ep.34 ラスボスは、ポテトチップスに弱い
人生で初めて、他人の家の門前で十分間も深呼吸を続けている男、そう、俺だ。
三月二十三日、日曜日。春休み初日。
空は嫌味なほど晴れていた。桜の蕾はまだ固いが、風の匂いはすっかり春で、そのせいで余計に、自分の心臓の音がうるさく聞こえる。
目の前にそびえるのは、黒い鉄の門と、どこまで続くのか分からない白壁。表札には、墨で書かれた「神楽坂」の二文字。
……ここ、本当に家か? 市役所とかじゃなくて?
「お兄ちゃん、ネクタイ曲がってる」
隣で由紀が、背伸びして俺の首元を直した。なぜか妹まで付き添いである。もちろん門の外までだ。「観察日記の最重要局面だから」とのことだった。
「お前、本当についてくる気か」
「門までね。中には入らないよ。……ほら、手土産、落とさないで」
紙袋の中には、桜井が「友の戦に、拙者も参陣するでござる」と言って徹夜で仕上げてくれた、桜井屋の上生菓子の詰め合わせが入っている。羊羹の時といい、あいつには一生頭が上がらない。
出がけに母さんは、パジャマのままソファから片手だけ上げて言った。
「失礼のないようにね。もしやらかしちゃったら土下座でもしなさい」
軽い。母の温度感が軽すぎる。だがその軽さに、なぜか少し救われていた。
「じゃあ、行ってらっしゃい。骨は拾ってあげる」
「縁起でもないこと言うな」
「冗談冗談。……お兄ちゃん」
由紀は、ふっと真面目な顔になった。
「普通のお兄ちゃんのままで行きなよ。取り繕ったら、あの人たちにはすぐバレるから」
「……分かった」
深く息を吸って、俺はインターホンを押した。
*
門が開くと、玄関まで石畳の道が続いていた。
庭には松と石灯籠があり、小さな池には鯉が泳いでいる。玄関扉の前には、家政婦の桐山さんが静かに立っていて、「明月様、お待ちしておりました」と、完璧な角度で頭を下げた。
廊下は、葵の言っていた通りだった。天井が高く、壁には何の絵だか分からない絵画がずらりと並んでいる。美術館というか、美術館の方が気を遣って縮こまりそうな規模だ。
「あ、来た来た」
廊下の角から、葵が顔を出した。小声でニヤニヤしながら駆け寄ってくる。
「ようこそ、明月さん。姉さん、今朝から三回着替えたよ。意味わかんないよね」
「葵っ!」
奥から澪の声が飛んできた。
振り返ると、そこには、淡い水色のワンピースに身を包んだ澪が立っていた。耳まで真っ赤で、手には何も持っていないのに、両手を所在なさげに握り込んでいる。
「か、勝手なことを言わないで。着替えたのは、その、二回よ」
「やっぱり着替えたんじゃん」
「うるさいわね!」
いつものやり取りに、思わず笑ってしまった。笑った瞬間、肩の力がすっと抜ける。
「……似合ってる」
「そ、そう。ありがとう」
澪は視線を逸らして、それから、小さな声で言った。
「洸夜くん、来てくれて、ありがとう」
「当たり前だろ。……行こう」
「ええ。でも、その前に」
澪は、俺の袖を、きゅっと摘まんだ。
「何があっても、私は、あなたの味方だから」
その一言で、足の震えが、ほとんど止まった。
*
通されたのは、庭に面した広い座敷だった。
畳の匂い、床の間の掛け軸、柱時計の振り子の音。その一番奥に、和服姿の男性が、背筋をぴんと伸ばして座っていた。
三者面談の日、空き教室で見た、あの人だ。
鋭い目。引き結ばれた口元。表情という機能が故障しているのではと思うほど、顔に感情が出ない。澪の父、神楽坂恭一郎。
その斜め後ろには、湯呑みを抱えた老婦人が、のんびりと座っている。澪の祖母だろう。目が合うと、ふわりと微笑んでくれた。ありがたい。唯一の味方だ。
「失礼します。明月洸夜です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
母親仕込みの社交辞令を、ここぞとばかりに繰り出す。畳に手をついて頭を下げると、澪が俺の隣に正座した。
「楽にしなさい」
低く、よく通る声だった。
全然楽にならない。
手土産を差し出すと、桐山さんが静かに受け取っていった。恭一郎氏は、それには一瞥もくれず、じっと、俺の顔を見ている。沈黙が、畳の上にずしりと落ちた。
「……明月君」
「はい」
「君のことは、調べさせてもらった」
花瓶割ったことを恨んでるのだろうか。
隣で、澪の肩が、ぴくりと動いた。
「母子家庭。母親は、ゲーム会社の管理職。父親は、君が小学生の頃に、事故で他界している」
「はい。その通りです」
淡々と事実を述べる声に、俺も淡々と答えた。ここで動揺したら負けだと思った。
