ep.7 テストと三者面談
脳死で一夜漬けした俺に怖いものなんか何もない。あえて怖いものを言うとするなら俺の妹といったところだ。
先日、妹に殺されかけた男、そう、俺だ。
俺は普段よりも重い足取りで朝の通学路を歩く。早い時間だからか、辺りは静けさに満ちている。街の喧騒は遠く、ここだけ時間が止まったようだった。アスファルトに落ちる自分の影だけが、やけにはっきりと伸びている。
今日は期末テスト当日、俺が目指すは学年で半分くらいの順位といったところ。一夜漬けと神楽坂の地獄のレッスン、由紀との命懸けの駆け引きをした俺にとって、テストはハエ叩きでハエを潰すことくらい簡単といっても過言ではない。強がりだというのは自分が一番よくわかっている。
いつも通り朝早く教室に入ると自席でペンを走らせている神楽坂の姿。俺にとってはもはや見慣れた姿であった。ちなみに席替えで俺の席は神楽坂の後ろになっている。
「神楽坂、また朝から気合入ってんな」
俺が声をかけると、神楽坂はビクッと肩を震わせてペンを止めた。手元のシャーペンが、カタッと小さく机の上で跳ねる。
「っ……お、おはよう明月くん」
声が上ずっている。心なしか顔色も悪い。
「大丈夫か? 顔、土気色だぞ」
「し、失礼ね。これは……そう、これは緊張感からくる集中の証よ」
よく見ると、机の上には小さなお守りが三つも並んでいる。それも、神社のものと、キャラクターものと、コンビニのくじで当てたようなキーホルダー型のものが雑に混ざっていた。並べ方だけはやけに几帳面で、等間隔にきっちり揃えられている。
「……お守り、多くね?」
「な、なによ。多いくらいがちょうどいいのよ。備えあれば憂いなしって言うでしょう」
「これ厄除けと合格祈願と……このキーホルダー、なんの効果があるんだ」
俺が一番端のキーホルダーを指差すと、神楽坂は一瞬言葉に詰まった。
「そ、それは……その辺のガチャで出た招き猫だから、多分金運?」
「テストと金運関係なくね?」
「うるさいわね! 気持ちの問題よ!」
顔を真っ赤にしながら早口でまくし立てる神楽坂。学年首席が、コンビニの招き猫キーホルダーに縋っている姿はなかなか衝撃的だった。完璧な優等生というよりは、験担ぎに必死な普通の学生だ。
俺が席に着くと、神楽坂は深呼吸を三回繰り返してから、机の下でこっそりと小さな包みを取り出した。
中身は、個包装のラムネ菓子。
「……それは?」
「な、なによじろじろ見て。脳への糖分補給よ、当然でしょう」
神楽坂はラムネを一粒口に放り込むと、目をつむってゆっくりと味わい始めた。頬の内側で転がすように、やたらと時間をかけて。
その顔、心なしか泣きそうなんだが。
「……神楽坂さん、もしかして相当プレッシャーなのか」
俺が思わず聞くと、神楽坂の肩がピクリと跳ねた。ラムネを噛む音がぴたりと止まる。
しばらく黙り込んだあと、彼女は声を潜めてぽつりと言った。
「……うちの親、順位で見てるから」
「順位?」
「点数が良かったか、じゃなくて、学年で何番以内だったか、でもなくて……『神楽坂の名に恥じない順位だったか』を見てるの」
思ったよりも重い話が飛び出してきて、俺は思わず言葉に詰まった。
「今回、ちょっとでも下がったら……多分、また家庭教師増やされる」
「それ、負担半端なくないか」
「慣れてるわよ、こんなの」
そう言いながらも、ラムネを持つ手が小刻みに震えているのが見えた。慣れているという言葉と裏腹に、指先はまるで慣れていなかった。
完璧なお嬢様として振る舞う彼女の裏に、こういう部分があるんだな。柄にもなく、少しだけ胸が締め付けられた。
俺は鞄の中から、この前渡しそびれていたもう一つのチョコを取り出し、彼女の机にそっと置いた。
「……なに」
「糖分。ラムネだけじゃ足りないだろ」
「……何回目よ、これ」
「学年首席が本番で糖分切れ起こしたら、教わった俺の立場がないって前も言ったろ」
神楽坂は一瞬きょとんとした顔をしたあと、ふっと肩の力を抜いて小さく笑った。
