ep.30 本命じゃない、とは言ってない
自分の意思で何かを選ぶことが、こんなに怖いとは思っていなかった女、そう、私だ。
三学期が始まって、二週間が過ぎた。
朝の教室は相変わらず息が白くなるほど冷えていて、窓の結露の向こうでは、校庭の隅に残った雪が薄汚れた塊になっている。黒板の隅に私が書く数字は、もうカウントダウンではなかった。ただの日付だ。それなのに、毎朝その日付を書くたびに、私の指は小さく強張る。
二月十四日まで、あと十二日。
別に、意識しているわけじゃない。そう何度も自分に言い聞かせている。バレンタインなんて、ただの行事。クラスメイトに配るお菓子の延長。お世話になった人にお礼を渡すだけ。
――なのに、どうして私は昨夜、三時間もかけて「何を渡すか」を考えていたのだろう。
「姉さん、顔に出てるよ」
朝食の席で、葵が紅茶をかき混ぜながらぼそりと言った。向かいの父は新聞に目を落としたまま、こちらに視線すら向けない。幸いなことに。
「何がかしら」
「バレンタインのこと考えてる顔」
「か、考えていないわよ」
「声が裏返ってるけど」
テーブルの下で弟の足を軽く蹴る。葵は涼しい顔のまま、パンをちぎって口に放り込んだ。この子は本当に、いつも一番言ってほしくない時に核心を突く。
「澪」
父の低い声が降ってきて、私の背筋がぴんと伸びた。
「は、はい」
「学年末試験が終わるまでは、余計なことに気を散らすな。順位は、お前の価値そのものだ」
「……承知しております」
価値そのもの。その言葉が、今日はいつもより深く刺さった。
私は、順位でできているのだろうか。ピアノも、お茶も、成績も、全部。じゃあ、ポテトチップスをおいしいと思ったあの夕方の私は、どこから来たのだろう。コンソメパンチの指を舐めたかった私は。ハチミツレモンを両手で包んで笑った私は。
それは、きっと、順位には含まれていない私だ。そして、その私を最初に見つけて、笑わずにパンとコーラを差し出してくれたのが、あの人だった。
*
「澪や。ちょっとこちらにおいで」
その週末、本家の離れを訪ねると、祖母が縁側で湯呑みを両手に包んでいた。
神楽坂の家で、私が唯一、肩の力を抜ける場所。翡翠川学園の卒業生で、あの花瓶を寄贈した人でもある祖母は、八十を過ぎても背筋が真っ直ぐで、けれど目尻の皺だけは、いつも柔らかかった。
「おばあさま、お体は冷えませんか」
「ふふ、お前は小さい頃から、人の心配ばかりだね」
祖母は私の手を取って、自分の隣に座らせた。縁側の向こうでは、冬枯れの庭に南天の赤い実が小さく揺れている。
「学校の花瓶のこと、聞きましたよ。割った子たちを、お前が助けたそうじゃないか」
「……助けたというほどでは。窯元に話を通しただけです」
「その子のこと、好きなのかい」
あまりにも唐突で、あまりにもまっすぐな問いだった。
喉が、きゅっと鳴った。
「ち、違います、そんな」
「おや、違うのかい」
「……違わない、かもしれません」
言ってしまってから、自分の声の小ささに驚いた。祖母は何も言わず、ただ私の手の甲を、ゆっくりと撫でてくれる。
「おばあさま。私、わからないのです。家のこと、お父様のこと、順位のこと。全部、背負っていくつもりでいました。それが私の役目だと。……なのに、あの人の前にいると、そういうものが、少しだけ、軽くなってしまって」
祖母は、ふふ、と小さく笑った。
「私もね、若い頃、同じことを悩んだよ。神楽坂の嫁に来る前、翡翠川の学び舎で、一人の人を好きになった」
「おばあさまが?」
「そう。結局、その人とは結ばれなかったけれどね。家の都合というやつさ」
祖母の横顔は、遠い冬空を見ていた。
「ただね、澪。後悔があるとしたら、結ばれなかったことじゃない。『自分から、一度も気持ちを伝えなかったこと』なんだよ」
