ep.27 これってもしやクリスマスデート
クリスマス前の人混みに「取材」という名の盾を構えて突撃する男、そう、俺だ。……盾だという自覚は、もうある。
期末テストの余韻がようやく抜けた、終業式まであと一週間ほどの放課後。新聞部の部室では、御手洗先輩がホワイトボードを叩き割らんばかりの勢いでマーカーを走らせていた。
『クリスマス特集号・街のイルミネーション完全取材!』
「みんな聞いて! 今年のクリスマス特集は、ズバリ、翡翠川駅前のイルミネーションよ!」
窓の外は既に薄暗く、部室のストーブがカタカタと小さな音を立てている。誰も求めていない熱量が、寒々しい部屋の空気をかき回していた。
「先輩、そういう企画って、去年もやったんですか」
「やってないわ! だから今年やるのよ!」
理屈になっていない。
「担当は、もちろん明月くん。土曜の夕方、撮影とインタビューをお願い」
「ですよね」
「そして被写体兼インタビュー補助として、神楽坂さんにもお願いするわ!」
「また巻き込むんですか」
口ではそう言いながら、内心では「ありがとうございます先輩」と思っている自分がいた。口実をくれる人は貴重だ。
「読者は、絵になる美少女を求めているのよ!」
開き直った先輩の隣で、小林先輩と松本先輩が「僕らその日、冬期講習なんで」と、示し合わせたように口を揃えた。逃げ足だけは異様に速い先輩たちだ。
「有栖は」
俺が水を向けると、有栖はスマホから顔を上げて、ひらりと手を振った。
「あ、私その日はパスで。うちの店、クリスマス前の土曜は忙しいから、手伝わなきゃなんです」
「あら、実家の食堂ね。仕方ないわ」
「ごめんなさーい。……あ、でも、被写体なら澪ちゃん、いいと思いますよ。絶対映えるし」
有栖は、いつもの調子でにっと笑ってみせた。
どうせまた面白がっているんだろう。俺はそう決めつけて、ため息をつくだけで済ませてしまった。その笑顔の端に、ほんの一瞬だけ、いつもと違う何かが滲んでいたことに、その時の俺はまるで気づいていなかった。
*
土曜日。
朝から降り続いていた冷たい風は、夕方になってようやく凪いでいた。空気は硬く澄んで、遠くの電車の走行音まで、はっきりと聞こえてくる。俺は首からぶら下げた一眼レフの重みを確かめながら、何度目かの深呼吸をした。
取材だから緊張する必要はない。そう自分に言い聞かせようとして、やめた。取材だから緊張しているわけじゃないことくらい、自分が一番よく分かっている。
待ち合わせは、翡翠川駅の改札前だった。午後五時を回ったばかりだというのに、空はすでに群青色へと沈み、駅前のロータリーには早くも人が溢れ始めている。吐く息は白く、コートの袖口から入り込む風が、じわりと体温を奪っていく。
「……待たせたかしら」
声に振り返って、俺は言葉を失った。
クリーム色のロングコートに、深い青のマフラー。水色の髪をいつもより少しだけ丁寧に巻いて、耳元には小さな雪の結晶のイヤリングが揺れている。冬の街灯の下に立つ澪は、写真で切り取れば一枚の絵画になりそうなほど、静かに輝いて見えた。
「……なによ、その顔」
「いや、その……被写体、適任だなと思って」
「取材のためなんだから、当然でしょう」
澄まし顔で言い切る声が、微かに上ずっていた。耳の先が赤いのは、寒さのせいだけではないはずだ。
駅前の大通りには、光の回廊が伸びていた。今年のテーマは『翡翠色の冬』。街路樹という街路樹に、無数の淡い緑と白金の電球が巻き付けられ、風が吹くたびに、まるで森全体がゆっくりと呼吸しているように瞬いている。
「……綺麗」
澪が、小さく息を呑んだ。
俺は一眼レフを構えて、ファインダー越しにその横顔を捉える。頬を照らす緑の光、髪に降りる白金の粒、見上げる瞳に映り込む無数の灯り。シャッターを切るたび、これは記事には使えないなと、静かに確信していく。
「明月くん、写真ばかり撮っていないで、インタビューもやるんでしょう」
「あぁ。まずは屋台のおじさんからいくか」
光の回廊の脇には、クリスマスマーケットが並んでいた。赤白の縞模様のテントの下で、ホットワインやソーセージの湯気が、白く立ち昇っている。
「取材、よろしいですか」
澪が慣れた様子で声をかけると、ホットドリンクの屋台を切り盛りしていたおじいさんが、目を細めて振り向いた。
「おやおや、学生さんかい。新聞部? それはそれは。……お二人は、彼氏さんと彼女さんかね」
