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嘘告で心を折られた俺、“普通”に生きようとしたら学校一の高嶺の花を餌付けする係になっていた件  作者: 小馬


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ep.33 お返しは、三倍じゃ足りない

 ホワイトデーという行事の意味を、生まれて初めて真剣に調べた男、そう、俺だ。


 三月に入って、校庭の隅の桜の蕾が、少しずつ膨らみ始めた。

 朝の空気はまだ冷たいが、日差しの角度が変わって、教室の窓際がぽかぽかと暖かい。ついこの前まで、ストーブの前に行列ができていたのが嘘のようだ。春休みまで、あと二週間。

 そして、ホワイトデーまで、あと一週間。

「……お返し、って何を返せばいいんだ」

 自室の机で、俺はスマホの検索画面を睨みながら、唸っていた。

 『ホワイトデー お返し 相場』『ホワイトデー 本命 何を渡す』『ホワイトデー 令嬢』。最後の検索ワードは、さすがに結果ゼロだった。

 三倍返し、という言葉が頭に浮かぶ。有栖がバレンタインの日に言った冗談だ。だが、神楽坂澪に、金で三倍返しをしても意味がないことくらいは分かる。あの人は、欲しいものなら、大抵、自分で手に入れられる。

 そうじゃない。彼女が、本当に欲しがっていたものは。

 ポテトチップス。宅配ピザ。駄菓子の詰め合わせ。クレーンゲームのぬいぐるみ。ハチミツレモンの缶。

 全部、値段で言えば、数百円のものだ。けれど彼女は、その一つ一つを、宝物のように抱きしめて笑った。

「お兄ちゃん、また難しい顔してる」

 ノックもなしに入ってきた由紀が、ベッドの端に腰を下ろした。

「何か、手伝おうか」

「……いや、これは自分で決めたい」

「ふーん」

 由紀は、じっと俺の顔を見て、それから、ふっと笑った。

「お兄ちゃん、変わったね。前なら、『面倒だから適当でいいや』って言ってた」

「適当にできるわけないだろ」

「そうだね」

 由紀は、立ち上がって、扉の前で振り返った。

「ヒントだけあげる。……神楽坂さんは、『手間をかけてもらうこと』に、すごく弱い人だよ。高いものより、時間をかけたものの方が、ずっと刺さると思う」

「時間を、かけたもの」

「そう。お兄ちゃんにしか、できないやつ」

 扉が閉まった後も、その言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。

 俺にしか、できないこと。

 俺は、机の引き出しから、取材ノートを引っ張り出した。ページをめくる。球技大会の日に書いた、あのメモが、目に飛び込んできた。

『神楽坂:ハチミツレモン、玉子焼き(練習中らしい)』

 そして、その少し下の行に、乱雑な字で書き殴った、もう一つのメモがある。

『イメージは、どっかの高級老舗和菓子屋の羊羹』

 ――あれ、確か、俺が言ったやつだ。

 体育館で、神楽坂に向かって。「神楽坂さんクラスになると、どっかの高級老舗和菓子屋の羊羹とか持ってくるイメージだったからさ」と。

 その瞬間、一人の友人の顔が、頭に浮かんだ。


        *


「……なるほど。事情は、承知した」

 翌日の放課後、俺は、桜井の実家の和菓子屋、『桜井屋』の暖簾をくぐっていた。

 木の香りが漂う店内。ガラスのショーケースの中には、季節の上生菓子が、宝石みたいに並んでいる。奥の作業場から、桜井が、白い作務衣姿で出てきた。学校で見る姿とは、まるで別人の、職人の顔だった。

「明月殿。女性に贈る、お返しの菓子を、特注したいと」

「あぁ。ただ、素人だから、何をどう頼めばいいのか分からなくて」

「ふむ。ご要望を、お聞かせください」

 桜井は、真面目な顔で、メモを取り出した。普段の侍口調が、さらに丁寧になっている。この人、仕事モードに入ると、本当に堂に入る。

「ハチミツレモン味の、羊羹が、欲しい」

 桜井の手が、ぴたりと止まった。

「……ハチミツレモン、か」

「ある人の、好きな味なんだ。それと、その人は、高級な老舗の羊羹を持ってくるようなイメージだって、冗談で言ったことがあって。……だから、本当に、老舗の羊羹を、俺のためだけの味で、作ってもらいたい」

