く手を止める。
「村上。何か勘違いしてる?」
「勘違いって?」
「俺と純・・・何だと思っているの?純から何も聞いてないの?」
「金松先輩、住吉さんの彼氏なんですよね?」
貴久は切れ長の目を丸くした。
『そうだったら、どんなにいいだろう』
悲しい想いを押し殺し、精一杯明るい声を出す。
「何、それ・・・なんでそんな話しになっちゃってるの?」
ハハハッと空虚な笑いをして、貴久はピアノの鍵盤の上にエンジ色のフェルトを掛け、蓋をしめた。
そして、丸テーブルの席に戻って、敏と向い合せに座る。
「違うんですか?」
「俺と純は、従兄妹だよ」
「え?」
「誰が彼氏だなんて言ったんだよ」
敏は黙ってしまった。
『・・・思い返せば、誰から聞いたわけでもなく、二人がバイクに乗って帰るのを見たのと、良太がこの街のスーパーで買い物をしている二人を見ただけだ』
「勘違いしてました。僕と良太とで、何度か金松先輩と住吉さんが一緒にいるのを見かけたから」
「ま、純とは従兄妹というより、兄弟って感じかな・・・あいつは弟だ」
「弟?」
「あれが女に見えるか?」
貴久は自分の気持ちを冗談で誤魔化すことしか出来なかった。
「ええ?」
敏が貴久の顔を見る。
「聞いてるぞ。同じクラスになったとき、男と間違えたって話し」
貴久は笑いを浮かべた。
「はぁ・・・」
敏はその時のことを思い出して、ため息をついた。
「純が中学一年の終わりから、中学を卒業するまで一緒に住んでいたから、俺たち、兄妹みたいなもんだよ」
「そうなんですか・・・」
「純が小学生の時、母親が病気で入院してから、俺ん家の隣の家に住んでたお祖母さんと暮らしていたんだけど、そのお祖母さんも中学の時に亡くなって、それで俺たちと暮らすことになったんだ」
どんな思いで純が育って来たのか、重い話しに、敏は胸が痛くなる。
「母親が死んだ時も可哀想だったけど、お祖母さんが亡くなって、純、すんごく泣いたな・・・」
貴久はもちろん、敏の目にも涙が滲む。
「・・・」
「母親が病気になって、お祖母さんの家に来るのに転校もしたし、母親も亡くしたし。そのうえお祖母さんも突然亡くなって・・・。そんなふうだから、パッとした性格じゃないし、無口だから友達も少ないし」
「そうだったんですね・・・」
「父親とは、ずっと離れて暮らしていたし、高校受験のとき、どこに入るかで揉めたから・・・」
「それ、ちょっとだけですけど、聞いています」
「ああ見えて、けっこう頑固だからな。父親とあんまりうまくいってないみたいで・・・」
「こんな広い家で、お父さんと二人だけで済んでいるんですか?」
「普段は家政婦さんが来てるんだけど、土日は休みだから」
「そうなんですか・・・」
「だから、俺とか弟とか、音楽教室の仲間とか。入り浸ってる」
敏は部屋をぐるりと見渡した。
「そういえば、さっき純が言ってた遠足の時のこと・・・」
「ええ」
「純、泣いたんだって?」
「ええ、まあ」
「母親がまだ歩けるころ、最後に行ったのが、そこの動物園だったんだって」
「それで、ですか・・・」
「すっかり忘れていたけど、思い出して泣いちゃったって。村上を心配させたのに、何で泣いたのかも言えないって、落ち込んでたんだ」
「住吉さん。金松先輩には何でも話すんですね」
敏は、純が自分に対して、どこか心を閉ざしているような気がして、寂しく思った。
「弟だからな。放ってはおけない。俺は兄さんだから・・・」
貴久は苦しいセリフを吐く。どこか、胸の深い部分で涙が流れているように感じる。
「俺も受験だし、卒業したらそばにはいられないから・・・。純と仲良くしてやって欲しいんだ」
『弟』と言って『妹』以上に思いやる、貴久の尋常でない優しさを、敏は一瞬不思議に思った。
しかし、それは自分を同じ想いなのだということを、すぐに理解した。
そして、貴久の目を見つめ、黙ってうなずいた。
沈黙した貴久の切れ長の目は、純のそれに似ていると敏が気づいた瞬間、ベッドルームの方から、小さな音でピアノ曲が流れた。