「学業の成績は、直近の試験で九位。それ以前は、百二十位前後。急激な上昇だ。どういう心境の変化があった」
「……恥ずかしい話ですが」
俺は、少しだけ笑った。
「最初は、ただ、格好をつけたかっただけです。毎回、神楽坂さんに勉強を教わってばかりなのが、嫌で。自分の力で、隣に立てる人間になりたいと思いました」
「隣に、立つ」
「はい」
恭一郎氏の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「君は、娘が神楽坂の人間であることを、理解しているのか」
「理解、しているつもりです。……ただ、俺にとっては、澪さんは」
ここで、一度、言葉を切った。
由紀の言葉が、頭の中で再生される。普通のお兄ちゃんのままで。
「ポテトチップスを、おいしそうに食べる人です」
座敷の空気が、止まった。
隣で、澪が、ぎょっとした顔でこちらを見た。畳の隅では、祖母が、湯呑みを口に当てたまま肩を震わせている。
「…………ポテトチップス」
恭一郎氏が、復唱した。
「はい。コンソメパンチが好きな人です。コーラと焼きそばパンで、人生が変わったような顔をする人です」
「ちょ、ちょっと、洸夜くん」
「宅配ピザを食べたことがなくて、初めて食べた時は、チーズを伸ばして子供みたいに笑ってました」
「やめてちょうだい! 今それを言う必要はないでしょう!」
澪が小声で悲鳴を上げたが、もう止まらなかった。
俺は、真っ直ぐに、恭一郎氏の目を見て言った。
「神楽坂の令嬢としての澪さんは、本当に立派だと思います。努力も、才能も、俺には到底真似できません。ですが、俺が好きになったのは、その上に立っている澪さんだけじゃなくて、……そういう、ただの女の子の澪さんなんです」
言い終えて、肩で息をした。
沈黙。
柱時計の振り子が、カチ、カチ、と鳴っている。
「…………知っている」
恭一郎氏が、ぽつりと言った。
「え」
「娘が、ポテトチップスを好んでいることは、知っている」
澪が、目を丸くした。
「お、お父様、いつから」
「料理長から、週に一度、厨房の菓子棚から、塩味の食品が減っていると報告があった。調べるまでもない。……お前が、ここ何年か、夜中に台所で、こっそり何かを食べていることもな」
澪の顔から、血の気が引いて、それから、真っ赤になった。
「あ、あの、それは」
「禁止は、した。家の者として、体型と健康を管理する責任があった。だが」
恭一郎氏は、そこで、少しだけ視線を逸らした。
「……袋の音を忍ばせて食べているお前を、叱る気には、ならなかった」
今度は、俺が絶句する番だった。
祖母が、湯呑みを置いて、くすくすと笑った。
「恭一郎、あなた、白状するのが遅すぎますよ」
「母上、お黙りください」
「だって、この子たちが、あまりに可愛らしいんですもの」
座敷の空気が、一気に、ほどけた。
*
「……趣味は」
気を取り直したように、恭一郎氏が尋ねた。声は、さっきより、わずかに柔らかい。
「アニメと、ゲームです」
「他には」
「あとは、……株ですね」
「株?」
恭一郎氏の目が、鋭く光った。
「何を持っている」
「えっと……神楽坂グループを、少し」
「…………」
「入学式の日に、ふと思い出して買いました。お年玉と貯金の範囲でです。ほんの数株ですが」
「…………」
恭一郎氏は、無言で、湯呑みを手に取った。
そして、ゆっくりと茶を飲んだ。
飲み終えるまでに、体感で、一分くらいかかった。
「……なぜ、うちの株を」
「正直に言うと、初めて澪さんと話した日、神楽坂家の話を聞いて、すごい家だなと思って。そのあと、ふと、応援したくなったんです。それが、最初です」
「応援」
「はい。好きになる前から、応援してたことになりますね」
自分で言って、少し照れくさくなった。
隣で、澪が、顔を覆っていた。
祖母が、ついに、声を出して笑った。
「あらあら。株主様じゃないの、恭一郎。粗末にしてはいけませんよ」
「……母上」
恭一郎氏は、深く、深く息を吐いた。
その横顔は、疲れているようにも、笑いをこらえているようにも見えた。
*
「明月君」
湯呑みを置いた恭一郎氏が、居住まいを正した。
再び、空気が、張り詰める。今度の沈黙は、さっきまでとは違って、何かを打ち明けようとしている人間特有の、重さがあった。
「私は、君を調べた時、母子家庭であることを、好材料とは見なかった」
「……はい」
「家の格に釣り合わない。娘の足を引っ張る。……そう考えるのが、親としての、当然の判断だと思った」
「当然だと、思います」