 我ながら、無茶苦茶な注文だと思った。

 桜井は、しばらく黙って、俺の顔を見ていた。

「……明月殿。それは、『本命』ですな」

「……あぁ」

「そうか」

 桜井は、ふっと、柔らかい表情になった。普段、感情をあまり表に出さないこいつが、こんなふうに笑うのは、珍しい。

「承知した。実は、うちの先代、つまり祖父が、昔、柑橘を使った練り羊羹を試作していたことがある。レシピは残っている。一晩、考えさせてほしい」

「いいのか。迷惑じゃないのか」

「迷惑なものか。友の、一世一代の贈り物だろr

 桜井は、胸を張った。

「それに、手伝ってほしいことがある。羊羹は、練るのに、力と根気がいる。当日の朝まで、うちに通えるか」

「……俺が、作るのか」

「作るのは、拙者だ。ただし、練りの一番大事な工程は、贈る本人に、手を動かしてもらいたい。それが、うちの店の、流儀ってもんだ」

 由紀の言葉が、蘇った。時間をかけたものの方が、ずっと刺さる。

「……分かった。やる」

 そうして、俺は、ホワイトデーまでの五日間、放課後を、桜井屋の作業場で過ごすことになった。

 大きな銅鍋の中で、小豆の餡と寒天、ハチミツ、レモンの皮が、とろりと混ざり合っていく。木べらを握る手は、一日で、まめだらけになった。

「腰が入っていないでござる、明月殿」

「うるせぇ、これでも必死だ」

「その調子で、気持ちも込めるでござるよ」

「……お前、実は楽しんでるだろ」

「否定はしない」

 桜井は、にやりと笑った。

 湯気の立つ銅鍋を見つめながら、俺は、考えていた。

 こうして、誰かのために、手間をかけること。それは、これまで俺が、一番避けてきたことだった。傷つくくらいなら、最初から、近づかない。期待しなければ、裏切られない。そう思って、二年半、生きてきた。

 でも、この五日間、木べらを握る手の痛みは、不思議と、心地よかった。

 誰かを大切に思う、ということは、こんなにも、温かい重さを、持っているのだと、初めて知った。


        *


 三月十四日。

 朝、教室の扉を開けた瞬間、いつもと違う空気を感じた。

 教室中の男子が、そわそわしている。机の下で、こっそり紙袋を確認する者。廊下で、女子に何かを渡して、顔を真っ赤にしている者。そして、ひたすら、遠い目をしている者。

 石井だ。

「……石井、どうした」

「明月洸夜。俺は、今日、悟った」

「何を」

「お返しを渡す相手が、いない、という絶望をな」

「バレンタインに義理を三つもらってただろ」

「そうだ。三つとも、お返しを渡した。クッキーを、三枚ずつだ」

「少なっ」

「個包装で、衛生的だ」

「そこじゃない」

 石井は、がっくりと肩を落とした。中村が、その肩を、無言でぽんぽんと叩いている。桜井は、昨日の疲れが残っているのか、眠そうに、しかし、ちらりとこちらを見て、小さく親指を立てた。

