心乱れる発表会
ピアノの発表会の当日は、高校生は朝早くから会場に詰める。会場の準備は高校生の役目だからだ。
この日のために、会場には某有名ドイツメーカーの大きなグランドピアノが用意される。
純たちは、このメーカーのピアノが弾けることは、楽しみのひとつだった。
準備の途中で抜け出して、純は毎回お願いしている会場近くの花屋に行く。
小さな花束を四つ予約していた。
先生、渡、憲人、翔の四人に、それぞれの演奏が終わった時に渡すのが恒例になっていた。
今日は、父の勝も純の演奏を聞きに夕方来ることになっている。
幼稚園生から社会人まで、学年順に演奏するから、高校生の番が来る頃には、外は暗くなっているはずだ。
花束を抱えて、会場の楽屋に入る。
小さな子供たちが、着飾ってはしゃいでいた。
翔が子供たちに振り回されている。翔は意外に子供好きだし、小さな子たちに人気だ。
会場には、子供たちの親や出演者の子供たち、そしてその友達などで、ざわめいている。
発表会がはじまり、先生方の挨拶に続き、小さい子たちの可愛らしい演奏が始まった。
毎回、純はこのシーンを目にするたび、亡くなった母を思い出してしまう。
小学二年生のときだった。母親が開いていた音楽教室の発表会で、母親とピアノの連弾をしたこと。
まだ、母親が元気だったときのことだ。
それから間もなく病を得て、入退院を繰り返すようになって、音楽教室を閉じることになった。
普段、純は母親のことを出来るだけ思い出さないようにしているのに、こういうときは、あふれる思い出を止めることが出来ない。
「どうかしたか大丈夫か?」
翔は純の顔色を見て心配顔をする。
「うん、大丈夫。なんでもないよ。ちょっとママを思い出しちゃっただけ」
「そっか・・・。今日は憲人の母さんも来るんだから頑張れ」
憲人の母親は、純の母親の大学の同級生で親友でもあったから、純を何かと心配してくれる大人の一人だ。
お昼を挟んで小学生の演奏が終わり、夕方近くなってやっと中学生の演奏が始まった。
純は、父親の勝にそろそろ会場へ来るようにメッセージを送った。
渡の演奏が終わり、憲人の演奏が始まる。
憲人は白いシャツにグレーのベスト、黒いパンツ。そして白い蝶ネクタイを結んで、舞台に立った。
純は渡にわたしたのと同じ花束を持って、舞台下の隅に立ったまま、憲人の演奏に耳を傾けた。
『やっぱり、すごい・・・』
どんなに努力しても、憲人の域には到達できないと感じてしまう。
しかも、憲人はピアノよりバイオリンの方が全然得意なのだ。バイオリンでいくつも賞を取っている憲人の演奏を思うと、自分の才能の無さに失望してしまいそうだった。
憲人の演奏が終わる。憲人に花束を渡すため、純は小走りで舞台の前に急いだ。
女の子が三、四人同じように花束を憲人にわたしている。憲人の『ファン』の女の子たちだ。
憲人が照れた顔で花束を受け取っている。
純は、最後に花束をわたすと、急いで舞台裏に回った。
高校生の演奏が始まる。
純はブルーのワンピースに着替えた。
ワンピースは純の母親が発表会に着ていたもののうちの一着で、ロングドレスだったものを翔の母親がひざ下丈のカクテルドレス風に仕立て直した。
純が舞台のそでで順番を待っていると、翔もやって来た。
翔は純のすぐ後に演奏する。
「今年はドレスなんだ。へぇ」
「翔君の小母様が、母の古いドレスをお直ししてくれたから」
「その色、似合ってる」
「そう?・・・」
「それなら男には見えないぞ」
翔はからかったが、純は翔の冗談に反応する余裕はなさそうだ。
「うん、そうだね・・・」
いつになくひどく緊張している純の横顔を、翔は心配そうに見つめる。
純の番が回ってきた。
舞台の袖から舞台上のピアノのそばまで進む。
観客席に向かって一礼し、ピアノの前のイスに座る。
一瞬会場が静かになって、演奏が始める。
心の中で歌を歌うように、歌詞を思い浮かべる。
ジャズを知らない人でも、耳にしたことのある名曲。