「だが」
恭一郎氏は、庭の方へ、視線を向けた。
「澪が、書斎で、私に条件を突きつけた。生まれて初めて、私に、頼みごとをした」
「お父様」
「首席を守れたなら、自分の言葉で話させてほしい、と。……そして、守った。一点差で」
澪が、小さく息を呑んだ。
「その時、私は思った。この子は、いつの間に、こんな目をするようになったのかと」
恭一郎氏は、視線を、俺に戻した。
「君が、変えたのだろう」
「いえ、俺は何も」
「何もしていない人間に、娘が、あそこまで言えるはずがない」
きっぱりとした声だった。
それから、恭一郎氏は、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「私は、若い頃、画家になりたかった」
唐突な告白に、俺も澪も、目を見開いた。
「……お父様が、ですか?」
「ああ。美術大学に行きたいと、父に頭を下げた。だが、跡取りだと言われ、二度と筆を持たなかった」
祖母が、静かに湯呑みを撫でている。
「以来、家のために生きることが、私の誇りになった。それを疑ったことはない。だが、……娘にも、同じ道を押し付けて、同じように、何かを諦めさせてきたのではないかと、最近、考えるようになった」
恭一郎氏の声は、淡々としていた。けれど、その指先は、膝の上で、固く握られている。
「澪が、笑わなくなったことに、気づいていた。気づいていながら、どう接すればいいか、分からなかった」
「……お父様」
「不器用だと、母上に何度も言われた。その通りだ」
祖母が、ふふ、と笑って、小さく頷いた。
「恭一郎は、昔から、褒めるのが下手でね。澪が生まれた日も、赤ちゃんを抱いたまま、三時間、一言も喋らなかったのよ」
「母上、それは今言わなくても」
「あら、事実ですもの」
澪が、俯いて、肩を震わせている。泣いているのか、笑っているのか、分からなかった。たぶん、両方だ。
*
「明月君。最後に、一つだけ、尋ねる」
「はい」
「娘が、この先、家を継ぐ道を選ぶとして。それでも、君は、隣にいられるか」
まっすぐな問いだった。
神楽坂グループという、巨大な看板。令嬢という立場。きっと、これから先、俺には想像もつかないような困難が、いくつも待ち受けている。
足がすくむのが、自分でも分かった。
それでも、答えは決まっている。
「分かりません」
正直に言った。
「正直に言うと、不安です。俺は、普通の家の、普通の高校生です。この先、何が起こるかなんて、全然分かりません」
「……」
「でも、澪さんが、一人で戦ってきた時間を、俺は知りました。もう、あの人を一人にしたくないと思います。だから、隣にいられるように、努力し続けます。それしか、約束できません」
恭一郎氏は、じっと、俺の目を見ていた。
長い、長い沈黙のあと。
ふっと、肩の力を抜いた。
「……その答えを、待っていた」
「え」
「『必ず守る』『絶対に幸せにする』と言う若者を、私は、何人も見てきた。だが、彼らは、未来を断言することで、責任から逃げていた」
恭一郎氏は、背筋を伸ばして、俺に、小さく頭を下げた。
「正直に『分からない』と言い、それでも隣にいると言える人間を、私は、信じることにする」
世界が、一瞬、静まり返った。
……今、頭、下げた? あの神楽坂グループの当主が?
「お、お父様」
「ただし」
恭一郎氏は、顔を上げ、いつもの鋭い目つきに戻った。
「条件が、三つある」
来た。結局、条件か。
「一つ。学業を、疎かにしないこと」
「はい」
「二つ。娘を、泣かせないこと」
「それ、幼馴染にも言われました」
「そうか。賢明な友人だ」
あっさり納得された。有栖、お前、神楽坂家の当主に評価されたぞ。
「三つ。……ポテトチップスは、週に一袋まで」
「……はい?」
澪が、固まった。
俺も、固まった。
「内容量は、二十四グラム以下の個包装のものに限る」
一週間で二十四グラムは少し少ないのではないだろうか。
「お父様、それ、どこで」
「洸夜君が、先日、娘に贈ったのだろう。クラスの会で。二十四グラムしか入っていないから安心しろ、と」
なんか面と向かって言われるとめっちゃ恥ずかしいな。
「どうして、それを」
「葵が、嬉しそうに報告してきた」
廊下の障子の向こうで、ガタン、と何かが倒れる音がした。
「葵ッ!!」
澪の怒声と、葵の「ごめんって!」という悲鳴が、屋敷中に響いた。
祖母が、とうとう、畳に突っ伏して笑い出した。
俺は、頭の整理が追いつかないまま、ただ、呆然としていた。
……これは、許された、ということで、いいのか?
