忘れ物
夏休みも終わりに近づいて来た。
純が朝の家事を終わらせ、ピアノの練習をしていると、携帯の電話が鳴った。
父親の勝からだった。
「悪いが、私の机の上にある書類を会社に持って来てくれないか?」
「いますぐ?」
勝が忘れ物をするなど、珍しいことだ。
「十一時からの会議に間に合うように。受付の人に渡せばいいから」
純は時計に目をやる。十時少し前。
会社までバスを使えば十五分くらいで行ける。
「わかった。すぐに出かけるから」
純は携帯をもったまま、勝の部屋がある二階へ駆け上がる。
勝の部屋を開けると、書類は封筒に入って、きちんと机の上に置いてあった。
違和感を感じるほど・・・。
外出の準備が整うと、純は封筒を持って会社に向かった。
十時半を回ったところで、会社に到着した。純は受付の女性に書類を差し出す。連絡は入っていたらしく、内線で書類が届いた旨を伝えたあと、受付の人がそのまま書類を持って、エレベーターに消えて行った。
純が帰ろうとしたとき、エレベーターと反対方向の階段から一人の女性が降りて来た。
スーツ姿だったから気付くのが遅れたけれど、伊藤建設の社長秘書、社長の娘の伊藤真理だった。
「久しぶりね」
真理はにっこりして、純に声を掛ける。
「こんにちは」
純はドギマギしながらも、笑顔を作った。
「うちの社長・・・父のお供で来てたの。これから、あなたのお父様と父は会議なの。あなたは?お父様の会社によく来るの?」
「いいえ、年に一回か二回くらいです」
「会議が終わるまで時間があるから、お茶でも飲まない?」
「ええ・・・」
真理は会食の時とは違って、テキパキとした感じだ。
会社近くのカフェに入った。
「どう?夏休みの宿題は終わった?」
真理はにこやかだ。
「はい、やっと終わりました」
「まだ早いけど、お食事にする?」
真理がメニューを見て言う。
「いえ、お茶だけで・・・」
「そう?忙しいの?」
真理はメニューから目を離し、チラリと純を見た。
「ええ、まあ・・・」
純は、真理と過ごせるのは嬉しかったけれど、和幸との『お見合い』が頭によぎって何か落ち着かなかった。
「和幸を誘ってくれないのは、忙しいせい?」
「え?」
「和幸が言ってたの。この次は純ちゃんの方から誘ってくれる約束になってるって。違うの?」
「え?・・・ええ、まあ・・・そうです」
「和幸のことが、イヤ?・・・好きになれない?」
真理が思いのほか、大胆な質問をする。
「あのぅ。まだ、二回しか会ってないのに、好きとか嫌いとか・・・」
なんて言っていいのか、純は口ごもる。
「あら、そう?会った回数が問題?私はあなたと会うの、今日で二回目だけど、私はあなたが好きよ」
「私も、真理さんのこと、好きです」
純が大真面目に答える。
「和幸と私と、何が違うの?」
「それは・・・」
純は答えに窮した。
「和幸にチャンスをあげてね。和幸はあなたを気に入ったみたいだから」
「はぁ・・・」
あいまいな返事しか、純は出来なかった。
会話が途切れて、真理が店員を呼び、オーダーする。
二人に飲み物が届くと、真理は話題を変えた。
「和幸は、大きな交通事故に巻き込まれたことがあって。それからちょっと変わったの」
「交通事故・・・ですか?」
「ええ、お友達と一緒にね。和幸は軽傷だったけど、お友達は大怪我をしたの。事故に遭って、お友達を心配したり、自分が心配されたり。それで『自分は自分のものだけど、自分のだけのものではない。自分が生きているのは、自分のためだけど、自分のためだけではない。』って思ったそうよ」
「自分は、自分だけのものではない・・・自分のためだけではない・・・」
言葉をくりかえしてみる。
「そう。そんなことがあって、それまで父の会社を継ぐのをイヤがっていたのに、変わったのよ」
「・・・」
純は黙り込んでしまった。
「なんか、難しい話しになっちゃったわね。とにかく、よかったら、和幸を誘ってあげてね」
真理は優しい微笑みを残して、純の父親の会社に戻って行った。
『後ろ姿も綺麗・・・」
純は真理の後ろ姿を見ながら、
『自分だけの自分』と『自分だけのものではない自分』の、境界線はあるのだろうかと、ぼんやり考えていた。




