ep.35 信じられない光景
彼女が家に来る前日の夜に初めて、自分の部屋が人間の住処ではなかったと気づいた男、そう、俺だ。
三月二十七日、木曜日。春休み四日目。
夕食後、澪から届いたメッセージを、俺は三回読み返した。
『明日、お伺いしてもいいかしら。お母様と由紀さんにも、ご挨拶したいの』
前回は俺が神楽坂家に乗り込んだ。ならば次は、澪が我が家に来る。理屈は完璧だ。完璧なのだが、文面を見た瞬間、俺の脳内に浮かんだのは、一つの光景だった。
ベッドの下に積まれた、段ボール箱。
机の上に積み上がったアニメのBlu-ray。散乱するゲームのパッケージ。三日前から放置されているペットボトル。
その中に混ざる、俺の「生命維持装置」。
「……詰んだ」
返信を打つ指が、震えた。
『いつでもいい。大歓迎』
大歓迎ではない。でも他に書けなかった。
そして、背後から、気配のない声が降ってきた。
「お兄ちゃん、今、顔が青いよ」
「うわっ!」
振り返ると、由紀が腕を組んで仁王立ちしていた。いつの間に入ったんだ。
「明日、神楽坂さん来るんでしょ。葵くんから聞いた」
「情報網どうなってんだよ」
「それより、お兄ちゃん」
由紀は、俺の部屋をぐるりと見回して、ふぅ、と長いため息をついた。
「この部屋に、あの人を入れる気?」
「……入れる気はある」
「却下」
「却下?」
「今夜と明日の午前中で、徹底的に片付けるから。覚悟しなさい」
その目は、完全に、戦場の指揮官だった。
*
翌朝、午前九時。
俺は、寝癖のまま、自分の部屋の真ん中に正座させられていた。
由紀はエプロンに三角巾、手にはゴミ袋とハタキ。母さんまで、なぜかゴム手袋をはめて、廊下から顔を覗かせている。
「お母さんも参加するの?」
「息子の晴れ舞台だからね。それに、この部屋、一度ちゃんと見ておきたかったのよ」
最後の一言が一番怖い。
「じゃあ、作戦開始!」
由紀の号令で、掃除が始まった。
「まず、床の物を全部ベッドの上に避難。その間に掃除機かけるから」
「俺の寝る場所が」
「黙って床で寝て」
「そんな」
ペットボトル、ポテトチップスの空き袋、丸まったティッシュ、謎のコード。拾い上げるたびに、由紀の目が冷たくなっていく。
「お兄ちゃん、これ、いつの」
「……先月」
「分別」
「はい」
説教されながら、俺は黙々と手を動かした。母さんは窓を開けて、空気を入れ替えている。春の風が、カーテンを大きく揺らした。
「お母さん、この棚の、ゲームのパッケージ、全部出して」
「あら、こんなに買ってたの」
「え、あ、それは」
「会社の企画会議に使えるかもしれないわね。後でちょっと借りていい?」
母さんが、真面目な顔でパッケージを眺めている。ゲーム会社の部長に自分の趣味を見られる羞恥が、想像以上にきつかった。
やがて、掃除機の音が止んだ。
由紀が、ベッドの下を覗き込んだ。
「……お兄ちゃん」
「は、はい」
「この、段ボール」
空気が凍った。
「それは触るな」
「何が入ってるの」
「触るな」
「開けるよ?」
「やめろ!」
間に合わなかった。
由紀の細い指が、段ボールの蓋を、ぱかりと開ける。中から現れたのは、ちょっとだけ際どい「女の子の絵」が描かれた、パッケージの数々。
母さんが、背後から覗き込んだ。
「あら、いいデザインじゃない。最近のは絵が綺麗ね」
「そこじゃないでしょお母さん!」
由紀が、顔を真っ赤にして叫んだ。それから、俺を、ジト目で睨みつけた。
「……お兄ちゃん」
「は、はい」
「これ、全部、神楽坂さんの目に、絶対、触れさせないでね」
「……はい」
「押入れの一番奥。ガムテープで封をして。上から布団を積む」
「かしこまりました」
母さんが「若いっていいわねぇ」と呟いたのが、地味に、一番、致命傷だった。
*
一時間後。
部屋は、見違えるほど綺麗になった。
床が、見える。机の上も、見える。窓から差し込む光が、フローリングに反射して、眩しいくらいだった。
「自分の部屋って、こんなに広かったんだな」
「感想それ?」
由紀は、ハタキを肩にかけて、満足げに頷いた。
「あとは、飾りつけ」
「飾りつけ?」
「ちょっとくらい、可愛くしないと」
