ep.31 ブランコは、まだ二人乗りじゃない
いつも煩わしいと思っていた声が聞こえないだけで、教室がやけに広く感じてしまった男、そう、俺だ。
二月も下旬に入り、学年末試験まであと一週間を切った。
窓の外では、先週降った雪がようやく溶けきって、校庭の土が黒く湿っている。朝の空気はまだ刺すように冷たいが、昼間の日差しにはほんの少しだけ、春の匂いが混じり始めていた。
その日の昼休み、俺は学食の沖縄そばをすすりながら、ふと違和感の正体に気がついた。
「……静かだな」
「ん? 何がだ明月洸夜」
石井が唐揚げを口に運びながら首を傾げる。
「いや、別に」
口ではそう言ったが、頭の中では、はっきりと言葉になっていた。
有栖が、最近、俺をからかいに来ない。
以前なら、昼休みになれば「洸夜くーん、ぼっち飯してないー?」と、どこからともなく湧いて出てきたのに。部室でも、スマホをいじっているか、小林先輩や松本先輩と静かに話しているだけ。目が合うと、いつもの笑顔は返ってくる。返ってくるのに、その笑顔が、半拍だけ遅れている気がした。
バレンタインの日にもらったブラウニーは、不格好で、でも温かかった。あの時の有栖は、「今日は、ちゃんと受け取りなよ」と言った。あれ以来、あいつは必要以上に、俺に近づいてこない。
避けられている、というのとは少し違う。距離を測られている、というか。
まるで、何かの準備をしているみたいに。
――考えすぎか。
そう思おうとした時、ポケットの中でスマホが震えた。
『今夜、八時。昔の公園』
有栖からだった。それだけの、短い一文。
絵文字も、からかいの一言もない。
箸が、止まった。
「どうした明月、顔色悪いぞ。お前もチョコ食いすぎたのか?」
「……いや、大丈夫だ」
返信を打つ指が、少しだけ重かった。
『分かった』
たった三文字を送るのに、俺は、なぜか三回も打ち直した。
昔の公園。商店街の裏手にある、小さな児童公園のことだ。ブランコと滑り台と砂場しかない、錆びた遊具の置き場みたいな場所。小学生の頃、有栖と二人で、日が暮れるまで走り回った。あの頃の俺は、あいつのことを、女子だなんて一度も思わなかった。
今も、そのつもりでいた。
いや、そのつもりでいた、という事実そのものが、いつの間にか、胸の奥に小さな棘になっていた。
*
琴吹食堂の厨房は、夕方五時を過ぎると戦場になる。
揚げ物の油が弾ける音、換気扇の唸り、父の「注文入ります!」という野太い声。私は割烹着の紐を結び直しながら、いつものように、お盆を持って客席を走り回っていた。
笑顔で、元気に、軽快に。
それが、私の「普通」だ。
「有栖、今日はもう上がっていいぞ」
七時を少し過ぎた頃、父が厨房から顔を出した。
「え、まだ忙しいじゃん」
「顔に書いてあるんだよ。さっきから、時計ばっかり見てる」
図星を突かれて、思わず口を閉じる。この人は、不器用で口数が少ないくせに、娘のことだけは昔から異様に見抜く。
「……ちょっと、出かけてくる」
「ああ。遅くなるなら連絡しろ」
父は、それ以上何も聞かなかった。代わりに、揚げたてのコロッケを二つ、紙袋に入れて、無言で私の手に押し付けてくる。
「寒いからな。冷める前に食え」
「……うん。ありがとう、お父さん」
紙袋のぬくもりを胸に抱えて、私は店を出た。
夜の商店街は、シャッターの降りた店が多くて、街灯の光が路面に淡く落ちている。吐く息が白く、ほどけて消える。冷たい空気が頬を刺すたびに、頭の中が、少しずつ澄んでいくような気がした。
バレンタインの日の放課後。私は見てしまった。
鞄を握りしめた澪ちゃんが、洸夜に声をかけて、二人で教室を出ていくところを。屋上へ続く階段の方へ。
追いかけなかった。追いかけられるはずがなかった。
あの日、帰り道で、私は一人でブラウニーの余りを食べた。甘すぎて、喉に引っかかって、なんでか分からないけど、涙が出そうになった。
――ああ、そうか。
ようやく、認めた。
私は、ずっと、嘘をついていた。