「ち、違います!」
「違います」
二人の否定が見事に重なった。おじいさんは「はっはっは、お似合いだと思ったんだがねぇ」と豪快に笑って、湯気の立つ紙コップを二つ差し出してくる。
否定したくせに、「お似合い」の三文字がしばらく耳の奥に残った。
「サービスだよ。ホットハチミツレモン、うちの一番人気だ」
顔を見合わせた。
「……ハチミツレモン」
「またこれか」
俺が呟くと、澪は口元を押さえて、堪えきれないように肩を震わせた。
「ふふ……本当に、縁があるのね」
紙コップを両手で包むと、掌にじんわりと熱が広がった。甘酸っぱい香りが、冷えた鼻先をくすぐる。澪は、ふうふうと息を吹きかけて、一口だけ啜った。
「……あったかい」
その一言が、寒空の下で、やけに柔らかく響いた。
*
回廊の奥には、石窯を積んだ小さな屋台が出ていた。香ばしい小麦の匂いと、とろけるチーズの湯気。澪の足が、ぴたりと止まる。
「……ピザ」
「食うか。約束だったしな」
「……宅配じゃないけど、いいの?」
「ピザはピザだろ」
結局、二人で一切れずつ買った。紙皿の上で、焼きたてのチーズがとろりと糸を引く。澪は、まるで壊れ物でも扱うように両手で持って、恐る恐る先端にかじりついた。
「……あつっ!」
「気をつけろ、焼きたてだぞ」
「わ、分かってるわよ!」
涙目になりながらも、澪は口の中のものを必死に飲み込んで、それから、ふっと表情を緩ませた。
「……おいしい」
ぽつりと零れた声は、子供みたいに素直だった。ポテトチップスも、ゲームも、宅配ピザも、ずっと禁じられてきた少女が、光の海の真ん中で、チーズを伸ばして笑っている。
その姿を見ていたら、胸の奥で、何かが静かに満ちていくのが分かった。
取材。その二文字を盾にしているのは、もう自分でも認めるしかなかった。ファインダーを覗く指先は、ほとんど彼女ばかりを追っている。
食べ終えた紙皿をゴミ箱に捨てて、二人で回廊の奥へと歩き出す。頭上では、枝から枝へと渡された光の糸が、夜空に淡い天の川を描いていた。噴水広場では、水面に映り込んだ無数の灯りが、風に揺れるたびに砕けて、また元の形へと戻っていく。すれ違う恋人たちの笑い声や、はしゃぐ子供の足音が、遠く近く、光の海の底で反響していた。
*
広場の中央には、十五メートルはあろうかという巨大なツリーがそびえていた。三十分に一度、音楽に合わせて光が波打つ演出が行われるらしく、周囲には既に黒山の人だかりができている。
「すごい人ね……」
「はぐれるなよ」
人波に押されて、澪の肩が俺の腕にぶつかった。慌てて距離を取ろうとする彼女を、俺は無意識に、コートの袖をつまんで引き止めていた。
「……あ」
「悪い、その、はぐれるといけないから」
「……別に、構わないわ」
澪は俯いたまま、それでも袖を振り払おうとはしなかった。
やがて音楽が流れ始め、ツリーの光が、下から上へと波のように駆け上がっていく。歓声が、夜空に弾ける。緑が、青に、青が、白金に。そのたびに、澪の横顔が違う色で染まって、俺は結局、シャッターを切ることも忘れて見入ってしまった。
「……ねぇ、明月くん」
「ん」
「クリスマスって、毎年、家の行事で潰れるの。二十四日は、親族の会食で」
光に照らされた横顔は、少しだけ寂しそうだった。
「だから、こういう光景を、誰かと見に来られる日が来るなんて、思っていなかった」
「……そうか」
「……ありがとう」
小さな声だった。けれど、周囲の歓声の中でも、確かに俺の耳まで届いた。
「別に。取材だからな」
口から出た瞬間、盾にもほどがあると自分でも思った。
「そういうことにしておいてあげる」
澪は、悪戯っぽく笑った。見透かされている。それでも嫌じゃなかった。その笑顔こそが、今日の「取材」で一番の収穫だと、俺は密かに思った。
*
二十時前。迎えの黒い車が、駅前のロータリーに静かに滑り込んできた。
「……お父様の目もあるから、門限が」
「送るよ、乗り場まで」
車の前で立ち止まった澪が、名残惜しそうにこちらを振り返る。
「今日の写真、記事には使わないでね」
「あぁ。使わない」
「……絶対よ」
「約束する」
俺の答えを確かめるように、澪はしばらく目を見つめてから、ゆっくり頷いた。ドアが閉まり、車が夜の街へと溶けていく。
一人になった途端、急に冬の寒さが身に染みた。ポケットの中で、スマホが震える。