「……ほんと、変な人ね、明月くんって」
「よく言われる」
「大丈夫よ、ちゃんと、いつも通りやれば」
その言葉は、俺に向けてというより、自分自身に言い聞かせているようだった。心なしか、握りしめたチョコの包み紙が、少しだけくしゃりと歪んでいた。
──試験開始のチャイムが鳴る。
教室中に緊張感が走り、誰もが一斉にペンを構える。
俺はと言うと、一夜漬けの成果と地獄の特訓の記憶を頼りに、無心で問題用紙に向かった。
ふと前の席に目をやると、神楽坂は真剣な表情で問題を解いている。だが、時々シャーペンを止めては、机の端に置いたラムネの包みにチラリと視線を落としていた。
まるでお守りみたいに。その度に、彼女の背中がほんのわずかに強張るのが見えた。
──試験終了。
最後の科目が終わり、教室中に安堵のため息が満ちる。
「終わったぁぁぁぁ……!」
石井が机に突っ伏して叫び、中村が「数学、白紙で出した箇所あったわ……」と虚ろな目で呟いている。
俺はと言えば、なんとか手応えのある出来だった。
「……終わったわね」
神楽坂が小さく呟いた。ペンを置いた彼女の指先が、心なしかまだ震えている。
「どうだった?」
「……わからない。今回は、いつもより自信、ないかも」
「珍しいな、神楽坂がそんなこと言うの」
「うるさいわね。人間なんだから、こういう時もあるわよ」
むっとした顔で言い返してくるが、その声にはいつもの棘がなく、どこか弱々しかった。答案用紙の端を、無意識に指先でくるくると丸めている。
完璧超人だと思っていた神楽坂澪も、結局は俺たちと同じ、点数に一喜一憂するただの高校生なんだと、改めて実感した。
担任が教壇に立ち、丸めたプリントで軽く教卓を叩く。
「はい、テストお疲れ様。しばらくはゆっくりしていいぞ……と言いたいところだが、来週から三者面談が始まるからな。プリント、後で配るから親に日程確認しておくように」
教室中から「うわ……」という小さなどよめきが起こる。
三者面談。
その単語を聞いた瞬間、前の席の神楽坂の背中がぴくりと強張り、さっきまでの安堵が一瞬で消え去るのを俺は見逃さなかった。
「三者面談……」
神楽坂の呟きが、教室のざわめきに紛れて消えていく。だが俺の耳にはしっかりと届いていた。
「憂鬱そうだな」
「べ、別に。ただの学校行事でしょう」
そう言う割には、さっきまで机に並べていたお守りを、そそくさとポーチにしまい込む手つきがやけに慌ただしい。キーホルダーが一つ、机の隙間に転がり落ちたことにも気づいていないようだった。
──数日後。テストの結果が返却された。
俺の順位は、学年で百二十位くらい。まぁ、赤点は回避できたし、御手洗先輩に部活動停止処分を食らわせずに済んだだけでも上出来だろう。
「ふっふっふ、お兄ちゃん見て見て、私、学年一位だったよ!正直言ってこの学年に私の敵はいないかなぁ」
休み時間、掲示板を見ていると隣から鼻高々に答案用紙を見せびらかしてくる由紀。腕を組んで胸を張る姿は、まるで自分の手柄を誇る監督のようだ。
「すごいな、さすが由紀」
「でしょでしょ! お兄ちゃんも私が教えたおかげだね!」
あの夜、結局まともに勉強できた記憶がほとんどないんだが。指摘したら盛大に拗ねられそうなので黙っておく。
一方、掲示板の隅で答案を静かに見つめる神楽坂は、微動だにしなかった。
「……神楽坂?」
「……一位、じゃなかった」
消え入りそうな声だった。
「え、何位だったんだ」
「二位」
いや十分すごいだろそれ。
だが神楽坂にとっては、その「二位」という数字が、まるで奈落の底に突き落とされたかのような重みを持っているらしかった。答案を持つ指先が、ラムネの包みを握っていた時よりも震えている。俯いた拍子に、結んでいた髪がひと房、頬にかかった。
──三者面談当日。
俺は放課後、教室の隅に並べられたパイプ椅子に座り、順番を待っていた。隣には気だるげにスマホをいじる母、明月晴奈の姿がある。