転調と複雑なリズム。
夏休みからずっと今まで、納得できる演奏は、一度も出来たことが無かった曲。
『なんとか曲をまとめなければ・・・』
焦りが純の心を乱れさせる。
純はやっとの思いで、演奏を終えた。
会場で拍手が鳴るけれど、緊張の解けない純の耳には届かない。
左手をピアノに添えて一礼する。
呼吸が整わないまま、舞台の前方に進み、憲人と渡からの花束を受け取っていると、もう一人、花束を持って近づいて来る人影に気付いた。
「和幸さん・・・」
憲人と渡が不審そうな顔で、和幸をまじまじと見ている。
「上手だったよ」
純に花束をわたしながら、和幸はささやくような仕草で純に言葉を掛けた。
思いがけない和幸の登場に、純は言葉もなかった。
ボロボロの演奏を和幸に聞かれてしまったショック。
『こんな演奏をしているのに、音楽を進路に選びたいなんて言った・・・』
恥ずかしさと後悔と。純は急いで舞台を後にした。
発表会に和幸が来ているのはなぜか・・・。
『父が呼んだからに違いない』
そう思うと、純は発表会が終わって後片付けが済んでも、家に帰りたくなかった。
近くのファミレスで、打ち上げの食事会をするというので、純も参加することにした。
純が打ち上げのメンバーと一緒に出て行くと、ロビーで和幸が待っていた。
「ブルーのドレス、似合ってたよ」
相変わらず、爽やかな笑顔だ。
「お花、ありがとうございます」
純は硬い表情で礼を述べる。
「花を買うなんて、したことないから・・・。あれでよかったかな?」
「とても綺麗です。ありがとうございます」
純は、渡、憲人、和幸からと、教室全員が最後に貰える花束の四つも抱えていた。
憲人が『ファン』の女の子たちからたくさん貰って抱えきれない花束を、母親に預けに行っている。
純と和幸は、二人でその姿を見送りながら、言葉をつづける。
「もう帰れるの?」
「いいえ、この後、食事会なんです」
「そうなんだ。残念だな。食事に誘うつもりだったんだけど」
和幸はがっかりした様子だ。
「ごめんなさい。また今度・・・」
和幸の顔がさらに曇った。
「『また今度』って、いつ?なかなか君から連絡がないから」
「それは・・・あの・・・」
「やっぱりまた、僕から誘ってもいいかな?」
「え?・・・あの・・・はい・・・あの・・・今度の日曜なら・・・」
純は申し訳なくなって、つい約束を口にしてしまった。
「ほんと?」
パッと和幸の顔が晴れやかになる。
「じゃ、日曜の十時に君の家に迎えに行くから」
最後に笑顔を見せて、和幸は帰って行った。
純は自分から言い出したことなのに、また和幸に押し切られたような気持ちになってしまった。
和幸を見送りながら、夏休み、貴久とハグしながら泣いた日のことを思い出した。
『貴兄さんは、行くな・・・って言ってたけど・・・。和幸さん自身は良い人だけど・・・』
自分の中で、和幸と約束をした言い訳を探しているのかもしれない。
誰かの「純ちゃん、行っちゃうよ」の声に、はっとして自分も花束と衣装を預けるため、父親を捜した。
勝は花と衣装を受け取ると、
「先に帰っているから」
と、だけ言って帰ってしまった。
『お父さんが和幸さんを呼んだはずなのに。和幸さんが花束を私にわたしたのを見ているはずなのに・・・』
何か悔しさに似たものを感じてしまう。
ファミレスに行く道すがら、純は翔と渡、憲人に取り囲まれた。
「さっきの人、だれ?」
翔が純の腕を取った。
「伊藤建設の社長の息子さん」
「あの、『お見合い』の?」
と、渡。
「うん・・・」
「純ちゃんが発表会に呼んだの?」
憲人は純の表情を探るように見た。
「ううん、父が呼んだみたい。私は来るって知らなかったの」
純は皆の視線を避けるように、歩みを速めて先を急いだ。
打ち上げの席でも、純は浮かぬ顔で無口なままだった。
落ち込んでしまうほど、残念な演奏。
和幸とのこと、父親との関係。
三者面談も目前なのに、何から考えていいのか、途方に暮れていた。