「お、純の携帯が鳴ってる」
そう言って、貴久が開けっ放しのベッドルームのドアに近付いた。
さすがに貴久も中には入らず、覗いただけで廊下に通じるドアから出て行った。
貴久が出て行ってすぐに、家の電話の呼び出し音がベッドルームから聞こえて来た。
見てはいけないとは思いながらも、敏は立ち上がり、純のベッドルームを覗いてしまう。
南側の窓にはこちらの部屋と同じ淡いグリーンのカーテン。
部屋の中央にピンクのカバーの掛かったベッドがあって、その上にスマホが置きっぱなしで、着信の知らせが点滅している。
ベッドの枕元に四角い小さなテーブルがあり、その上で電話の子機が鳴っていたが、すぐに音は消えた。
別の部屋で電話に出たらしい。
その四角いテーブルには、電話と共にぬいぐるみが幾つも並んでいる。
遠足の時のキリンのぬいぐるみも見える。
敏が立っている側のドアのそばに背の低いタンスのようなものが置いてあり、その上に古そうなオーディオプレイヤーが置いてあった。一緒にCDがたくさん並べてある。
ベッドの足元に、一人掛けのソファ。
『そこに座って、音楽を聴くのかな・・・』
ソファに座る、ピンクの服の純を想像してしまった。
足元側には、廊下に通じるドア。
ベッドの向こう側の壁一面にクローゼット。
あっさりした勉強部屋の雰囲気とは違って、ベッドルームは女の子らしい可愛らしさであふれていた。
足音が聞こえて、敏は慌てて丸テーブルの席に戻った。
「メシの用意、出来たって」
貴久のあとに付いて、廊下を西に行く。
突き当りのドアを開けると、そこがリビング。
ソファセットとテレビがあった。北側の窓際に飾り棚。
その部屋を通り過ぎると、ダイニングとオープンキッチン。
「翔君と渡が来るって」
デニムのエプロン姿の純が貴久に伝えた。
「何しに来るんだ」
まるで邪魔しに来るみたいな言い方。
「今日、ピアノ休んじゃったから、バレちゃって。お見舞いに来るって」
敏は純のエプロン姿にぼうっと見とれていた。
「早く食っちゃおうぜ。あいつら来ると煩いから」
料理が用意されたテーブルに、貴久がさっさと陣取る。
「誰か来るんですか?」
敏も純に促されて席に着いた。
貴久への質問に、純が答える。
「私の音楽教室のピアノの先生の子供の清水渡君と、お教室の仲間の加賀美翔君」
「何時ごろ来るって言ってた?」
貴久は『いただきます』も言わないまま食べ始める。
「レッスンが終わったら来るって」
壁の時計を見ると、五時を回ったところだ。
「憲人も来るのか?」
憲人の名前が出て、正直なところ、敏の心がざわついた。
「たぶん来ないと思うよ。憲人はもうピアノのレッスンに来てないし。土曜日も音大の先生に付いてバイオリンのレッスンしてる。今はお教室にバイオリンだけ火曜日に習いに来てるの」
「あいつら二人だけだって煩いんだから・・・とにかく食っちゃえよ」
まだ夕食には早いが、貴久は昼食抜きだし、敏は満足に食べていない。
純の料理は、高校生が作ったとは思えない出来栄えだった。
焼き魚に野菜を炒めたもの、みそ汁にご飯。
そして貴久が頼んだ卵焼き。漬物まである。
「純がまだ俺ん家にいたころ、朝ごはんは毎日、純が作ってくれていたんだ、家族全員分・・・」
貴久が口にご飯を詰め込みながら言う。
「貴兄さん、村上君に何を話したの?」
「え?・・・純が困るようなこと」
貴久はニヤッと笑って、敏の方を見た。
何か変なことを話してないか、純は敏の顔色をうかがった。
「え?」
敏はどうしたらよいのか分からず、純と貴久の顔を見比べた。
「ふふふ。ウソ!・・・ともかく『純の卵焼きは最高!』ってことだ」
敏も純もそれぞれホッとして食事を始めた。
純の料理は見た目だけでなく、美味しかった。
「とっても美味しいよ」
純は敏の言葉に思わず破顔した。
敏が見たかった、心の底からの笑顔。
笑顔の純が美しく可愛らしかった。
そんな純を、寂しげな微笑みを浮かべて貴久が見ているのを、敏は目の端でとらえた。