「なんであんたそんな死んだ魚みたいな目で座ってるの」
「順位、下から数えた方が早いって言われたら死ぬ準備をしてる」
「大丈夫でしょ、赤点じゃないなら」
軽い。母の温度感が軽すぎる。
順番が回ってきて、担任と向き合う。
「明月くんは……まあ、うん、平均的ですね。もう少し上を目指せる伸びしろはあると思います」
「ほら、平均だってさ。優秀優秀」
「基準低くない?」
晴奈は特に慌てる様子もなく、担任の話に相槌を打ちながら軽く流していく。うちの親、緊張感ゼロだな。
拍子抜けするほどあっさりと面談は終わり、俺たちは廊下へ出た。
「まぁ、そんなもんでしょ。次テストで死ぬ気で頑張ればいいのよ」
「軽いなぁ、ほんとに」
でもまぁ、この緩さが、うちにはちょうどいいのかもしれない。廊下の窓から差し込む光が、母のあくび交じりの横顔をのんびりと照らしていた。
教室に戻ろうとした廊下の途中、俺はふと足を止めた。
空き教室の一つ、扉が少しだけ開いている。中から聞こえてきたのは、聞き慣れた声と、聞いたことのない低い男の声だった。
「……二位、ですか。神楽坂の名を背負っている自覚はあるのか?」
「……申し訳、ありません」
澪の声だった。いつもの凛とした強さは欠片もなく、ただただ小さく萎縮している。
「言い訳は結構。次の模試までに立て直しなさい。塾の時間も増やす」
「……はい」
扉の隙間から一瞬だけ見えたのは、スーツ姿の厳格そうな男性と、その隣で深く頭を下げる神楽坂の姿だった。担任は、その空気に呑まれたように黙って頷くだけ。
俺は思わず息を止めて、その場から離れた。心臓が、妙に大きな音を立てている。
なんだよ、あれ。
二位って、十分すごいだろ。それを、まるで失敗したみたいに……。胸の奥がざらついて、上手く言葉にできない苛立ちが残った。
面談が終わった後の廊下。人気がなくなった昇降口の隅で、俺は壁にもたれて澪を待った。
「……明月くん? まだ帰ってなかったの」
現れた澪は、いつもの完璧な微笑みを浮かべようとして、失敗していた。目の下には、テスト前よりも濃いクマができている。よく見ると、リボンの結び目も心なしか歪んでいた。
「二位、おめでとう」
「……聞いてたの」
「まぁ、たまたまな」
澪は一瞬だけ顔を伏せたが、すぐにいつもの澄ました表情を取り繕おうとした。
「別に、大したことじゃないわ。うちでは当然のことだから」
「二位が当然て、どんな基準だよ」
「……うるさいわね」
澪の声が、ほんの少しだけ震えていた。そのタイミングで、彼女のお腹がくぅ、と小さく鳴った。
「……」
「……今の、忘れて」
耳まで真っ赤にして俯く澪。学年首席の完璧なお嬢様も、腹の音までは制御できないらしい。思わず笑いそうになるのを、俺はなんとか堪えた。
俺は鞄から、あのラムネの残りを取り出して、彼女の手に押し付けた。
「な、なに急に」
「糖分。今日くらい、自分にご褒美くれてやれよ」
澪はしばらく手の中のラムネを見つめていたが、やがてぎゅっと握りしめると、消え入りそうな声で呟いた。
「……二位でも、頑張ったって、思っていいのかな」
その問いは、俺に向けられたというより、ずっと自分に言い聞かせようとしてきた言葉のように聞こえた。
「当たり前だろ。俺なんて赤点回避しただけで表彰もんだぞ」
澪は驚いたように目を丸くして、それから小さく、でも確かに笑った。
「……ほんと、変な人ね、明月くんって」
夕陽が差し込む昇降口に、二人分の影が長く伸びる。さっきのお腹の音のことを思い出したのか、澪はまだ少しだけ耳を赤くしていた。
完璧な神楽坂澪の仮面の下には、点数一つで押しつぶされそうになる、ただの女の子がいた。お腹だって普通に鳴るし、キーホルダーの験担ぎだってする。そんな当たり前のことに、今更ながら気づかされた気がする。
俺はまだ、その重さの半分もわかっていないのかもしれない。
それでも、隣にいてやりたいと、柄にもなくそう思った。いやまて、なんか餌付けみたいじゃね?まぁいっか。




