扉の向こう
インターホンを押しそびれた敏は、電話を掛けた。
純はすぐに出た。
「今、どこ?」
「たぶん家の前。表札が無いから・・・」
「私、もう家に帰ってるよ。今、門を開けるね」
カチャリと小さな音がして、門が開錠される。
門を押して庭に入るのと同時に、玄関のドアから純がぴょこんと顔を出した。
敏は、久しぶりに純の顔を見たような錯覚に陥る。急いで純のそばに行った、
「ケガは?」
「もう大丈夫だから・・・。そんなに気にしないで」
湿布のメントールの匂いが敏の鼻をかすめた。
「中に入って。どうぞ」
敏は一瞬、広い玄関に戸惑う。
床がフラットで、どこで靴を脱ぐのか分からない。
渋いベージュと茶色に統一された玄関。何鉢かのグリーンがアクセントに置かれている。
純は敏の戸惑いに気付いた。
「靴のまま入ってね」
敏は、靴のまま歩ける、まるきり洋式の家に入るのは初めてだ。
純は、少し右脚をかばう歩き方で、先に廊下を歩いて行く。
学校では見たことの無い、ピンクのロングTシャツに黒白のギンガムチェックのスキニーの純。
素足にサンダル。その、足首の華奢さ。
敏は純に『女の子』を感じて、ドキドキする。
実は、ピンクのロングTシャツは、金松の家から伯母の京子に送られて帰る途中、痛む脚をものともせず急遽買って来たものだ。
こんな時ですら、いや、こんな時だからこそ敏に少しでも女の子として認めてもらいたいと純は思ったから。
突き当りを右に曲がり、右手の二つ目のドアを開けて、純は敏を招き入れた。
十畳以上はあろうかと思われる広い部屋。
淡いグリーンのカーテン。レースのカーテン越しに薄日が見える。
部屋の中央には、反響板の蓋が閉じられた小さ目のグランドピアノ。
その奥、南側の窓際に丸テーブルと背の高い椅子が二つ。
テーブル席とグランドピアノの間に譜面台が一つ。
東の壁に飾り棚。棚のガラス戸の中にはバイオリンが二つ置いてあり、棚には教則本や楽譜がぎっしり並んでいる。
部屋の東西にもドアがあって、両方とも開けっ放しになっていて、隣の部屋が見えていた。
西側のドアの向こうの部屋の、ピンクのカバーの掛かったベッドが敏の視界に入ってしまった。
慌てて見なかったふりをして、純にすすめられた丸テーブルの席に座った。
「お茶を入れて来るから、待っててね」
「いいよ。まだ、痛いんだろ?脚・・・」
「大丈夫。もう準備は出来てるから」
そう言って、純は部屋を出て行く。
敏は勝手に、開け放された東のドアの方に行ってみた。
ベージュ色の東側の部屋は、南北に長く、部屋の西の壁向きに勉強机とパソコンなどの機器が載ったテーブル。
ドアを挟んで、一台のアップライトピアノ。
敏は、純の家の事情を知らないから、ピアノが二台もあることが驚きだった。
北側には本がぎっしり詰まった本棚。東側には外に通じているドアがある。
「お茶、どうぞ」
いつの間にか、純がそばに来ていた。
「あ、ごめん。勝手に見ちゃって」
「別に、いいよ」
「ピアノが二台もあるなんて、すごいね」
「うん。まあね。でも私のじゃないから」
敏は紅茶のセットの置かれた丸テーブルの席に戻る。
「自分のじゃないって、どういうこと?」
「母のなの。母が音楽教室をやっていたから・・・。この部屋と勉強部屋は、もとはお教室。ベッドルームは母の部屋だったの」
「だった・・・って。今は音楽教室やってないの?」
「うん、母がなくなったから」
「え?」
純がこともなげに、母親のことを言うのにもびっくりしたし、今までそんな事情を一言も口にしなかったことにも驚いていた。
「あ、そうだ。ノート貸してもらっていい?」
敏の驚きを気遣ってか、純が話題を変える。
「そうだったね」
ショルダーバッグからノートを数冊出して手渡す。
純は勉強部屋に入って行く。
敏も後を追った。
ノートの中身を確かめながら、純はスキャナでコピーを取る。
その間、敏は純の机の前に座って、机にくくりつけになっている棚を眺めた。
教科書やノートなど、勉強に関するもの以外、何も置いていない。
