ep.26 期末テストと僅差の二位
自分の意思で誰かに頼ることが、こんなに勇気のいる行為だとは思いもしなかった男、そう、俺だ。
十二月の教室は、朝一番に足を踏み入れた瞬間、吐く息の白さで季節を思い知らされる。窓ガラスは結露で薄く曇り、その向こうに広がる校庭は、霜を纏った土が朝日を弾いてうっすらと白んでいた。石油ストーブの前には毎朝小さな行列ができ、誰もがかじかんだ指先を火にかざして、まるで暖を分け合う小動物のように身を寄せ合っている。
黒板の隅に書かれた赤い数字は、ホームルームのたびに一つずつ減っていった。
『期末テストまで、あと十日』
『あと九日』
書き換えているのは、もちろん澪だ。几帳面な文字の払いひとつ取っても、彼女の性格がにじんでいて、毎朝それを目にするたびに、俺は自分の胃のあたりをそっと撫でたくなる。
今回、俺が自分に課したルールは単純だった。まず自分で考える。悩む。詰まる。それでもだめなら、初めて人に聞く。中間で掴んだ、たった一つの学習法だ。……とはいえ、口で言うほど簡単じゃない。
放課後の図書室は、定位置になった窓際の席から見える景色が、日に日に暗くなるのが早くなっていた。四時を過ぎれば、空は群青と橙が混ざり合う不思議な色に変わり、五時になる頃にはもう、ガラスの向こうは墨を流したような闇だ。蛍光灯の白い光が、参考書のページの上に、頼りない影を落としている。
向かいの席には、当たり前のように澪がいる。会話はほとんどない。ただ、シャーペンの音と、ページをめくる音と、時おり彼女が小さく鼻をすする音だけが、二人の間を行き来している。
「風邪、ひいたのか」
「ひいてないわよ。ただ、少し寒いだけ」
「……ほれ」
俺は鞄から、コンビニで買った使い捨てカイロを取り出し、完璧なコントロールで机の上を滑らせた。澪は一瞬だけ目を丸くして、それから、ふいと視線を逸らしながら受け取った。
「……あなた、こういうところだけ気が利くのね」
「褒めてるのか、それ」
「さあ、どうかしら」
カイロを両手で包み込む澪の頬が、ほんの少し緩んでいる。それだけで、図書室の寒さが少しだけ和らいだ気がした。
*
問題は、テスト開始まで一週間を切った頃に起きた。
数学Ⅱ、三角関数の「ラジアン」だ。
翡翠川学園は、名門校だけあって授業の進度が異様に速い。高一の二学期にして、もう数学Ⅱの三角関数に突入している。他校の連中が聞いたら目を剥くらしいが、通っている側としては、ただただ迷惑な話だった。
「……ラジアンって、なんだ」
思わず声に出してしまうほど、俺の理解力は限界を迎えていた。教科書には「弧度法」とか「一般角」とか、字面だけで頭痛がしそうな単語が並んでいる。ノートには、俺の魂の叫びが書かれていた。『ラジアンとは??????』――疑問符だけで一行埋まっている。
三日間、一人でやった。解説を読み返し、問題集の例題を三回写し、動画サイトの解説まで見た。それでも、度数法と弧度法が頭の中でぐちゃぐちゃに絡まって、どこから手を付けていいのか分からない。
シャーペンを置いて、天井を仰ぐ。図書室の古い蛍光灯が、ジーッと微かな唸りを立てていた。
向かいでは、澪が黙々と英語の長文を読み進めている。
――聞くか。
ここで聞くのは、丸投げだろうか。いや、三日間悩み抜いた末なら、それは「頼る」であって「甘える」じゃない。中間の時に出した自分なりの結論を、心の中で何度も反芻する。
喉が、妙に渇いていた。
「……神楽坂」
「なに」
澪は顔を上げず、ペンを動かしたまま答える。
「一つだけ、聞いてもいいか」
ペンの音が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと持ち上がった彼女の視線が、俺を捉える。その瞳が、ほんの一瞬、期待に揺れたように見えたのは、気のせいだろうか。
「……やっと、聞いたわね」
「やっと、って」
