ep.32 順位は私の価値じゃない
第三十二話 順位は私の価値じゃない
返事が来ないスマホを、勉強の合間に何度も裏返しては戻してしまう男、そう、俺です。
学年末試験まで、あと四日。
図書室の窓際、いつもの席。向かいの椅子は、三日前から空いたままだった。
最初の日は、家の用事だろうと思った。二日目は、忙しいのだろうと思った。三日目の夜、送ったメッセージに既読がつかないまま日付が変わった時、俺はようやく、胸の奥がざわついていることを認めた。
『大丈夫か』
その一言を、送るか送らないかで、一時間悩んだ。結局、送信ボタンは押せなかった。
押しかけて何になる。俺は彼女の家の事情に口を出せる立場じゃない。ホワイトデーまで返事を待つと約束したのは、他でもない俺だ。待つ、というのは、こういう夜を耐えることも含むのだと、初めて知った。
「お兄ちゃん、シャーペンの音、止まってる」
夕食後、麦茶を持って部屋に入ってきた由紀が、いつもの調子で言った。
「分かってる」
「神楽坂さんのこと?」
「……なんでそうなる」
「葵くんから連絡あったの。お家、ちょっと大変みたい」
シャーペンを握る手に、力が入った。
「大変って、何が」
「詳しくは教えてもらえなかった。でも、『姉さんは大丈夫だって言ってる』って」
由紀は、机の端に麦茶を置いて、じっと俺の顔を見た。茶化す色は、どこにもなかった。
「お兄ちゃん。信じて待つのも、立派な参加だと思うよ」
「……それ、誰の受け売りだ」
「私のオリジナル」
由紀は、ふん、と胸を張ってから、小さく付け足した。
「でも、本当に困ったら、ちゃんと言ってね。私たち、協力できるから」
その背中が部屋を出ていくのを見送って、俺は、冷めかけた麦茶を飲み干した。喉の奥が、少しだけ熱かった。
*
神楽坂家の書斎は、いつも冬のように静かだ。
重い樫の扉の向こうで、柱時計の振り子だけが、規則正しく時を刻んでいる。革張りの椅子に座る父の前で、私は、背筋を伸ばして立っていた。
三日前の夜から、私のスマホは取り上げられている。
「家庭教師から報告があった」
父は、机の上で指を組んだまま、感情のない声で言った。
「お前が最近、模試の復習の時間を削り、深夜に長時間の通話をしていると」
期末の前夜。あの電話のことだ。たった十数分の、あの声が、報告されていたのか。
「相手は、同じクラスの男子生徒だな。明月、といったか」
心臓が、跳ねた。
「……はい」
「調べさせてもらった。母子家庭、母親はゲーム会社の管理職。目立った実績はなし」
一つ一つの言葉が、冷たい針のように、胸に刺さる。調べられた。あの人の、家族のことまで。
「お父様、それは」
「聞け」
短い一言で、私は口を閉ざした。
「澪。お前は神楽坂の跡取りだ。交友関係は、家の評価に直結する。成績を落とす原因になる相手との付き合いは、整理しなさい」
「整理、とは」
「学年末試験が終わるまで、連絡を断て。そして、順位が首席から落ちた場合は、そのまま関係を断つ。塾も、家庭教師も増やす」
目の前が、白くなった。
順位が落ちたら。関係を断つ。
彼を、私の成績の「原因」として扱う、その言い方が、どうしても許せなかった。
彼は、私を縛ったことなど一度もない。パンとコーラを差し出してくれた。「いつも通りやれば大丈夫」と言ってくれた。私が笑えるようになったのは、彼のおかげなのに。
けれど、喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。
今、ここで感情のままに反抗しても、スマホを取り上げられたまま、何も変わらない。祖母が言っていた。最後は、自分の言葉で話すのが一番効く、と。
その「最後」は、今じゃない。
「……承知いたしました」
私は、深く頭を下げた。
その瞬間、自分の中で、何かが小さく軋む音がした。
承知したのは、命令にではない。「試験の結果で証明する」という、一つの戦い方に対してだ。
顔を上げた私の目を見て、父が、わずかに眉を動かした。
「……なんだ、その目は」
「いえ。ただ、お父様。一つだけ、お願いがございます」
「言ってみなさい」