『取材お疲れ様! ところで、明月くんにだけ言っておくけど』
御手洗先輩からのメッセージだった。
『今日のシフト、実は琴吹ちゃんが「神楽坂さんと二人で行かせてあげてください」って、私に頼んできたのよ。だから私、張り切って組んじゃった☆』
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
――店が忙しいから。あの笑顔。「被写体なら澪ちゃん、いいと思いますよ」。
全部、繋がった。
*
琴吹食堂は、駅前から歩いて十分ほどの、古い商店街の一角にある。
暖簾の向こうから漏れる橙色の灯りと、揚げ物の香ばしい匂い。ガラス戸の内側は、白い湯気で曇っていた。店の中は、実際、ほぼ満席だった。
「いらっしゃ……あ」
サンタ帽を被ってお盆を抱えた有栖が、俺の顔を見て、ぴたりと固まった。
「……先輩から聞いた」
「あー……口軽いなぁ、あの人」
有栖は、少し困ったように笑って、店の外へ出てきた。冷たい夜風に、サンタ帽の白いボンボンがふわりと揺れる。
「忙しいのは、嘘じゃないよ? ほんとに手伝ってるし」
「でも」
「でもね、私が自分から、お願いしたの。澪ちゃんを、誘ってあげてって」
街灯の光の下で、有栖は真っ直ぐに俺を見ていた。ふざけた調子はどこにもなかった。
「私ね、洸夜が誰かと笑ってるの、ちゃんと嬉しいんだ。本当に。……ちょっとだけ、寂しいのも本当だけど」
言葉が、出てこなかった。
「でも、それでいいの。私は洸夜の幼馴染で、一番付き合いの長い友達で、それで十分。……ううん、それがいい」
有栖はそう言うと、ふっと肩の力を抜いて、いつもの意地悪な笑みを浮かべた。
「だからさ、ちゃんとやりなよ。私がここまでお膳立てしたんだから、無駄にしたらぶん殴るからね」
取材だから、と言い訳しかけて、やめた。この幼馴染に、その盾は通用しない。そもそも、もう盾にならないことは、俺が一番分かっている。
「……あぁ」
「返事が小さい」
「分かった。ちゃんとやる。……取材とか、そういうの抜きでな」
有栖は一瞬だけ目を丸くして、それから、ほんの少しだけ、泣き笑いのような顔をした。
「よろしい」
有栖は、俺の手に、ずしりと重い紙袋を押し付けた。中からは、揚げたての唐揚げの匂いが立ち昇っている。
「余り物。妹ちゃんと食べなよ」
「……ありがとな、有栖」
「どういたしまして。メリークリスマス、洸夜」
暖簾の向こうへ戻っていく背中が、少しだけ小さく見えた。けれど、振り返らずに手を振るその後ろ姿は、どこか清々しくもあった。
紙袋の温もりを胸に抱えて、俺は冬の夜道を歩き出した。
商店街のアーケードには、色褪せたクリスマスの飾りが、寒風に吹かれてかさかさと揺れている。駅前の華やかな光とは違う、どこか懐かしい、素朴な灯りだった。シャッターの下りた店先を通り過ぎるたびに、幼い頃、有栖と二人で走り回った記憶が、白い息と一緒に胸の奥から浮かんでは消えていく。
――ずっと隣にいたやつに、一番大事な場面で、背中を押されるなんてな。
情けなくて、ありがたくて、少しだけ、目の奥が熱くなった。
そして、ようやく認めた。澪のことを、もう「ただの隣の席のやつ」とは呼べないことを。傷つくのが怖い気持ちは、まだ消えていない。それでも、あの笑顔を、あの光の中で隣に立っていた時間を、なかったことにはできなかった。
*
「ただいまー」
玄関を開けると、いつも通り由紀が出迎えた。エプロン姿で、腕を組んで。
「遅い。夕飯、冷めるでしょ」
「悪い。唐揚げ、有栖にもらった」
「……ふーん」
リビングには、味噌汁と焼き鮭の湯気が、ほんのりと立ち込めていた。窓の外では、冷え切った夜風がカーテンの裾を揺らし、エアコンの温風が、頬にじんわりと染みてくる。見慣れた食卓のはずなのに、今日はやけに、温かく感じた。
リビングのテーブルに並んだ料理を前に、俺はどこか浮かれていた。イルミネーションの光と、ホットハチミツレモンの甘さと、澪の笑顔が、まだ瞼の裏に残っている。だから、つい、口が滑った。
「そういえば由紀、お前、クリスマスは誰かと過ごす予定無いの?」
由紀の箸が、ぴたりと止まった。
「……は?」
「いやー友達とかと予定あるのかなって。ほら、一緒に過ごす人、いないのか?」
ピキ、と。
空気に亀裂が走る音が、確かに聞こえた気がした。
「……お兄ちゃんこそ、どうなの」