「友達のままでいる方が楽」。そう思い込むことで、胸の奥の針を、見ないふりをしてきた。合宿の夜、「応援してるよ」と言った時の自分の声も。イルミネーションの日、澪ちゃんを誘わせるために、わざとシフトを偽ったことも。全部、本当に、心から応援したかった。それは嘘じゃない。
でも、嘘じゃないのと同じくらい、私は、あいつのことが好きだった。
中学二年の春。洸夜が、教室の隅で一人、俯いていた時。誰も近づけなかったあいつの隣に、私は黙って座った。何も言わなかった。ただ、隣に、いた。
あの時、洸夜は、小さく言った。
「……有栖がいてくれて、助かった」
たったそれだけの言葉を、私は、四年近く、宝物みたいに抱えてきた。
だけど、あいつが誰かを好きになった今、その宝物を、ずっと握りしめたままでいるのは、きっと、違う。
公園の入口が見えてきた。
錆びたブランコが、夜風に揺れて、きい、と小さく鳴っている。
その横に、見慣れた猫背のシルエットが、先に立っていた。
「……早いじゃん」
「お前が呼んだんだろ」
「そうだけど。洸夜のことだから、遅刻して、ごめんって謝りながら来ると思ってた」
「俺は約束は守る」
真顔でそう言うあいつに、私は思わず吹き出してしまった。
――こういうところだ。
ふざけているのに、肝心なところだけ、馬鹿みたいに真面目なところ。
私は、ずっと、そこが好きだった。
*
公園の街灯は、一本だけ点滅していた。
ブランコの鎖は冷え切っていて、握ると指先が痺れる。有栖は右のブランコに、俺は左のブランコに、それぞれ腰を下ろした。昔は、二人で並んで、どっちが高く漕げるか競い合っていた。今は、足を地面につけたまま、ほとんど動かない。
「ほら、これ」
有栖が、紙袋からコロッケを一つ取り出して、俺に差し出した。
「お父さんが持たせてくれた。冷める前に食べなよ」
「ありがとう」
かじると、衣がさくりと音を立てて、中から熱いじゃがいもが溢れた。口の中に、懐かしい味が広がる。小学生の頃、遊び疲れて、この公園で二人で食べた、あの味だ。
「うまい」
「でしょ」
有栖は誇らしげに笑ったが、自分の分には、ほとんど口をつけていなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。コロッケをかじる音と、遠くの電車の音と、風に揺れるブランコの鎖の音だけが、夜の公園を満たしている。
「……ねぇ、洸夜」
やがて、有栖が口を開いた。
「バレンタインの日、澪ちゃんからチョコ、もらったでしょ」
息が、止まった。
「……なんで」
「見てたから。屋上に行くとこ」
有栖は、ブランコの鎖を握りしめたまま、まっすぐ前を向いていた。横顔が、街灯の光に照らされて、いつもより少しだけ、青白く見える。
「別に、詮索したいわけじゃないよ。結果がどうだったかも、聞かない。それは、二人のことだから」
「……有栖」
「ただね」
有栖は、そこで一度、言葉を切った。
唇が、微かに震えている。それを誤魔化すように、無理やり口角を上げた。
「私も、言っておきたいことがあって。……聞いてくれる?」
その声は、いつもの軽やかな調子とはまるで違った。
聞いてはいけない、と、どこかで思った。聞いてしまったら、もう、今までの関係には戻れない。そんな予感が、背筋を冷たく這い上がる。
けれど、あいつの目を見て、分かった。
これは、逃げちゃいけないやつだ。
「……あぁ。聞く」
「ありがと」
有栖は、ふう、と長く息を吐いた。白い息が、夜の闇に溶けていく。
「私ね、洸夜のことが、好きだったんだ」
世界から、音が消えた気がした。
「ううん、違う。今も、好き。……ずっと、小さい頃から」
風が吹いて、ブランコがきい、と鳴る。
「中学の時、洸夜が一人で俯いてた日、私、隣に座ったでしょ。あの時から、ずっと。ううん、もっと前から、かもしれない。気づいたら、洸夜のことばっかり見てた」
喉が、からからに乾いていた。
言葉が、出てこない。頭の中で、これまでの有栖の姿が、洪水のように溢れ出す。「付き合ってまーす」と冗談を言った笑顔。「応援してるよ」と星空の下で呟いた横顔。「澪ちゃんを、誘ってあげて」と暖簾の前で言った、泣き笑いの顔。