「もし、首席を守ることができたなら。その時は、私の交友関係について、一度だけ、私自身の言葉で、お話しする機会をください」
書斎の空気が、ぴんと張り詰めた。
私が、父に条件を突きつけたのは、生まれて初めてだった。
父は、しばらく何も言わなかった。柱時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
「……いいだろう。首席を守れたなら、聞いてやる」
「ありがとうございます」
部屋を出て、扉が閉まった瞬間、膝から力が抜けそうになった。廊下の壁に手をついて、必死に呼吸を整える。指先が、がたがたと震えていた。
「姉さん」
廊下の暗がりから、葵が、そっと顔を出した。
「聞こえてた。……ごめん、盗み聞きして」
「いいのよ」
「姉さん、あんなこと言って、大丈夫なの」
「大丈夫じゃないわ。怖くて、足が震えてる」
私は、弱々しく笑った。
「でも、逃げたくないの。あの人が、私を笑わせてくれたから。今度は、私が、あの人のために戦う番だと思ったの」
葵は、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……姉さん、かっこいいよ」
「あなたに言われると、変な気分ね」
「素直に受け取ってよ。……スマホ、僕のを使って。明月さんに、連絡だけでも」
「だめよ。約束は、約束。試験が終わるまで、連絡は断つわ」
それが、私なりの、誠実さだった。
彼に、心配をかけたくない。けれど、彼のことを、こんなふうに盾にして、言い訳もしたくない。
だから、私は、ひとりで勝つ。
机に戻った私は、参考書を開いた。部屋の明かりは、深夜まで消えなかった。
*
学年末試験、初日。
教室に入ると、前の席は、空いていなかった。
澪は、いつものように背筋を伸ばして座っていた。ただ、その横顔は、少しだけ痩せたように見えた。目の下には、うっすらと隈がある。
目が合った瞬間、澪は、ほんの一瞬だけ、微笑んだ。
声は、出さなかった。口が、小さく動く。
『だいじょうぶ』
それだけだった。
俺は、頷き返した。それ以上、何も訊かなかった。訊く必要が、なかった。
――信じて、待つ。
それが、今、俺にできる、唯一のことだった。
試験は、三日間にわたって行われた。
英語、数学、国語、理科、社会。ラジアンの時の恐怖が嘘のように、頭は冴えていた。ペンを走らせながら、時々、前の席の背中を見る。
あの背中は、一度も、揺れなかった。
ただ、最終日の午後。最後の科目、現代文が終わった瞬間、澪の肩が、ふっと沈んだ。
長い、長い、息を吐く音が、静まり返った教室に、小さく響いた。
その音を聞いた時、俺の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
彼女が、何を背負って、この三日間を戦っていたのか。まだ、俺は、半分も分かっていない。
けれど、少なくとも、その背中に、誰かが、ずっと見守っていたことを、彼女に、伝えたかった。
声はかけられなかった。澪は、答案を提出すると、一度もこちらを振り返らずに、迎えの車へと向かっていった。
その背中を、俺は、見えなくなるまで、見送った。
*
結果発表の日、廊下の掲示板の前は、いつも以上の人だかりだった。
張り出された順位表の最上段に、視線が吸い寄せられる。
一位。『神楽坂澪』。
二位。『琴吹有栖』。
点差は、わずか一点。
「……一点差」
誰かの声が、ざわめきの中に混ざる。
その隣の人混みの中で、有栖が、腕を組んで順位表を見上げていた。悔しそうに、唇を尖らせている。けれど、その横顔は、不思議なほど、晴れやかだった。
「また負けたぁ。あと一問だったのに」
「有栖」
「洸夜。見てよこれ、また一点差。私、澪ちゃんに呪われてるのかな」
「呪いじゃなくて、実力だろ」
「うわ、冷たい。……まぁ、いいけど」
有栖は、ふっと表情を和らげた。
「澪ちゃん、今回、どうしても負けられなかったんだと思う。何か、すごい顔してたもん、試験中」
「……分かるのか」
「分かるよ。同じ土俵で戦ってるんだから」
そう言ってから、有栖は、ちらりと俺を見た。
「洸夜は?」
「九位」
「えっ、九位!? ついに一桁じゃん!!