息が止まる。
「家のために生きることと、自分の気持ちを殺すことは、違う。神楽坂の名を背負う覚悟があるなら、同じ覚悟で、自分の心も背負いなさい。逃げずにね」
「……はい」
「それと、あのお父さんはね、不器用なだけだよ。あの子も昔は、お前みたいな顔をしていた」
意外な言葉に、思わず祖母の顔を見た。祖母は悪戯っぽく目を細める。
「最後は、お前自身の言葉で話すのが一番効く。その時は、私も味方になってあげる。……さ、冷めないうちにお茶をお飲み」
湯呑みの温かさが、指先から胸へ、じんわりと染み込んでいった。
私は、決めた。
誰かに背中を押されるのを待つのではなく、自分の足で、一歩を踏み出すと。
*
決意は固まったけれど、問題は山積みだった。
まず第一に、私は、チョコレートを作ったことがない。
「……湯煎、って、どうやるのかしら」
深夜の台所で、スマホのレシピ動画と睨めっこしながら、私は呆然と呟いた。神楽坂家の厨房には、普段は料理長たちが立つ。夜中に忍び込んで、お嬢様が一人でチョコを溶かしているなんて、見つかれば大騒ぎになるだろう。
「姉さん、電気も点けずに何してるの」
背後から声がして、思わず悲鳴を上げそうになった。振り向くと、パジャマ姿の葵が、眠そうな目で立っている。
「な、なんでもないわ」
「ボウルとチョコとハチミツとレモン。……ハチミツレモン味、ね」
鋭い。この弟は、どうしてこうも。
「手伝うよ。見つかったら、僕が小腹が空いたことにする」
「……いいの?」
「姉さんが自分のために何かするの、珍しいからね。それに、由紀ちゃんから『絶対に手伝ってあげて』って、厳命されてるし」
由紀さん。あの子の情報網は、いったいどこまで届いているのだろう。
私たちは、小声で言い合いながら、チョコを刻み、湯煎にかけた。最初の一回は、水が入って分離した。二回目は、焦がした。三回目で、ようやく、つやのある滑らかなチョコレートが、ボウルの中でとろりと揺れた。
「……できた」
「うん、いい匂い」
小さなハート型の型に流し込みながら、私の指は、微かに震えていた。
彼は、これを受け取ってくれるだろうか。迷惑じゃないだろうか。笑われないだろうか。
あの中学の話を、彼はまだ、ちゃんとは話してくれていない。けれど、文化祭の日、彼があの女の子に向けた背中を見て、分かってしまった。彼は、一度、誰かに深く傷つけられたことがある。
だからこそ、怖い。
私の気持ちが、彼にとって、ただの重荷になってしまうのが。
「姉さん」
葵が、型を冷蔵庫にしまいながら、珍しく真面目な声で言った。
「明月さんは、そんな人じゃないと思うよ」
「……どうして、分かるの」
「由紀ちゃんが言ってた。『お兄ちゃんは、貰ったものを、絶対に雑に扱わない人』だって」
マフラーを巻いて、鏡の前でにやけていた、という話を、後日、私は由紀さんから聞いた。それを思い出すと、胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「……ありがとう、葵」
「どういたしまして。明日の朝食、僕の分のデザート、姉さんのと交換ってことで」
「ちゃっかりしてるわね」
夜の台所に、二人分の小さな笑い声が、こっそりと溶けていった。
*
二月十四日。
校舎は、朝から異様な熱気に包まれていた。
廊下のあちこちで、紙袋を抱えた女子たちが、きゃあきゃあと声を上げている。靴箱の前では、顔を赤くした男子が、誰かのチョコを受け取っては、拳を握りしめていた。……ちなみに石井は、教室の扉を開けた瞬間から、全身を除菌ジェルで消毒しながら、机の上に「あらゆるチョコレートを歓迎します(ただし個包装に限る)」という謎の張り紙を貼っていた。