「……洸夜くん」
隣で、澪が、涙目で俺を見ていた。
泣き笑いだった。
「……認めて、もらえたわ」
「……みたい、だな」
「ポテトチップス、週に一袋だって」
「二十四グラム、な」
「……ふふっ」
澪が、ぷっと吹き出した。
つられて、俺も笑った。
恭一郎氏は、咳払いをして、そっぽを向いた。その耳が、ほんのり赤かったのを、俺は見逃さなかった。
*
帰り際、庭の石畳で、澪は俺を見送ってくれた。
日が傾き始めて、庭の池に、橙色の光が揺れている。縁側では、祖母が手を振っていた。
「お疲れ様。……すごかったわ、洸夜くん」
「全然、覚えてない。途中から、何を喋ってたか、記憶がない」
「ポテトチップスの話から始めた人、初めて見たわ」
「由紀に、普通のままで行けって言われたんだよ」
「……由紀さんには、頭が上がらないわね」
澪は、くすりと笑って、それから、少し真面目な顔になった。
「ねぇ、洸夜くん」
「ん」
「お父様、あなたに頭を下げたの。私、生まれて初めて見たわ」
「俺も、人生で一番びっくりした」
「あれは、きっと、あなたを、家族の一員として、迎えるつもりがある、という意味よ」
「……そうか」
実感が、まだ追いつかなかった。
ただ、胸の奥が、じんわりと温かい。
澪は、俺の手を、そっと握った。
「今日、本当に、ありがとう。……私、あなたを好きになって、よかった」
「……俺も」
柄にもなく、素直に言葉が出た。
澪の頬が、ぽっと赤く染まる。
「……あの、洸夜くん」
「なんだ」
「以前、話してくれるって、言ってたでしょう。中学の時のこと」
息が、止まった。
「あなたが、嘘告で傷ついたこと。……文化祭の日に、あの人と会った時、私、なんとなく、気づいてしまったの」
澪は、握った手に、少しだけ力を込めた。
「無理には、聞かないわ。でも、もし、話せる日が来たら。……私は、ちゃんと、全部、聞くから」
夕日が、澪の水色の髪を、橙色に染めている。
その目は、どこまでも真っ直ぐで、優しかった。
俺は、少しだけ迷って、それから、頷いた。
「……近いうちに、話す。長くなるけど、いいか」
「何時間でも」
「夢のことも、ある」
「夢?」
「それも、ちゃんと話す」
「ええ。待ってるわ」
澪は、にっこりと笑った。
その笑顔を見て、俺は、確信した。
二年半、俺を縛り続けた亡霊は、もう、この人の前では、怖くない。
*
門を出ると、由紀が、道の向かいの電柱の陰で、待っていた。
……いや、隠れている、つもりなのだろう。全身が、完全に見えている。
「……お前、ずっとそこにいたのか」
「ち、違うし。たまたま、通りかかっただけだし」
「三時間も、たまたまか」
「うるさいなぁ!」
由紀は、ふいっと顔を逸らした。
それから、おずおずと、聞いてきた。
「……どうだった」
「通った。……条件付きで」
「条件?」
「ポテトチップスは、週に一袋までだ」
「……は?」
由紀の目が、点になった。
それから、腹を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。
「あっはははは! ポテチ!? ラスボスの最終条件が、ポテチ!?」
「笑うな、真面目な話だ」
「だって、お兄ちゃん、最強の勇者だよ。ポテチで魔王を倒したんだよ」
「語彙力、どこ行った」
ひとしきり笑ったあと、由紀は、目尻を指で拭った。
そして、ぽつりと言った。
「……よかった、ほんとに」
「……ああ」
「帰ろ、お兄ちゃん。お母さんに、報告しないと」
「あの人、興味あるのか」
「あるよ。寝たふりして、さっきから、スマホ握りしめてるはず」
並んで歩き出した。
春の夕焼けが、二人の影を、長く伸ばしている。
ポケットの中で、スマホが震えた。
母さんからだった。たった一行。
『生きてる?』
俺は、苦笑して、返信を打った。
『生きてる。ポテチで勝った』
『意味が分からないけど、とりあえずおめでとう。夕飯はカレーよ』
既読をつけたところで、もう一件、通知が届いた。
澪からだった。
『今夜、コンソメパンチ、二十四グラム、食べるわ』
イジられてる?
『まだ解禁されたばっかりだぞ』
『だから、一番に、あなたに報告したかったの』
思わず、吹き出した。
「お兄ちゃん、またニヤ男になってる」
「うるさい」
空を見上げると、夕焼けの端に、一番星が、小さく瞬いていた。
神楽坂家のラスボスは、思っていたよりも、ずっと、不器用で、優しい人だった。
そして、俺の全然普通じゃない高校生活は、いよいよ、二年生へと、向かおうとしていた。