「余裕だ」
十三位から、四つ上がった。一桁。紙の上に、確かに自分の名前が刻まれている。
「やるじゃん。……ちゃんと、澪ちゃんのところ、行きなよ」
有栖は、俺の背中を、ぱしんと叩いた。
「今、一番、洸夜に会いたいと思うよ」
その言葉が、背中を押した。
俺は、人混みをかき分けて、廊下を走り出した。
*
順位表を確認したその日の夕方、私は、本家の座敷に呼び出された。
畳の香りと、炭火の匂い。床の間の掛け軸の前に、父が座っている。その斜め後ろには、湯呑みを抱えた祖母が、静かに腰を下ろしていた。
「首席を、守ったな」
父は、成績通知の紙を、卓の上に置いたまま言った。
「はい」
「約束は約束だ。言いなさい。お前自身の言葉で」
私は、畳に膝をついたまま、息を整えた。
怖い。怖くて、足が痺れている。けれど、逃げ道は、もうない。
「お父様」
声は、思ったよりも、震えなかった。
「私は、順位でできているのでしょうか」
父の眉が、わずかに動いた。
「ピアノも、お茶も、成績も。確かに、私は、それらを積み重ねてきました。それが私の誇りであることも、否定しません」
「……」
「ですが、お父様。私が、ポテトチップスをおいしいと感じた日のことは、順位に含まれていません。仲間と食べた唐揚げの味も、紅葉を手のひらでキャッチできた時の嬉しさも、順位には含まれていません」
父が、何か言いかけて、口を閉じた。
「そういう『順位に含まれない私』を、最初に見つけて、笑わずに受け止めてくれたのが、明月洸夜さんです」
名前を口にした瞬間、胸の奥が、熱くなった。
「彼は、私の成績を落としませんでした。むしろ、私が、安心して頑張れる場所を、作ってくれました。その証拠が、今回の結果です。ご覧のとおり、私は、首席を守りました」
私は、卓の上の紙を、静かに指差した。
「そして、彼自身も、一桁代へと、自力で順位を上げています。調べられたのなら、お分かりのはずです。彼は、誰かに頼り切るのではなく、自分の足で立とうとする人です」
「……」
「お父様。私は、神楽坂の名を、捨てるつもりはありません。家業も、継ぎます。その覚悟は、変わりません」
畳の上で、私は、両手を、ぎゅっと握りしめた。
「ただ、私の心まで、家に預けるつもりはないのです。私は、私自身の意思で、あの人の隣にいたい。それが、私の、最初のわがままです」
座敷が、しんと静まり返った。
炭の爆ぜる音が、やけに遠くに聞こえた。
父は、長い間、何も言わなかった。
目を伏せて、膝の上で、拳を握りしめている。その横顔は、いつもの冷たい仏頂面ではなく、何かを噛み殺すような、複雑な色を帯びていた。
「……澪」
ようやく、父が口を開いた。
「お前は、いつから、そんなふうに、物を言うようになった」
「……最近です」
「そうか」
父は、ふっと息を吐いた。
「昔のお前は、何を命じても、『はい』としか言わなかった。それが、楽でもあり……」
そこで、言葉を切って、父は、そっと目を閉じた。
「……寂しくも、あった」
思いがけない言葉に、私は、息を呑んだ。
祖母が、湯呑みを置いて、静かに、微笑んだ。
「ほらね、澪。あの子は、不器用なだけだと言ったでしょう」
「母上」
「あなたも、昔は、私に同じ目をして、物を言ったものですよ。家の跡取りになる前の、少年の頃にね」
父は、気まずそうに、咳払いをした。
その耳が、ほんの少し、赤い。
「……約束は、聞いた。だが」
父は、背筋を正し、私を真っ直ぐに見据えた。