 羊羹は、今朝、桜井から受け取った。桐の小箱に、丁寧に収められたそれは、俺の鞄の中で、静かに、出番を待っている。

 席に着くと、前の席の澪が、振り返った。

「……おはよう、明月くん」

「おはよう」

 いつもと、同じ挨拶。けれど、澪の頬は、ほんのりと赤かった。目が合うと、すぐに逸らして、ノートに視線を落とす。その指先が、ペンを、ぎゅっと握りしめていた。

 今日一日、彼女は、きっと、ずっと緊張している。

 そして、それは、俺も、同じだった。

「洸夜」

 背後から、有栖の声がした。振り向くと、いつもの、軽やかな笑顔で、立っている。

「おはよ。今日、ホワイトデーだね」

「……あぁ」

「ちゃんと、準備、した?」

「した」

「ふーん」

 有栖は、目を細めて、俺の鞄を、じっと見つめた。それから、澪の背中を見て、また俺を見た。

「顔、いいじゃん。覚悟、決まってる顔」

「……そうか」

「うん。大丈夫。洸夜なら、ちゃんと、渡せるよ」

 有栖は、ぽんと、俺の肩を叩いた。その手は、少しだけ、冷たくて、でも、優しかった。

「頑張れ」

「……ありがとな」

「どういたしまして」

 あいつは、そう言って、自分の席へ戻っていった。その背中が、昨日までより、ずっと軽やかに見えたのは、俺の勘違いではないと思う。

 授業の内容は、ほとんど、頭に入らなかった。


        *


 放課後。

 私は、ずっと、考えていた。

 何を、言えばいいのだろう。

 バレンタインの日、私は、彼に宣言した。ホワイトデーに、自分の言葉で、全部伝えたいと。家のこと、父のこと、私自身のこと。その覚悟で、今日まで、戦ってきた。

 けれど、いざ、この日が来ると、頭の中が、真っ白になってしまう。

 父との約束は、果たした。祖母の後押しも、あった。あとは、私が、彼に、言うだけ。

 ――でも、ホワイトデーは、男性が、お返しをする日だと、聞いた。初耳。

 昨夜、葵に、そのことを指摘された時、私は、一瞬、固まってしまった。

「姉さん、それ、順序逆じゃない?」」

「……っ、だ、だって、私が、言うと決めたのよ」

「決めたのは偉いけどさ。バレンタインで、姉さんは、もう一番大きな一歩を、踏んでるでしょ。今日は、明月さんの番なんじゃない?」

 そう言われて、私は、言い返せなかった。

 でも、どうしても、先に、自分の言葉を、伝えたい。そうしなければ、彼の言葉を、受け取る資格が、ない気がした。

 鞄を持って、立ち上がる。教室の中は、もう、ほとんど、人が残っていない。

「……明月くん」

「あぁ」

 振り返ると、彼は、鞄を肩にかけて、もう立ち上がっていた。

「一緒に、帰らないか」

 それは、私が、言おうとしていた言葉だった。

「……ええ」

 私の返事は、少し、掠れていた。


        *


 校門を出て、商店街の方へ、二人並んで歩く。

 夕暮れの空は、桃色と橙色が、ゆるやかに混ざり合って、ところどころ、薄い雲が金色に縁取られている。春の匂いが、風に混じっていた。

 言葉は、少なかった。

 互いの歩幅を、確かめ合うように、ゆっくりと。

 やがて、商店街の入口の、小さな橋の手前で、俺は、足を止めた。

 ここは、入学して間もない頃、教科書を返すために、息を切らして、走った場所だ。

「……覚えてるか」

「ええ」

 澪は、小さく笑った。

「あなたが、膝に手をついて、肩で息をして。商店街の人に、水色の髪の子を見ませんでしたかって、聞いて回ったって」

「必死だったんだ」

「ええ。……あの時、私、嬉しかったの」

 澪は、橋の欄干に、そっと手を置いた。

「教科書なんて、明日でもよかったのに、あなたは、走ってきてくれた。誰かが、私のために、そこまでしてくれたのが、初めてで」

 夕日が、水面に反射して、きらきらと揺れている。

「その時から、ずっと、気になってたのかもしれないわ。……認めたくなくて、気持ちを調査してるなんて言い訳をして」

「調査?」

「いえ、こっちの話」

 澪は、慌てて、咳払いをした。

 それから、深く、息を吸った。

「明月くん。バレンタインの日に、言ったでしょう。ホワイトデーに、私が、言うって」

「あぁ」

「私、ずっと、考えてたの。何を、どう言えばいいのか」

 彼女の指先が、震えている。それでも、真っ直ぐ、俺を見ていた。

「私は、神楽坂の家に生まれて、家のために生きることが、当たり前だと思ってた。順位も、礼儀も、笑顔も、全部、家のためのもの。自分のために、何かを選んだことは、ほとんど、なかった」

「……」

「でも、あなたと出会って、初めて、自分で選びたいものができた。ポテトチップスの味も、ハチミツレモンの甘さも、誰かと並んで歩く時間も。……あなたの隣にいる私が、一番、私らしいって、思えたの」

 澪は、そこで、一度、目を閉じた。

「だから、私は」

「待ってくれ」

 俺は、思わず、彼女の言葉を、遮っていた。

 澪が、驚いて、目を見開く。

「……明月くん?」

「悪い。でも、これだけは、俺に、言わせてほしい」

 鞄の中から、桐の小箱を取り出す。両手で、それを、彼女の前に差し出した。

「ホワイトデーは、お返しの日だろ」

「……え」

「お前は、バレンタインに、チョコを渡してくれた。怖かったはずなのに、先に、踏み出してくれた。父親との約束も、試験も、全部、一人で、戦ってくれた」

 声が、少しだけ、震えた。

「だから、今日は、俺が、返す番だ。……全部、返したい。お前が、俺にくれた分、全部」

 澪の目が、大きく、揺れた。

「開けてくれ」

 彼女は、震える手で、小箱の蓋を、そっと開けた。

 中には、薄い黄金色の、練り羊羹が、静かに、並んでいる。表面には、細かく刻まれたレモンの皮が、星屑のように、散らされていた。ハチミツの甘い香りと、柑橘の爽やかな香りが、ふわりと、立ち昇る。