「石井、お前それ、逆に引かれるだろ」
「いいんだよ明月洸夜、これは戦略なんだ」
「戦略の方向が間違ってる」
中村は黙々と、チョコの原材料を調べていたし、桜井は「義理でも感謝は忘れずに」と、一人一人にお礼のメモを書く準備をしていた。通常運転だ。
俺はと言えば、いつも通りの顔を装いながら、実は朝から一度も、前の席を直視できずにいた。
今日、澪は、何か渡してくれるのだろうか。いや、期待するな。あいつは学年首席で、神楽坂家の令嬢で、きっと義理チョコの一つや二つ、配るくらいだろう。
……なんて思いながら、昨夜、俺は風呂場で二十分くらい「もしも渡された時の自然なリアクション」を練習していた。我ながら、救いようがない。
「洸夜ー、これ」
登校早々、有栖がひょいと投げてよこしたのは、コンビニ袋に入った、小さな袋だった。
「え、何これ」
「義理。ホワイトデー、三倍返しね」
「利子高すぎだろ」
「冗談冗談。ほら、受け取りなよ」
袋の中には、有栖の実家の食堂で作ったらしい、不格好な手作りブラウニーが入っていた。形はいびつなのに、ほんのり温かいような気がする。
「……ありがとな」
「ん」
有栖は、ふいっと視線を逸らして、それから少しだけ笑った。
「今日は、ちゃんと受け取りなよ。逃げたら承知しないから」
「何の話だ」
「さぁね」
意味深な言葉だけを残して、有栖は自分の席へ戻っていった。その背中を見送りながら、俺は、あいつがまた何かを察して、先回りで道を整えてくれているのだと分かった。
授業中、ずっと胸のあたりが落ち着かなかった。
*
放課後。
いつものように、教室に残っているのは、もう数人だけになっていた。
石井は結局、義理チョコ三つを受け取って、「これは友情だ、友情なんだ」と涙目で繰り返しながら、サッカー部へ走っていった。中村と桜井は、二人で部活に向かった。
俺は、帰り支度をしているふりをしながら、前の席の様子を窺っていた。
澪は、鞄の中をずっと探っている。いや、探っているふりをしているのかもしれない。背中が、いつもより硬い。
「……明月くん」
「お、おう」
声が、完全に裏返った。
澪が、ゆっくりと振り返る。夕日が窓から差し込んで、彼女の水色の髪を、橙色に染めていた。頬が赤いのは、夕日のせいか、それとも。
「ちょっと、いいかしら。……屋上、でも」
「……あぁ」
冬の屋上は、息が凍るほど寒かった。
フェンスの向こうには、傾いた太陽が、街の屋根を金色に染めている。風が吹くたびに、澪の髪が、ふわりと宙に舞った。彼女はしばらく、何も言わなかった。両手で、小さな紙袋の持ち手を、ぎゅっと握りしめている。
「……澪?」
俺は思わず、名前で呼んだ。以前は、勢いで呼んでしまった名前だったけれど、今は、自然と口から出ていた。
彼女の肩が、びくりと震える。
「あの、これ」
差し出された紙袋は、ところどころ、持ち手がよれていた。きっと、長い時間、握りしめていたのだろう。
「受け取って、ください」
敬語だった。
いつもの、澄ました調子じゃない。震える声だった。
俺は、両手で、紙袋を受け取った。軽いはずなのに、やけに重く感じられた。
「開けて、いいか」
「……うん」
包みの中には、小さなハート型のチョコレートが、四つ。表面には、薄い黄色の粉糖が散らされていて、微かにレモンの香りがした。
「ハチミツレモン、味」
「……これくらいしか、思いつかなくて」
澪は、俯いたまま、小さく言った。
「私、お菓子なんて作ったことがなかったの。何回も失敗して、弟に手伝ってもらって。……見た目も、あまり上手じゃないけれど」
「上手いじゃないか」
「嘘」
「嘘じゃない。……嬉しい」
それが、俺の、飾らない本音だった。
澪が、ゆっくりと顔を上げる。夕日に濡れた瞳が、揺れていた。