「三日前から、ずっと同じページで固まってたでしょう。声をかけたくて仕方なかったのに、我慢してたのよ」
「見てたのかよ」
「見えてたのよ、目の前だから」
澪は小さくため息をついて、それでも口元を綻ばせながら、俺のノートをそっと自分の方へ引き寄せた。
「ラジアンね。……いい? これは、ピザの耳みたいなものよ」
「ピザ?」
聞き間違いかな。
「丸いピザを想像して。切り分けた一切れの、外側の弧の長さが、ちょうどピザの半径と同じになるように切ったとき、その一切れの角度を『一ラジアン』と呼ぶの」
「角度を、長さで決めるのか」
「そう。円周は半径の二π倍でしょう? だから一周は二πラジアン、半周ならπラジアン。度数法の百八十度が、そのままπに対応するのよ」
「……ピザ一枚に、そんな数学が詰まってたのか」
ピザがそんなに深い食べ物だということに俺は感激を受ける。神楽坂には驚かされてばかりだ。
「詰まってるのよ。ちなみに、私は宅配のピザって食べたことがないの。……ちょっと、憧れてるわ」
ぽつりと付け足した声が、妙に切実だった。ポテトチップスもゲームも禁じられている家だ。ピザの宅配など、きっと言語道断なのだろう。
「今度、食うか。ピザ」
「……考えておくわ」
そう答えた澪の耳が、ほんのり赤い。彼女はそれを誤魔化すように、慌てて図を描き始めた。
「――だから、弧の長さは半径かける角度で求まって、扇形の面積は、その半分を掛けて……」
矢印を引き、式を書き込むうちに、声にはどんどん熱が入っていく。
「あの、神楽坂」
「なに」
「今の説明、俺より神楽坂の方が楽しそうだったぞ」
「なっ……!」
澪は言葉を詰まらせ、耳まで赤く染まった。中間の時と、まったく同じ流れだ。
「い、いいのよ! 教えるのが好きなのは事実なんだから!」
開き直った澪の姿が可笑しくて、俺はつい、声を上げて笑ってしまった。司書さんにじろりと睨まれて、二人揃って慌てて口を押さえる。
――でも、そのおかげで、あんなに絡まっていた「ラジアン」の糸が、ふっとほどけた気がした。
自分で悩んで、詰まって、最後に人に聞く。それは案外、悪くない勉強法かもしれない。
*
その翌日、図書室の扉が勢いよく開いた。
「やっほー、二人とも。勉強、はかどってる?」
現れたのは有栖だった。いつものツインテールが、寒さで少しだけ跳ねている。頬は寒風に赤く、その手には缶コーヒーが握られていた。
「有栖、お前塾じゃなかったのか」
「今日は自習日。せっかくだから、一番熱い場所で勉強しようと思って」
有栖はそう言うと、当然のように俺の隣の椅子を引いて座り、テーブルの中央に参考書をどさりと積み上げた。分厚い問題集は、付箋とマーカーで色とりどりに染まっている。
「……随分、気合が入ってるのね」
澪が視線を上げて、静かに言った。
「そりゃそうでしょ。今回こそ、澪ちゃんに勝つんだから」
「あら、宣戦布告?」
「予告勝利宣言だよ」
二人は、にっこりと笑い合う。目は笑っていない。……いや、正確には、本気で楽しそうな目をしているのが、逆に怖いところだ。
ふと、有栖の問題集の背表紙に目が留まった。何度も開いた跡でくたびれ、角が丸くなっている。あいつが特待生だということを、俺は思い出した。本人はその話をあまりしたがらないが、成績を維持することが、あいつにとって単なる意地以上の意味を持っているのは、なんとなく察している。
「なに見てんの、洸夜」
「いや、別に」
「変なの」
有栖は肩をすくめて、問題集に視線を落とした。その指先が、ページの端をぎゅっと握っていたのを、俺は見なかったことにした。
*
試験前日の夜だった。
自室の机に向かい、最後の暗記事項を眺めていたとき、スマホが短く震えた。
『少し、話せる?』
澪からのメッセージだった。時計は、午後十一時を回っている。
『おう』
返信を打つより早く、通話の呼び出し画面が立ち上がった。慌てて応答ボタンを押す。
「……もしもし」