あれは全部、冗談なんかじゃなかった。
全部、こいつなりの、必死の、SOSだったんじゃないのか。
「でもね」
有栖は、俺の方を見て、にっと笑った。
その瞳は、潤んでいて、街灯の光を反射して、きらきらと揺れていた。
「返事は、いらないの。分かってるから。洸夜が、誰を見てるのか」
「有栖、俺は」
「待って。最後まで言わせて」
有栖は、俺の言葉を、優しく遮った。
「私ね、ずっと、怖かったんだ。この気持ちを口にしたら、洸夜との今の関係が、全部壊れちゃうんじゃないかって。からかったり、部屋に上がり込んだり、隣に座ったり、そういう『幼馴染の特等席』を、失っちゃうんじゃないかって」
声が、少しだけ震えた。
「だから、ずっと『友達のままが一番楽』って、自分に言い聞かせてた。……でもね、気づいたの。それって、全然、楽じゃなかった」
「……」
「洸夜が、澪ちゃんと笑ってるのを見るたびに、胸が痛くて。でも、応援したくて。応援したいのに、苦しくて。その繰り返しで、気づいたら、自分が何をしたいのか、分かんなくなってた」
有栖は、ブランコの鎖から手を離して、自分の膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
「だから、言うの。私が、ちゃんと、前に進むために。洸夜に断られるのも、分かってる。でも、言わないまま、ずっと引きずるのは、もっと嫌だから」
俺は、膝の上で拳を握りしめていた。
爪が、掌に食い込んでいる。それすら、痛みとして感じられなかった。
――俺は、馬鹿だ。
本当に、どうしようもない鈍感野郎だ。
一番近くにいて、一番助けてもらってきたやつの気持ちに、四年近くも、気づかなかった。いや、本当は、気づいていたのかもしれない。気づかないふりをして、心地いい距離に、甘えていたのかもしれない。
恋愛は傷つくもの。そう決めつけて、人の気持ちから目を背けてきたのは、他でもない俺だ。
「……有栖」
ようやく、声が出た。かすれていた。
「ごめん。俺、お前の気持ちに、全然、気づいてやれなかった」
「謝らないでよ。気づかせないようにしてたの、私なんだから」
「それでも。……ごめん」
有栖は、少し困ったように笑った。
「洸夜はさ、昔から、そういうとこ。謝らなくていいところで、全力で謝るんだよね」
「……すまん」
「また謝った」
くすくすと笑う声に、俺の肩の力が、少しだけ抜けた。
それから、俺は、ゆっくりと言葉を探した。
ここで、曖昧な優しさを返したら、それは、一番残酷なことになる。
「俺、お前のことを、特別な人だと思ってる」
有栖の肩が、小さく揺れた。
「中学の時、あの教室で、誰にも近づけなかった俺の隣に、何も言わずに座ってくれたのは、お前だった。あの時、お前がいなかったら、俺は多分、本当に、人間不信のまま、誰とも関われなくなってたと思う」
「……うん」
「だから、感謝してる。言葉じゃ全然足りないくらい。お前は、俺の恩人で、一番信頼してる友達で、……家族みたいな存在だ」
一言ずつ、噛みしめるように、言う。
「でも、お前が望む形では、お前の気持ちに、応えられない」
夜風が、二人の間を、冷たく吹き抜けた。
「俺は、澪のことが、好きだ」
口にした瞬間、胸の奥で、何かが、すとんと落ちた。
ずっと曖昧にしてきた感情に、初めて、輪郭がついた。
「まだ、本人には、ちゃんと伝えてない。だけど、これだけは、お前に嘘をつきたくなかった」
「……うん」
有栖は、小さく、頷いた。
「知ってた」
「そっか」
「うん。……でも、ちゃんと、洸夜の口から聞けて、よかった」
その声は、不思議なほど、穏やかだった。
ブランコの鎖が、軋む。有栖は、空を見上げていた。雲の切れ間から、冬の星が、いくつか瞬いている。
「ねぇ、洸夜。一つだけ、聞いてもいい?」
「なんだ」
「洸夜、昔、言ってたよね。『恋愛は、どうせ別れて、傷つくだけだ』って」
あの、中学の頃の、俺の口癖だ。
「でも、澪ちゃんのことは、そう思わないの?」