由紀は、机の上を指さした。そこには、ホワイトデーの帰りに公園で澪と飲んだ、ハチミツレモンの空き缶が、ひとつ、置かれていた。
「あれ、お兄ちゃん取っておいたの?」
「……記念に」
「きも!」
引き出しを開けた由紀が、小さな包み紙を取り出した。
「なにこれ」
由紀がジト目で俺を見つめそう言う。
「六月から部屋にあるのチョコの包み紙」
「汚!捨てろよ!」
由紀はチョコの包み紙を丸めると勢い良く俺の顔面に投げつけ、それを俺はキャッチする。
包み紙を手際よくゴミ箱に放り込んでガッツポーズ。
壁のフックには、澪の手編みのマフラーが、きちんとハンガーにかけられている。それを見て、母さんが、ぽつりと言った。
「洸夜、あんた、マフラーだけ、扱いがVIPよね」
「ほっといてくれ」
*
午後二時。
インターホンが鳴った。
「来た」
由紀が、エプロンを外して、玄関へ走る。母さんは、ソファの上で、急に姿勢を正した。いや、正したつもりらしいが、パジャマ姿のままなので、ぜんぜん正せていない。
「お母さん、着替えは」
「あ、忘れてた」
「もう遅い」
玄関の扉を開けると、そこには、淡い水色のワンピースを着た澪が、両手に紙袋を提げて、立っていた。
「ご、ごきげんよう」
「ごきげんようって、お前」
「ご、ごめんなさい。緊張して」
耳まで赤い。完全に、あの座敷の時の俺と、同じ状態だった。
「はじめまして、神楽坂澪です。本日は、お招きいただき、ありがとうございます」
由紀に向かって、ではなく、リビングの奥にいる母さんに向かって、澪は、深々と頭を下げた。
「あー、いいのいいの、そんなに畏まらなくて」
母さんは、ひらひらと手を振りながら、のそのそと出てきた。パジャマのままで。
「明月晴奈です。洸夜の母。いつも息子がお世話になってます。こんな格好で、ごめんなさいね」
「い、いえ、お気遣いなく」
「ほら上がって上がって。うちは緩いから、緊張しなくていいわよ」
澪は、おずおずと靴を脱いだ。その靴の揃え方が、あまりにも完璧で、うちの玄関が少し恥ずかしくなった。
「あの、これ、つまらないものですが」
差し出された紙袋の一つには、老舗の洋菓子店の箱。母さんが「これ、一箱で、うちの家賃なんじゃ」と小声で呟いて、一瞬、固まった。
「あ、あと、こちらも」
もう一つの紙袋の中を覗いて、俺は、目を丸くした。
駄菓子の詰め合わせだった。ラムネ、ガム、うまい棒、ミニコーラ、きなこ棒。
「……これ」
「文化祭の射的で、取り損ねた景品が、悔しくて。桐山さんに頼んで、駄菓子屋さんで、買ってきてもらったの。……あの、お父様が、これくらいなら、いいって」
「ポテチは、週に一袋だったよな」
「駄菓子は、条件に含まれていなかったのよ」
澪は、真顔で言う。
母さんが、ぷっと吹き出した。
「あなた、面白い子ね」
「え」
「気に入ったわ。洸夜、よく捕まえたわね」
俺も正直びっくりだ。
「捕まえたって言い方」
「由紀、お茶淹れて。この子に、一番いいやつ」
「はーい」
由紀が、ニコニコしながら、台所へ向かった。
その後ろ姿を、澪は、ぼうっと見送ってから、ぽつりと言った。
「……あたたかい家ね」
「緩いだけだよ」
「それが、いいの」
その声は、ほんの少しだけ、潤んでいた。
*
リビングでお茶を飲んだあと、母さんが、言った。
「洸夜、部屋、案内してあげなさい」
「え、いいのか」
「いいに決まってるでしょ」
母さんは、ニヤリと笑った。
「今日、由紀が朝から、頑張ってたものね」
「お母さん!」
台所から、由紀の叫び声が聞こえた。
階段を上って、自室の扉の前で、俺は、一度、深呼吸した。
「……狭いけど、笑うなよ」
「笑わないわよ」
扉を開けた。
春の光が、窓からたっぷりと差し込んでいる。床は、綺麗に磨かれている。澪からもらったマフラーが、丁寧に、掛けられていた。
「大切にしてくれてるのね」
「当たり前だ」
澪は、部屋の中に、一歩、足を踏み入れた。
「ここが、洸夜くんの、世界なのね」
「大したもんじゃないぞ」
「すごく、落ち着く匂いがするわ」
「それ、ただの、生活臭だ」
「いい匂いよ」