女の子にありがちな、小物類は一つも置いていない。
机を離れ、北側の本棚の前にも行ってみた。
本棚に並んでいる本の背表紙を眺める。
目立つのは音楽関係の本と雑誌類。
動物の本。好きだと言っていた恐竜の本もある、
将来のことを考えているのだろう、建築関係の本。
そして、小説が少し。
「本棚は見ないでよ」
純は恥ずかしそうな顔で敏を見ている。
「なんで?見ちゃだめだった?」
「なんか・・・自分の頭の中を見られてるみたいで、恥ずかしい」
「そっか。ごめん。僕も自分の本棚見られたら、ちょっと恥ずかしいかもしれない」
敏は笑って、本棚から離れる。
コピーが終わって、二人ほ丸テーブルの席に戻った。
二人のいる部屋の窓に、黒く人影が映った。
敏が驚いていると、その影は窓をコツコツ叩いた。
「お~い!開けろ!」
と、男の声。
『門扉には暗唱番号錠が付いていて、簡単には入れないんじゃなかったか?』
敏は何も知らないから、恐怖さえ感じる。純が驚いていないのが、意外だった。
「貴兄さんだ」
「貴兄さんって?だれ?」
敏はレースカーテン越しに人影を追う。
「今、開けるから待って」
純はそう言うと、勉強部屋に入って行き、東側のドアを開けた。
ドアから入って来たのは、金松貴久だった。
手にはヘルメット。
「なんだ、村上が来てたのか」
敏は慌てて椅子から立ち上がり、先輩に頭をさげた。
『なんか、すごくマズイ気がする』
敏は貴久の登場に焦っていた。
純はせっかくの二人きりの時間が大幅に短くなったことにガッカリしている。
「何で来たの?」
つい、普段なら言わないようなセリフまで出てしまう。
「なんでって、監視だよ。村上と変なコトしてないか、監視」
半分冗談で、半分本気だ。
敏は血の気が引く思いだ。下心を完全には否定できない。
そんな敏の様子を、貴久は面白そうに見る。
「ウソだよ、村上。マジになるなよ。純の様子を見に来ただけだから」
「もう大丈夫だから。貴兄さんも、お茶飲む?」
「お茶より、何か食わして。昼メシ食いそびれた~」
純に甘える貴久を、驚いて敏が見つめる。
敏が見て来た貴久と、イメージが違い過ぎる。
「とりあえず、お茶を飲んで待ってて。用意するから」
「純。その服は何だよ。女の子みたいじゃないか」
誰のためのピンク色なのか貴久は分かってしまって、胸がジリジリしてしまう。
「別に?いつもと変わらないでしょ?」
純は一瞬顔を赤らめ、次いでちょっと口をとがらすと、部屋を出て行った。
学校にいるときには見たことの無い、純の豊かな表情に敏は驚く。
『金松先輩と一緒のときは、あんなにリラックスしてるんだ』
純はすぐに貴久の分のお茶を用意して来た。
「あの、村上君。今日ってこれから何か予定ある?」
おずおずと純が聞いた。
「え?別に何にもないよ」
「ご飯、食べて行ってくれない?」
「ご飯?・・・お見舞いに来たのに?」
「遠足のときのペンケースのお礼してないし・・・」
純は言いよどんだあと、言葉を続ける。
「遠足のとき、心配させたお詫び・・・」
「純、ずっと気にしてたんだぜ」
貴久は口を挟むことで、言い知れぬ寂しさを隠した。
そんな貴久の想いに気付かない純は、
「それに、今度のことも、お詫びしたくて」
と、純は敏を見つめる。
「今度のことは、詫びるのは僕の方だよ・・・」
敏はすまなそうな顔になる。
「俺にも詫びてくれよ~」
貴久は冗談を言って、この状況を切り抜けるしかなかった。
「何で、貴兄さんにお詫び?」
「ゆうべ二時まで一時間に一回起こしてやったのは俺だよ」
「え?伯母様じゃなかったの?」
「二時までは俺。あとは知らん。母さんが起こしたかも」
敏の頭の中はごちゃごちゃしていた。
『一時間に一回起こすって何のこと?』
そんな敏の様子を、貴久がちらりと見た。
「ねぇ。村上と待ってるから、メシ、早くしてよ」
貴久が子供みたいにお願いをする。
「絶対、玉子焼きも作ってよ」
「分かっているから」
純が呆れた顔で部屋から出て行った。