「……これ」

「ハチミツレモンの、羊羹」

 澪の唇が、小さく、動いた。

「覚えてるか。球技大会の前、体育館で、お前に、言っただろ。『高級老舗和菓子屋の羊羹とか、持ってくるイメージだった』って」

「……覚えてる」

「だから、本当に、作ってもらった。友達の、実家の店で。ただ、練るところは、俺が、手伝った」

 澪の目が、はっと、俺の手に向いた。まだ、少し、赤く腫れている。

「……この、手」

「五日間、木べらを握ってたからな。まめだらけだ」

「どうして、そこまで」

 澪の声が、掠れていた。

 俺は、まっすぐ、彼女の目を見て、答えた。

「お前に、渡したかったから。お前のために、時間と手間をかけたかったんだ」

 心臓の音が、うるさいくらいに、響いている。

 言え。ここで、逃げるな。

「俺は、中学の時、恋愛は、金と時間の無駄だと思ってた」

 澪が、息を呑む。

「信じて、裏切られて、笑いものにされた。傷ついた先に、何も得られないって、本気で思ってた。だから、誰かを好きにならないことが、一番、賢いんだって」

「……」

「でも、お前に会って、分かった。傷つくかもしれなくても、それでも、隣にいたいと思える人が、いるんだって」

 羊羹の箱を持つ手が、震えていた。

「澪。俺は、お前が好きだ」

 空気が、止まった。

「ポテトチップスを、おいしそうに食べるお前が。ピザを、チーズ伸ばして笑うお前が。完璧な令嬢のふりをして、本当は不器用で、負けず嫌いで、誰より頑張り屋なお前が」

 言葉が、次々と、溢れてくる。

「怖がりで、泣き虫で、それでも、自分の足で、俺のところまで、歩いてきてくれたお前が、好きだ」

 澪の瞳から、大粒の涙が、ぽろり、と零れた。

「……ずるい」

「え」

「私が、先に、言いたかったのに」

 澪は、泣きながら、笑っていた。

「でも、いいわ。……私、今日のために、ずっと、考えてたの。言葉を」

「うん」

「でも、全部、いらなかった。あなたが、先に、私が欲しかった言葉を、言ってくれたから」

 澪は、羊羹の箱を、両手で、そっと受け取った。そして、胸に、ぎゅっと、抱きしめる。

「私も」

 小さな、けれど、はっきりとした声が、夕暮れの空気を、震わせた。

「私も、あなたが、好きです。……洸夜くん」

 名前を、呼ばれた。

 初めて、だった。

 胸の奥で、何かが、爆発したように、熱くなった。

「……今、なんて」

「洸夜くん、って、呼んだの。……だめ?」

「だ、だめじゃない」

「なら、もう一回、呼ぶわね。洸夜くん」

「……っ」

「洸夜くん。……私と、付き合ってください」

 涙で濡れた顔で、澪は、真っ直ぐに、俺を見つめた。

 その言葉が、あまりにも、真っ直ぐで、俺は、一瞬、言葉を失った。

「俺が、言おうと思ってたのに」

「ホワイトデーは、お返しの日でしょう?あなたの『好き』は、私の『好き』に対する、お返しだった。だから、私は、もう一度、私から、伝えたかったの」

 澪は、鼻をすすって、悪戯っぽく、笑った。

「これは、お返しの、お返しよ」

「……ずるいな、お前」

「あなたに、似たのかもしれないわ」

 俺は、思わず、吹き出してしまった。

 澪も、泣きながら、笑った。

 二人分の笑い声が、夕暮れの橋の上に、柔らかく、溶けていく。

「……俺で、いいのか」

「あなたが、いいの」

「家のこととか、お父さんのこととか、まだ、問題は山積みだぞ」

「それでも」

 澪は、きっぱりと、言った。

「一緒に、考えましょう。洸夜くんと、二人で」

 その言葉に、俺は、深く、頷いた。

「……あぁ。よろしく、澪」

 差し出した手を、澪は、そっと握り返した。

 その手は、小さくて、温かくて、少し、震えていた。

 二年半、固く閉ざしていた何かが、静かに、解けていく音がした。


        *


 帰り道、商店街の外れで、澪は、ふと、足を止めた。

「ねぇ、洸夜くん」

「ん」