澪は、床に、ぺたりと座り込んだ。令嬢が、フローリングに直接座っている。その光景だけで、なんだか、胸がいっぱいになった。
*
「ねぇ、洸夜くん」
「ん」
「ゲーム、してみたいの」
唐突な提案に、俺は、目を丸くした。
「ゲーム?」
「ええ。……前に、教室で、言ってしまったでしょう。『ゲームしたい』って」
六月の、あの放課後の教室が、よみがえった。コンソメパンチと、一発ギャグと、死にそうな顔をしていた、あの日の澪。
「覚えてたのか」
「忘れるわけがないわ。人生で一番、恥ずかしい日だもの」
「やる気、満々だな」
「ええ。もう、禁止されていないもの」
澪は、にっこりと笑った。
俺は、押入れからは絶対に取り出せない、いくつかのゲーム機の中から、一番安全なやつを選んだ。誰でも遊べる、レースゲームだ。
コントローラーを渡すと、澪は、両手で、ぎゅっと握りしめた。
「これ、どう持つの」
「それは、アクセルで、こっちがブレーキ」
「ええと」
スタートの合図。
澪の車は、開始三秒で、壁に激突した。
「あっ」
「ブレーキ、ブレーキ」
「どこ? どこなの?」
画面の中で、キャラクターが、くるくる回っている。澪は、必死にボタンを押しているが、車は、なぜか、逆走を始めた。
「……ははっ」
「わ、笑わないで!」
「いや、だって、逆走、逆走してる」
「うるさい! 今から取り戻すの!」
負けず嫌いの血が、燃え上がったらしい。
それから二時間。
澪は、何度もやり直した。コースを覚え、ボタン配置を覚え、いつの間にか、俺とほとんど互角になっていた。
「あなた、手加減してるでしょう」
「してない。お前が、化け物なだけだ」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ」
最終ラップ。
澪の車が、最後のカーブで、わずかに前に出た。
「いけっ!」
ゴール。
画面に、一位の文字が躍った。
「やった! やったわ! 洸夜くん、見て、私、一位!」
澪は、コントローラーを放り投げて、両手を上げた。
そして、勢い余って、そのまま、俺の胸に、飛び込んできた。
「……あ」
「……あ」
ほんの、数秒。
お互いの心臓の音が、聞こえそうな距離だった。
「ご、ごめんなさい」
「い、いや」
澪が、真っ赤になって離れようとした、その時。
「お兄ちゃーん、お菓子持ってき……」
扉が、開いた。
由紀が、お盆を持ったまま、固まっていた。
その後ろから、母さんが、にゅっと顔を出した。
「あら」
「あ、あの、これは」
「お邪魔だったかしら」
「違います!」
「違う!」
俺と澪の声が、見事に重なった。
母さんと由紀が、同時に、にやぁっと笑った。
「「ごゆっくり」」
扉が、パタン、と閉められた。
残された部屋で、俺たちは、完全に、茹でダコになっていた。
*
夕食は、由紀が腕を振るった、カレーだった。
今日の由紀は、いつもの三割増しで、張り切っていた。台所に立ちながら、「神楽坂さんも、手伝います?」と聞くと、澪の目が、きらりと光った。
「手伝ってもいいの?」
「もちろん。何か、作りたいものあります?」
「……玉子焼き」
そうだった。
四月の体育館で、「練習したから作れるわ」と言った、あの日以来、澪は、玉子焼きを、人前で作る機会がなかった。ミスコンでは、観客の前で「作れます」と宣言までしたのに。
「由紀さん、教えてもらえますか」
「え、私が?」
「あなたは、お料理が上手だって、洸夜くんから聞いていたから」
由紀の頬が、ぽっと赤くなった。
「べ、別に、そんなことないですけど。……じゃあ、一緒にやりましょうか」
二人並んで、台所に立つ。
その背中を、俺と母さんは、リビングから、ぼんやりと眺めていた。
「洸夜」
「ん」
「あんた、いい子、捕まえたわね」
「……母さん、それ、さっきも言った」
「何度でも言いたくなるのよ」
母さんは、ソファに沈み込んだまま、遠くを見ていた。
「由紀があんなふうに、誰かと並んで笑ってるの、久しぶりに見たわ」
「そうか」
「あの子、あんたのことで、ずっと気を張ってたから」
母さんの目尻が、少しだけ、柔らかく下がった。
「ありがとね、澪ちゃんに」