『もしもし。ごめんなさい、こんな時間に』
「いや、大丈夫。まだ起きてたし」
スピーカーの向こうから、澪の声が、いつもより少しだけ近く、少しだけか細く聞こえた。窓の外は冷たい風が吹いているのか、時折ガラスが小さく鳴る。俺は部屋の明かりを落として、ベッドに背中を預けた。
『……お父様に、言われたの。今回、順位が落ちたら、また家庭教師か塾を増やすって』
三者面談の空き教室で、深く頭を下げていた彼女の姿が蘇る。
「そうか」
『わかってるのよ、いつものことだって。……でも、なんだか今日は、少しだけ、怖くて』
言葉が途切れる。受話器の向こうから、時計の秒針のような、規則正しい音がかすかに聞こえた。彼女の部屋の時計なのだろう。
何か気の利いた励ましを言いたかったが、俺の頭には、そんな器用な言葉は浮かんでこなかった。
『……ねぇ、明月くん』
「ん」
『一つだけ、頼んでもいい?』
その声が、少し震えていた。
『球技大会の時に口パクで、ミスコンの前にも、言ってくれた言葉。……もう一度、ちゃんと声で聞かせてほしいの』
思わず、息を呑んだ。
あの、たった一言。俺にとっては何気ない励ましのつもりだったのに、彼女はそれを、こんなにも大切に覚えていてくれたのか。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……いつも通りやれば、大丈夫だろ」
できるだけ、ゆっくりと。ちゃんと届くように。
「神楽坂はずっと、いつも通りに努力してきたんだ。だから、大丈夫だ」
しばらく、返事はなかった。
やがて、小さな、本当に小さな声が、耳に届く。
『……ありがとう』
その声は、少しだけ潤んでいた。けれど、さっきまでの怯えの色は、もう消えている。
『おやすみなさい、明月くん』
「おう。おやすみ」
通話が切れる。暗い天井を見つめたまま、俺はしばらく動けなかった。
頼る、という行為は、一方通行じゃない。今夜、それを初めて知った気がした。
*
期末テスト当日。
家を出ると、空気が肌を刺すように冷たかった。街路樹はすっかり丸裸になり、電線の上では、寒さに身を縮めた雀たちが羽を膨らませて並んでいる。マフラーに顔を埋めて歩く通学路は、いつもより人通りが少なく、自分の靴音だけがアスファルトに乾いて響いていた。
教室の扉を開けると、既に何人かの生徒が、最後の暗記に必死で参考書を睨んでいた。前の席の澪も、背筋を伸ばして単語帳をめくっている。その横顔は凛としていて、昨夜の電話の声が嘘のようだった。ふと目が合うと、彼女は誰にも気づかれないくらい小さく、こくりと頷いてみせる。俺も同じように、小さく頷き返した。
試験会場と化した教室は、いつもの騒がしさが嘘のように静まり返っていた。机は一つずつ間隔を空けて並べ直され、黒板には試験時間と注意事項が白いチョークで整然と書かれている。窓の外では、冬の低い太陽が、薄い雲の向こうから弱々しい光を落としていた。
開始のチャイムが鳴り、問題用紙が一斉にめくられる。紙の擦れる音、鉛筆が走る音、誰かが小さく咳払いする音。それらが、まるで一つの生き物の呼吸のように、教室全体を満たしていく。
数学の問題用紙を開いた瞬間、俺は息を吐いた。
――出た、ラジアンだ。
だが、不思議と、慌てはなかった。ピザの耳。半径と同じ長さの弧。前の席で背筋を伸ばしている澪の後ろ姿が視界の端にちらついて、思わず口元が緩みそうになる。
俺は、ペンを走らせた。
三日間、悩んで、詰まって、最後に頼った。その積み重ねが、確かに指先に宿っているのを感じる。
最終日の最後のチャイムが鳴った時、教室のあちこちから、力の抜けた吐息が漏れた。
「終わったぁぁ……」
「もう何も考えたくない……」
石井が机に突っ伏し、中村が虚ろな目で天井を見上げ、桜井は静かに鉛筆を筆箱にしまっている。
「明月、どうだった」
「……まぁ、やれることはやった」
俺がそう答えると、石井は「お前がそんなこと言う日が来るとは」と大袈裟に天を仰いだ。