「お前が、そこまで言う少年を、私は、まだ、一度も見ていない。書面と噂だけで人を判断するのは、確かに、不公平だった」
「お父様……」
「近いうちに、その少年を、家に連れてきなさい」
心臓が、どくんと跳ねた。
「彼と、直接、話す。それで、私が納得できるかどうかは、別問題だ。……だが、会わずに、否定はしない」
それは、許可ではなかった。
けれど、扉が、ほんの少しだけ、開いた音がした。
「……ありがとうございます」
私は、畳に額がつくほど、深く頭を下げた。
目の端から、熱いものが、ぽたり、と畳に落ちた。
祖母の手が、そっと、私の背中に触れる。
「よく、頑張ったね。澪」
その声に、堪えていたものが、一気に決壊した。
*
校門の前で、俺は、足を止めた。
夕焼けに染まる正門の脇、桜の蕾がまだ固い並木の下に、見慣れた黒い車が停まっている。
後部座席のドアが開いて、降りてきたのは、澪だった。
目が、赤い。泣いた後の顔だった。
けれど、その表情は、これまで見たどの澪よりも、晴れやかだった。
「……明月くん」
「澪」
俺が呼ぶと、澪は、一歩、二歩と、駆け寄ってきた。そして、俺の目の前で、ぴたりと止まる。
「一位、取れたわ」
「見た。おめでとう」
「あなたも、九位。……すごいわ」
「お前のおかげだ」
「違うわよ。あなたが、自分で頑張ったの」
澪は、小さく笑った。涙の跡の残る頬に、夕日が、柔らかく差している。
「ごめんなさい。三日間、連絡できなくて」
「いいんだ。事情があったんだろ」
「……聞かないの?」
「話したくなったら、聞く」
澪は、ふっと目を潤ませて、それから、一歩だけ、距離を詰めた。
「お父様に、言ったの。私は、あなたの隣にいたいって」
「……っ」
「ちゃんと、自分の言葉で。怖かったけれど、言えたの」
息が、止まった。
胸の奥で、何かが、熱く、大きく膨らんでいく。
「それでね」
澪は、少し照れくさそうに、視線を逸らした。
「お父様が、あなたに、会いたいって」
「……俺に?」
「ええ。近いうちに、家に来てほしいって。……会って、話すって」
目の前が、くらりとした。
令嬢の家。神楽坂家の本邸。あの、美術館みたいな廊下の奥で、あの、三者面談の時に見た、冷たい目をした父親と、一対一で話す。
想像しただけで、胃が縮み上がる。
「……行く」
それでも、答えは、迷わなかった。
「行くよ。逃げない」
「本当に?」
「澪が、一人で戦ってくれたんだろ。今度は、俺の番だ」
澪の目から、また、ぽろりと涙がこぼれた。
彼女は慌てて、手の甲で拭おうとしたが、間に合わない。俺は、ポケットから、よれたハンカチを取り出して、そっと差し出した。
「……いつも、気が利くのね」
「たまたまだ」
「嘘つき」
涙で濡れた顔で、澪は、くしゃりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で、はっきりと分かった。
俺は、この人が、好きだ。
恐怖も、不安も、まだ残っている。令嬢という壁の高さも、父という存在の重さも、現実として、目の前にある。
それでも。
この人が、自分の足で、ここまで歩いてきてくれた。ならば、俺も、逃げずに、迎えに行く。
澪は、涙を拭いて、いつもの、少しだけ生意気な笑みを浮かべた。
茜色の空の下、二人分の影が、校門の前に、長く伸びていく。
春は、もうすぐそこまで、来ていた。
俺の全然普通じゃない冬は、最後の、一番大きな山場を前に、静かに、深呼吸をしていた。