「俺は今日、取材で忙しかったからな」
「取材ねぇ。で、その取材は、誰と行ったのかな?」
「新聞部の仕事で神楽坂と」
「へぇ。じゃあ二十四日と二十五日は?予定あるの?ないでしょ?アニメと自室と、あとエロゲーが恋人の、お兄ちゃんに」
なんで予定あるか聞いたのにこんなボロクソ言われにゃならんのだ。
「なっ……! お、お前こそ、学校で氷の姫君とか呼ばれてるくせに、誰にも誘われてないんだろ」
「ちがうもん! みんな畏れ多くて誘えないだけだもん!」
「それを世間ではぼっちと呼ぶんだよ」
「お兄ちゃんに言われたくないんですけど!? 友達三人しかいないくせに!」
「三人いれば十分だ。しかもそのうち一人は潔癖症で一人は薄毛だぞ?」
俺は誇らしげにそう言う。
「それ自慢になってないから!」
「お前だって、エプロンで仁王立ちしてる中二に、彼氏なんてできるわけないだろ」
「彼女いない歴イコール年齢の高一に言われたくないっ!」
「イルミネーション見てきたわ。俺は」
「取材でしょ!デートじゃなくて!お兄ちゃんのクリぼっち!」
「……取材、だけど」
勢いよく返すつもりが、思いのほか声が小さくなった。
由紀の目が、ほんの一瞬だけ、すっと細まった。観察日記をつけている人間の目だ。しまった、と思った時にはもう遅い。
「……ふーん」
その一言に、さっきまでの喧嘩腰とは違う種類の圧があった。だが由紀はそれ以上追及せず、代わりに矛先を元に戻してくる。
「ま、いいけど。クリぼっちには変わりないし!」
「お前もだろうが!」
「お兄ちゃんのバカ!クリぼっち!童貞!」
「童貞は関係ないだろ!?あとお前の語彙力どこ行った!」
醜い。あまりにも醜い争いだった。中学二年と高校一年が、クリスマスの前に、互いの傷口を、ざくざくと抉り合っている。
その時、玄関のドアが、ガチャリと開いた。
「ただいまー……何、この騒ぎ」
スーツ姿の母さん、晴奈だった。両手にコンビニ袋を提げたまま、リビングの惨状を、じっと眺める。
「母さん! 聞いてよ、お兄ちゃんが!」
「母さん、由紀がさ!」
「あぁ、いいのよ、二人とも」
晴奈は、ゆっくりとコートを脱いで、椅子の背にかけた。妙に静かな声だった。
「クリぼっち、ね」
一瞬、時が止まった。
「私はね、二十四日も二十五日も、リリースイベントの対応で会社に泊まり込みなんだけど」
沈黙。
あまりにも圧倒的な、格の違いだった。
「しかも今年は、去年よりトラブルが多くてね。ホールケーキどころか、コンビニのショートケーキすら食べられるか怪しいのよ。……あんたたちは、クリスマスに、家に帰ればご飯があって、喧嘩する相手までいるんだから、幸せなものでしょう」
「……はい」
「……はい」
俺と由紀は、そろって項垂れた。完全に、沈められた。
「分かったなら、さっさと食べなさい。唐揚げ、冷めるわよ」
母さんは、ふう、と息をついて、席に座った。その横顔は、どこか少しだけ疲れているように見えた。
俺たちはおとなしく箸を取り、唐揚げを頬張った。有栖の実家の味は、少しだけしょっぱくて、それでいて、驚くほど温かかった。
「……ごめん、由紀」
「……私も、童貞は言い過ぎた」
「だまれ…」
テーブルの下で、由紀の足が、こつんと俺の足に当たった。いつもの、仲直りの合図だ。
その時、テーブルの上でスマホが震えた。クラスのグループチャットに、石井から新着メッセージが届いていた。
『おいお前ら、聞いてくれ。今年のクリスマス、どうせ暇な奴ばっかだろ? みんなでパーティやらないか?』
画面を見つめたまま、俺は思わず、口元を緩めた。
既読のマークが、次々と増えていく。『やる』『いいね』『会場どうする?』と、クラスの連中の返信が、湯気のように立ち昇っていった。由紀が横から画面を覗き込んで、「……私も、行っていい?」と小さく呟く。
「……好きにしろ」
「ふん。お兄ちゃんに言われなくても、そのつもりだったし」
そっぽを向いた妹の口元は、しっかり緩んでいた。
窓の外では、遠くの空が、駅前のイルミネーションの光で、ほんのりと橙色に染まっている。あの光の下で見た澪の笑顔と、暖簾の前で見た有栖の背中が、瞼の裏で静かに重なった。
――クリぼっちは、どうやら、回避できそうだ。
取材という盾は、もうあまり役に立たない。次に何かを言い訳にする時は、もう少しまともな口実を考えておかなければならないな、と思った。




