ep.29 大晦日と、仕組まれた初詣
もらったマフラーを、まだ寒くもないのに部屋の中で試着している男、そう、俺だ。
クリスマスパーティから数日。自室の姿見の前で、俺は澪から貰ったマフラーを首に巻いては解き、解いては巻き直すという行為を、もう何度目かも数えきれないほど繰り返していた。編み目は少しだけ不揃いで、ところどころ糸の締まりが甘い。だがそれが逆に、彼女が不慣れな手つきで、それでも根気強く編み上げたであろうことを物語っていて、見ているだけで頬が緩んでしまう。
「令嬢手編みのマフラー……」
誰に見せるでもなく、鏡の中の自分に向かってそう呟く。柄にもなく口元が緩んでいるのが、自分でもよく分かった。
ノックもなしに、ドアが開いた。
「お兄ちゃん、洗濯物――」
由紀は、鏡の前でマフラーを愛でながらにやけている俺の姿を見て、その場で完全に固まった。洗濯物のカゴを抱えたまま、しばらく無言で俺を見つめている。
「うわ……キモ」
「なっ」
「暖房効いてる部屋でマフラー巻いてニヤニヤしてる高校生、控えめに言ってキモすぎるんだけど」
「ち、違う、これは、その、品質チェックだ」
「品質チェックで頬緩む人いないから。ニヤニヤ選手権があったら優勝してたよ、このニヤ男」
新しい単語を作る由紀。
容赦のない正論に、俺は言葉に詰まった。
「べ、別にいいだろ、もらったの嬉しかったんだから」
「まぁ、良かったじゃない。それにしても」
由紀は、洗濯物のカゴをベッドの上に置きながら、しげしげとマフラーを覗き込んできた。
「これ、神楽坂さんが編んだの?」
「あぁ。似合うか?」
「似合う似合わないの前に、お兄ちゃんがそれを自慢げに聞いてくること自体が新鮮」
由紀はそう言いながらも、口元がわずかに緩んでいるのを、俺は見逃さなかった。
「……良かったね、お兄ちゃん」
珍しく素直なその一言に、俺はどう反応していいか分からず、ただ「おう」とだけ返した。
*
冬休みに入り、街は一気に年の瀬の空気に包まれていった。
我が家の大晦日は、毎年恒例、驚くほど緩い。母の晴奈は、珍しくその日だけは会社が休みらしく、朝からパジャマ姿でソファに寝転がり、リモコン片手にテレビの特番をザッピングしていた。
「今年も紅白見ようねー」
「紅白見る人まだいたんだ」
「いいから見るの。母親孝行だと思って付き合いなさい」
由紀は台所で年越し蕎麦の準備をしながら、鼻歌交じりに包丁を動かしている。三人分の蕎麦つゆの匂いが、リビングまで漂ってきていた。
「お兄ちゃん、天ぷら揚げるの手伝って」
「俺、火使うの苦手なんだよなぁ」
「じゃあ見てるだけでいいから」
結局、俺は台所の隅で、揚げたての海老天をつまみ食いしながら見学するだけの係に落ち着いた。パチパチと油が跳ねる音、テレビから漏れ聞こえる紅白の歓声、母の呑気な鼻歌――どれもこれも、去年と、その前の年と、大して変わらない光景だった。それが、なんだか無性に安心する。
夜、家族三人で年越し蕎麦をすすりながら、テレビの中で紅白が最高潮を迎えていた。
「今年も、あっという間だったわね」
晴奈がしみじみと呟く。
「まぁな。色々あったし」
中間、模試、期末、花瓶事件、文化祭、イルミネーション――今年一年を思い返すと、随分と騒がしい半年だったなと、我ながら苦笑してしまう。
「彼女さんとは、順調?」
「か、彼女じゃない」
「ふーん、じゃあ何なのかしらね」
母がにやにやと笑うのを見て、由紀までもが「私も気になる」と便乗してくる。俺はそれ以上何も言わず、黙って蕎麦をすすることに専念した。
年が明ける瞬間、除夜の鐘の音がテレビ越しに響く中、俺のスマホが小さく震えた。