俺は、少しだけ考えて、正直に答えた。
「……思う。怖い、ってのは、今でもある。付き合えば、いつか終わるかもしれない。傷つけたり、傷つけられたり、するかもしれない」
「うん」
「でも、澪が、自分から、傷つくかもしれない道を選んで、俺に気持ちを伝えてくれた。それなのに、俺だけ、安全な場所に隠れてるわけにはいかないって、思った」
有栖が、ゆっくりと、こちらを向いた。
その目から、一筋、涙が流れた。
「……そっか」
声は、笑っていた。涙は、止まらなかった。
「洸夜、ほんとに、変わったね」
「お前のおかげだ」
「やめてよ、そういうの。私、今、必死に、笑ってるんだから」
「すまん」
「だから、謝るなってば」
有栖は、袖で乱暴に涙を拭って、それから、いつもの、意地悪な笑みを浮かべた。
「じゃあ、お願いが、一つ」
「なんだ」
「前に、貸し一つって言ったでしょ。ハチミツレモン三本で、ちゃらにしちゃったけどさ」
「あぁ」
「あれとは別に、今度は、お願い。……澪ちゃんのこと、絶対に、泣かせないで」
その言葉は、冗談めかした響きの中に、ずっしりと、重みを持っていた。
「もし、泣かせたら、私、洸夜のこと、一生許さないから。幼馴染として、全力で、ぶん殴りに行く」
「……分かった。約束する」
「よろしい」
有栖は、満足げに頷いた。
「それとね、もう一つ」
「まだあるのか」
「うん。……今まで通り、隣に座っていいかな。友達として。幼馴染として」
一瞬、言葉に詰まった。
気持ちを打ち明けたあとで、なお、同じ距離にいたいと言ってくれる。その強さと優しさが、胸に痛いほど染みた。
「……当たり前だろ」
「ほんと?」
「お前が嫌がっても、居座る」
「ふふ。それ、私のセリフ」
二人で、顔を見合わせて、笑った。
泣き笑いだった。
笑いながら、どちらも、少しだけ、目が赤かった。
*
帰り道、商店街のアーケードは、すっかり人通りがなくなっていた。
並んで歩く二人の足音が、シャッターの降りた通りに、乾いて響く。
「ねぇ、洸夜」
「ん」
「ホワイトデー、澪ちゃんに、ちゃんと答えなよ」
「……知ってたのか」
「由紀ちゃんから、ちょっとだけ聞いた」
「あいつの情報網、本当にどうなってるんだ」
「探偵だからね」
有栖は、くすりと笑った。
「ここまで来て、逃げたら、ほんとに怒るからね」
「逃げない」
「うん。……洸夜なら、大丈夫」
商店街の出口で、有栖は足を止めた。家は、ここから反対方向だ。
「じゃあ、ここで」
「送るぞ」
「いいよ。今日は、一人で帰りたい気分だから」
その言葉の意味が、今なら、分かった。
「……分かった」
「うん」
有栖は、数歩進んで、それから、くるりと振り返った。
街灯の下で、ツインテールが、ふわりと揺れる。
「洸夜」
「なんだ」
「今日、来てくれて、ありがとう」
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも、まっすぐで、少しだけ、大人びていた。
「おやすみ」
「あぁ。おやすみ、有栖」
手を振って、あいつは、夜の道を歩き出した。
背中が、少しずつ小さくなっていく。一度も、振り返らなかった。
その背中が、見えなくなるまで、俺は、その場に立ち尽くしていた。
冷たい風が、頬を撫でる。ポケットの中のスマホが、静かに震えた。
『明日、図書室で待ってるわ。……学年末試験、頑張りましょう』
澪からのメッセージだった。
画面を見つめたまま、俺は、深く息を吐いた。
今夜、俺は、一人の大切な人を、確かに傷つけた。
傷つけたのに、あいつは、笑って「ありがとう」と言った。
その優しさを、無駄にしてはいけない。
絶対に。
『おう。俺も、頑張る』
短く返信して、空を見上げる。
雲の切れ間に、小さな星が、一つだけ、瞬いていた。
幼馴染の特等席は、明日からも、ちゃんとそこにある。形を少しだけ変えて。
そして、俺は、前に進まなければならない。
ホワイトデーまで、あと、二十日。
俺の全然普通じゃない冬は、痛みと、感謝と、覚悟を連れて、また、静かに動き出した。