「明月くん。私ね」
声が、途切れる。
唇が、何度か開いて、閉じて、また開いた。
「……義理じゃ、ないの」
風の音が、遠くなった気がした。
「このチョコは、義理じゃない。クラスメイトとしてでも、実行委員仲間としてでも、ない」
「……」
「私が、自分で選んで、自分で作って、自分で渡したいと思った人に、渡しているの」
胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。
恋愛は、傷つくもの。そう思って、二年半、俺は自分を守ってきた。信じて、裏切られて、笑いものにされた。だから、期待しないことが、一番安全な生き方だと、そう思っていた。
けれど、目の前にいる彼女の指先は、小さく震えていた。
傷つくかもしれないのは、彼女も同じだ。いや、きっと、彼女の方が、ずっと怖い。家の名を背負って、完璧でいなければならない人が、こんな不格好なチョコを握りしめて、俺の目の前に立っている。
その勇気を、俺は、嘘や冗談で受け止めることなんて、できなかった。
「澪」
「……っ、待って」
澪が、慌てたように手を上げた。
「返事は、今はいらないの」
「え?」
「私ね、まだ、ちゃんと言えていないことがたくさんあるの。家のこと、お父様のこと、私自身のこと。……全部、きちんと整理して、自分の言葉で、ちゃんと伝えたい」
澪は、真っ直ぐに、俺の目を見た。
「だから、ホワイトデーに。……その日に、ちゃんと、言わせて」
「ホワイトデーに、お前が?」
「ええ。私から、言うわ。だから、それまで、返事は、待ってほしいの」
澪の唇が、小さく微笑んだ。その笑顔は、泣き出しそうなほど、不安に揺れていて、それでいて、今まで見たどの笑顔よりも、強かった。
――ああ、そうか。
この人は、受け身で選ばれるのを待つのではなく、自分から、一歩を踏み出そうとしているんだ。
俺は、チョコを胸に抱きしめるようにして、頷いた。
「……分かった。待ってる」
「……ありがとう」
「ただ、一つだけ、言わせてくれ」
「なに?」
「これ、一生大事にする」
「食べないと、溶けるわよ」
澪は、ぷっと吹き出した。さっきまでの張り詰めた空気が、ほどけていく。二人分の笑い声が、冬の屋上に、白い息となって溶けていった。
*
その夜、俺は自室で、チョコを一粒ずつ、時間をかけて食べた。
口に入れた瞬間、ほろ苦いチョコレートの奥から、ハチミツの甘さと、レモンの酸味が、じんわりと広がった。球技大会の日に渡した缶の味。イルミネーションの夜に二人で飲んだ味。
全部、同じ味なのに、今日のそれは、特別に、甘かった。
「お兄ちゃーん、入るよ」
ノックと同時に、由紀が顔を出す。そして、机の上の空の包み紙と、俺の顔を、交互に見つめた。
「……」
「な、なんだよ」
「別に」
由紀は、ふっと、柔らかく笑った。
「良かったね、お兄ちゃん」
そう言って、静かにドアを閉めた。
あいつの観察日記には、今夜、どんな一行が書き加えられるのだろう。想像すると、少しだけ、くすぐったい気持ちになった。
スマホが、小さく震える。
『今日は、ありがとう。……おやすみなさい』
澪からのメッセージだった。
『こちらこそ。おやすみ』
短く返信して、画面を伏せる。
天井を見上げながら、俺は、中学のあの日に、そっと、別れを告げた。
恐怖が消えたわけじゃない。傷つく未来が、ゼロになったわけでもない。
それでも、あの人が自分の足で歩いてきてくれたのなら、俺も、逃げずに、その手を取りたい。
ホワイトデーまで、あと、二十八日。
その日、俺は、彼女が選んでくれた気持ちに、ちゃんと、答えを返す。
――俺の全然普通じゃない冬は、静かに、けれど確かに動き出していた。