『あけましておめでとう。今年もよろしくね』
澪からのメッセージだった。短い一文だったが、その温かさに、俺は思わず口元を緩ませる。
『おめでとう。今年もよろしく』
短く返信すると、既読はすぐについた。だが、それ以上の返信は来なかった。きっと、向こうはこれから忙しくなるんだろうと、俺は勝手に想像した。
*
――そんな折。
同じ頃、中学生二人の間では、水面下である計画が進んでいた。
『葵くん、確認だけど、神楽坂家が元旦に行く神社って、翡翠神宮で合ってる?』
『合ってるよ。毎年、うちは翡翠神宮で新年の挨拶回りをする決まりだから』
『じゃあ、二日にうちの家族が初詣に行く場所、そこに合わせられそうかな』
『姉さんの予定、元旦は完全に埋まってるけど、二日の午後なら、少しだけ自由時間があるはずだよ。お父様の来客対応があって、姉さんはその間、外してもらえるから』
『了解。じゃあ、うちのお兄ちゃんも二日の午後に翡翠神宮に行くよう、それとなく誘導しとく』
『こっちも、姉さんをさりげなく誘導しとくよ』
『……私たち、探偵みたいだね』
『同感』
*
新年の神楽坂家は、澪にとって一年で最も気の抜けない期間だった。
自分の意思で選べるものなど、この三が日には何一つない――物心ついた頃から、そう思い知らされる女、そう、私だ。
元旦の朝は、まだ日も昇りきらないうちから始まる。着物の着付けに一時間、日本髪風に整えられた髪型に三十分。鏡の中の自分は、いつもの学校の制服姿の自分とはまるで別人だった。
「澪お嬢様、旦那様がお呼びです」
家政婦にそう促され、私は大広間へと向かう。神楽坂本家の大広間には、床の間に立派な掛け軸が飾られ、その前には親族一同が、すでに着座して待ち構えていた。
「明けましておめでとうございます」
私は三つ指をついて、深く頭を下げる。祖父母、伯父夫婦、遠縁の親戚たち――誰もが、こちらの一挙手一投足を値踏みするような視線を向けてくる。跡取り娘として、恥じない振る舞いをしなければ。
「澪、今年の成績はどうだ」
伯父の一人が、開口一番そう聞いてくる。
「一学期は次席、二学期は首席でした」
「うむ、さすが澪お嬢様だ」
褒め言葉のはずなのに、そこに温かみはほとんど感じられない。まるで、株価の報告を聞いているような口調だった。
午後になると、今度は客人の対応が始まる。神楽坂グループの関係者、取引先の重役、政界の知人――途切れることなく訪れる来客に、私は一人一人、丁寧にお茶を点て、丁寧に頭を下げ続けた。指先の作法一つ、言葉遣い一つに、常に父の視線が張り付いている。
「澪、笑みが硬い」
客人が席を外した合間に、父が小さくそう囁いた。
「……申し訳ございません」
「神楽坂の名を背負う者が、緊張を顔に出すな」
短く鋭い言葉に、私は俯くことしかできなかった。こういう時、自分がただの十五歳の女子高生だということを、誰も思い出してはくれない。
ふと、脳裏に浮かんだのは、数日前の貸し会議室の光景だった。安っぽい紙モール、コンビニのオードブル、有栖さんに背中を押されて食べた唐揚げの味。あの温かさが、今の自分には、途方もなく遠いもののように感じられた。
*
一月二日。午後。
俺と由紀、それに珍しく仕事が休みの母は、三人揃って地元の翡翠神宮へと初詣に出かけていた。参道は大勢の人で溢れ、出店から漂う焼きとうもろこしと甘酒の香りが、冷えた空気に混ざっている。
「お兄ちゃん!あっちに屋台あるよ!」
由紀が、やけに張り切った様子で先を歩く。心なしか、いつもより浮かれているような気がした。
「お前、今日妙にテンション高いな」