「……あぁ」
台所では、卵を割る音と、二人の笑い声が、かすかに響いていた。
やがて運ばれてきた玉子焼きは、少し焦げ目がついていて、形も、すこしだけいびつだった。
「……どう、かしら」
澪が、不安そうに、俺の顔を覗き込む。
一切れ、口に運んだ。
ふわっと、甘い味が広がった。卵の優しい味と、ほんのりと、砂糖の甘さ。
「……うまい」
「ほ、本当に?」
「あぁ。甘めで、俺、好きだ」
「よかった……」
澪が、安堵のため息をついた。
その後ろで、由紀が、ふん、と鼻を鳴らしてから、小声で言った。
「……練習の甲斐があったね、澪さん」
「由紀さん」
「さん、は、いらないです。由紀で、いいです」
「……なら、私も、澪で」
「は、はい」
二人が、視線を合わせて、ふふっと笑った。
その光景を見て、俺は、箸を持つ手を止めてしまった。
……なんだ、この、胸の奥の、あたたかさは。
「洸夜、涙ぐんでる?」
「ち、違う、カレーが辛いだけだ」
「このカレー、中辛よ」
「うるさい」
母さんの突っ込みに、全員が、声を上げて笑った。
*
夜八時。
迎えの車が来るまで、残り三十分。
俺の部屋で、澪と二人、並んで、窓際に座っていた。
外は、すっかり暗くなっている。街灯の光が、窓ガラスに、ぼんやりと映り込んでいた。
澪の手には、いつの間にかポテトチップスの袋が、握られていた。
「それ、持ってきたのか」
「ええ。今日が解禁後二袋目だもの」
「週一じゃなかったのか」
「あの夜に食べたのが、一袋目で。今日からは新しい週よ」
「屁理屈だな」
「あなたに似たのかもしれないわ」
「意味がわからん」
澪は、袋を開けて、一枚、口に放り込んだ。
「……おいしい」
「だろ」
「洸夜くんの部屋で食べる、ポテトチップスは、特別においしいわ」
その言葉に、思わず、頬が緩んだ。
しばらく、二人とも、黙っていた。窓の外を、遠くの電車の音が、走り抜けていく。
「ねぇ、洸夜くん」
「ん」
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ」
「あなたのお母様も、由紀も、本当に、あたたかくて。……ずっと、この家にいたいくらい」
澪は、ぽつりと、そう言った。
その横顔は、どこか、寂しそうだった。
「神楽坂の家が、嫌いなわけじゃないのよ。お父様も、お祖母様も、葵も、大切な家族だわ。でも、あの家は、いつも、背筋を伸ばしていなければいけない場所だから」
「……うん」
「ここでは、床に座って、ポテチを食べて、笑っていられる」
澪は、小さく、微笑んだ。
「こんな場所が、私にもあったらいいなと、ずっと、思っていたの」
胸の奥が、ぎゅっと、締めつけられた。
この人は、ずっと、こういう場所を、探していたのだ。
俺が当たり前のように持っているものを、彼女は、今日、初めて、手に入れた。
「……澪」
「なに」
「いつでも、来ていいから」
「え」
「俺の家。ポテチ食って、ゲームして、ダラダラして。……ここは、澪の居場所でも、あるから」
澪の目が、大きく、揺れた。
「……いいの?」
「あぁ。母さんも、由紀も、きっと喜ぶ」
「あなたは?」
「俺が、一番、喜ぶ」
言った瞬間、顔が熱くなったが、撤回する気は、なかった。
澪は、俯いて、肩を震わせた。
それから、そっと、俺の肩に、頭を預けた。
「……ありがとう」
小さな、小さな声だった。
窓の外では、春の夜風が、カーテンを、ゆるやかに揺らしている。
しばらくして、俺は、ゆっくりと、口を開いた。
「澪」
「うん」
「話しても、いいか」
「……何を?」
「中学の時の、話」
澪の肩が、小さく、揺れた。
彼女は、ポテトチップスの袋を、そっと床に置いて、俺の方を、見上げた。
その目は、少しも、逃げていなかった。
「……ええ」
澪は、頷いた。
「聞かせて。洸夜くんの、全部を」
窓の外の街灯が、ぼんやりと、二人の影を、壁に映している。
俺は、一度、深く、息を吸った。
二年半、誰にも話さなかった。有栖にも、由紀にも、全部は話していなかった。
けれど、この人になら、話せる。
「……中二の、春だった」
迎えの時間は、もう少しだけ、先だった。