「この羊羹、一緒に、食べない?」

「え、今?」

「冷蔵庫に入れて、大事にしまっておくのも、いいけれど。……あなたの手が、五日間かけて、作ったものでしょう?一番おいしい時に、一番最初に、あなたと、食べたいの」

 その言葉に、胸が、きゅっと、締めつけられた。

 近くの、小さな公園のベンチに、二人で、並んで腰を下ろす。夕日が、ゆっくりと、沈んでいく。

 澪は、羊羹を、一口、頬張った。

 その瞬間、彼女の目が、大きく、見開かれた。

「……おいしい」

 ぽつりと、零れた声が、あまりにも、素直で。

「ハチミツの甘さが、柔らかくて。レモンが、ほんのり、後から、追いかけてきて。……これ、今まで食べた、どんなお菓子よりも、おいしいわ」

「桜井の腕のおかげだ」

「いいえ。洸夜くんが、練ったからよ」

 澪は、羊羹を、もう一切れ、俺の口元に、差し出した。

「はい、あーん」

「ちょ、待て、ここ、外だぞ」

「誰も、見ていないわ」

「いや、見てる人は、見てるぞ」

「あら、ポテトチップスの時、拒否したでしょう。今日は恋人なんだから、許されるはずよ」

 澪は、真っ赤な顔で、でも、楽しそうに、笑った。

 逃げ場は、なかった。

 俺は、観念して、口を開けた。口の中に広がる羊羹の甘さは、俺が作ったはずなのに、今まで食べた、どんな味より、甘かった。


        *


 その夜。

 自室のベッドに寝転がりながら、俺は、天井を見つめていた。まだ、頬が熱い。手のひらには、澪の手の温もりが、残っている気がした。

『今日は、ありがとう。……洸夜くん、って、呼んでもいい?』

 スマホに、澪からのメッセージが届く。

『もう、呼んでただろ』

『それは、勢いだったから。改めて』

『いいに決まってる。……俺も、澪って、呼ぶ』

『もう、呼んでるじゃない』

『勢いじゃなくて、改めて』

 しばらく、既読のまま、返信が止まった。きっと、画面の向こうで、顔を赤くして、ベッドの上を、転げ回っているに違いない。

 やがて、短い返信が、来た。

『おやすみなさい。……大好きよ、洸夜くん』

 画面を見つめたまま、俺は、枕に顔を埋めた。

「……っ、反則だろ」

 誰にも聞こえない声で、呻く。

 ノックの音がした。

「お兄ちゃーん、入るよ」

 由紀だった。今日は、珍しく、お盆に、麦茶とクッキーを載せている。

「……なんだ」

「別に。ただの、様子見」

 由紀は、ベッドの端に座って、じっと、俺の顔を、覗き込んだ。

「……うまく、いったんだね」

「……なんで分かる」

「顔が、緩みすぎ。ニヤ男、再来」

「うるさい」

「よかったね、お兄ちゃん」

 由紀は、ふっと、柔らかく、微笑んだ。

 そして、少しだけ、目を潤ませて、小さな声で、付け足した。

「……ほんとに、よかった」

 その一言に、俺は、何も言えなくなってしまった。

 中学二年の春、俺が、一人で閉じこもっていた時、一番近くで、何もできずに、見ていた妹。誰よりも、心配していたのは、きっと、こいつだ。

「……ありがとな、由紀」

「ど、どういたしまして。別に、お兄ちゃんのためじゃなくて、私の観察日記の、最終章が、ハッピーエンドになってほしかっただけだし」

「最終章て」

「まだ、続きはあるけどね。お父さんの、ラスボス戦が」

 由紀は、立ち上がって、扉の前で、振り返った。

「頑張ってね、お兄ちゃん。私、全力で、応援するから」

「……おう」

 扉が閉まる。

 静かになった部屋で、俺は、窓の外を見上げた。春の夜空に、おぼろ月が、淡く、浮かんでいる。

 神楽坂家の父。あの、三者面談の時の、冷たい目。まだ、何も、解決していない。

 けれど、不思議と、怖くなかった。

 俺の隣には、もう、一緒に、戦ってくれる人が、いる。

 俺の全然普通じゃない高校生活は、新しい一章を、迎えようとしていた。

 

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