「気のせいでしょ」
澄まし顔でそう言う由紀の後を追いながら、俺たちは長い参道を、人波に押されるようにして進んでいった。
本殿での参拝を終え、おみくじを引こうと列に並んでいた時だった。
「――明月くん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには振袖姿の澪が立っていた。
艶やかな薄水色の生地に、金糸で刺繍された吉祥文様。結い上げられた髪には、繊細な花の髪飾りが揺れている。普段の制服姿とも、私服姿とも違う、その完成された美しさに、俺はしばらく言葉を失った。
「……神楽坂?」
「奇遇ね、こんなところで」
澪はそう言ったが、その視線が一瞬だけ、少し離れた場所に立つ葵と、俺の隣にいる由紀の間を、素早く往復したのを、俺は見逃さなかった。
――奇遇、じゃないな、これは。
由紀を見ると、あからさまに口笛でも吹きそうな顔で、明後日の方向を向いている。
「由紀」
「な、なに?お兄ちゃん」
「お前、まさかとは思うけど」
「気のせいだと思うよ、お兄ちゃん」
用意していたような棒読みの返事に、俺はもう何も追及しないことに決めた。
「……とりあえず、少しだけ、話さない?」
澪が、控えめにそう切り出す。
「あぁ」
俺たちは、賑わう参道から少し外れた、絵馬掛けの前まで移動した。無数の絵馬が、正月の風に吹かれてかたかたと小さく揺れている。
「その格好、似合ってるな」
「……ありがとう。着付けに一時間かかったのよ」
「大変そうだな」
「大変よ、本当に」
澪は、ふぅ、と小さく息を吐いた。その肩から、少しだけ力が抜けたのが分かった。
「今日は、少しだけ、時間があって」
「そうか」
「元旦は、朝から晩まで、親戚と客人の対応で……。あなたのお正月は、どうだった?」
「うちは、緩いもんだよ。紅白見て、年越し蕎麦食って、寝て終わり」
「……いいわね、それ」
羨ましそうな声に、俺は思わず苦笑した。
「今度、体験してみるか? うちの緩い正月」
「本当に?」
「来年の話だけどな」
澪は、くすりと笑った。その笑顔は、さっきまでの、どこか張り詰めた空気を纏った令嬢の顔とは違う、素の彼女のものだった。
俺は、マフラーの端を少しだけ指で撫でながら、口を開く。
「これ、ずっと使ってる」
「……まだ、そんなに寒くないでしょう」
「使わないともったいないだろ」
澪は目を丸くして、それから、耳まで赤くなった。
「……変な人ね」
「え?」
俺は常識人枠じゃないのか。
参道の向こうから、有栖に似た笑い声混じりの視線を感じた気がして振り返ると、由紀と葵が、絵馬掛けの陰から、こちらをこっそり覗いていた。目が合った瞬間、二人は慌てたように顔を引っ込める。
――やっぱり、あいつらの仕業か。
だが、そのおかげでこうして澪と話せているのだから、文句を言う気にはなれなかった。
「そろそろ、戻らないと」
「あ、送ろうか」
「大丈夫よ、車が待っているから」
名残惜しそうに、それでも澪は歩き出す。
「今年も、よろしくね、明月くん」
「あぁ、こっちこそ」
振袖の裾を翻して去っていく背中を見送りながら、俺は、冷たい空気の中で、胸の奥だけがじんわりと温かいのを感じていた。
参道の喧騒に戻ると、由紀と葵が、してやったりという顔で並んで立っていた。
「どうだった、お兄ちゃん」
「……お前ら、企んだだろ」
「さぁ、なんのことだか」
由紀はしらばっくれたが、その口元は隠しきれないほど緩んでいた。
俺の全然普通じゃない新年は、こうして、誰かの優しいお節介に支えられながら、静かに幕を開けたのだった。