斜め後ろから、有栖が体を伸ばしながら立ち上がる気配がした。
「澪ちゃん、どうだった?」
「……悪くない出来よ。あなたは?」
「私も、悪くない。……だから、結果が楽しみ」
二人の視線が、静かに交差する。
それは、火花というよりは、澄み切った冬空のような、張り詰めた透明感を帯びていた。
*
結果発表の朝。
廊下の窓ガラスは、暖房と外気の温度差でびっしりと曇り、そこに誰かが指でなぞった落書きが、朝日を受けて滲んで光っていた。上履きが床を擦る音や、緊張を紛らわすような笑い声が、あちこちで交じり合っている。誰もが平気なふりをしながら、その実、心臓の鼓動を持て余しているのが手に取るように分かった。
掲示板の前には、既に黒山の人だかりができていた。吐く息が白く重なり合い、ざわめきが冷たい空気の中で溶け合っている。俺は人混みの隙間から、必死に背伸びして順位表を見上げた。
上から、順に。
一位。『神楽坂澪』。
その下に、『琴吹有栖』。
得点の欄を追った瞬間、思わず息が止まる。
差は、たった三点。
「……僅差だな」
思わず呟いていた。
そして、少し視線を下げていくと、見慣れた名前が、思いがけない位置にあった。
十三位。『明月洸夜』。
「……マジか」
前回の十七位から、四つ順位が上がっている。
「うおおお! 明月がまた上がってる! こいつ、意外と本物じゃね!?」
石井の叫び声が、廊下に響き渡った。今回は花瓶を割らないよう、必死に自分の手を握りしめているのが、妙に可笑しい。
「明月、やるなぁ」
「見直したでござる」
中村と桜井も、口々に祝福してくれる。
人混みの後ろの方から、二つの気配が近づいてきた。
「一位、おめでとう。……悔しいなぁ、三点差かぁ」
有栖の声だった。いつもの軽い調子の中に、ほんの少しだけ、隠しきれない悔しさが滲んでいる。
「ありがとう、琴吹さん。……でも、正直、ギリギリだったわ」
「うそ、余裕そうな顔してたじゃん」
「そんなことないわ。あなたが相手だと思うと、最後まで気が抜けなかったもの」
澪の声は、いつもの澄ました調子ではなかった。飾り気のない、まっすぐな響きだった。
有栖は目を丸くして、それから、ふっと吹き出す。
「……なにそれ、褒め言葉?」
「褒め言葉よ。だって、あなたがいなければ、私はここまで頑張れなかったもの」
「…………」
有栖はしばらく黙り込んだ後、自分の頬をぱちんと叩いて、笑った。
「よーし、次は絶対勝つから。覚悟しててよ、澪ちゃん」
「望むところよ、有栖さん」
初めて、澪が彼女の名前を呼んだ。
有栖の目が、ほんの一瞬、ぱちりと見開かれる。それから、照れくさそうに視線を逸らして、耳の縁を赤くした。
二人の間に、握手も、抱擁もなかった。ただ、静かに笑い合うだけ。それだけで、何かが確かに繋がったのだと、傍から見ていた俺にも分かった。
*
「そうだ、洸夜」
有栖が、くるりとこちらを向いた。その顔には、あの、悪戯っぽい、獲物を見つけた猫のような笑みが戻っている。
「貸し一つ、ここで使わせてもらうね」
「……は? ここで?」
「ハチミツレモン、三本。三人分」
「三人分?」
「私と澪ちゃんと、洸夜の分。……お祝いと、お疲れ様会、兼ねて」
思ってもみなかった要求に、俺は目を丸くした。
貸し一つ。ケツモン事件で作ってしまった、あの黒歴史の借金だ。それを、こんなささやかな形で回収するのか。
「……お前、それでいいのか」
「いいの。私、意外と安上がりだから」
有栖はそう言って、ぺろりと舌を出した。
結局、俺たち三人は、中庭のベンチに並んで座り、自販機で買ったハチミツレモンの缶を、冬の冷たい空気の中で開けた。指先に伝わる缶の温もりが、痛いほどに心地いい。
「……いつもの味ね」
「そりゃ、ハチミツレモンだからな」
「洸夜が奢ってくれたと思うと、ちょっと美味しい」
「有栖、それ褒めてるのか」
「さあ、どうでしょう」
三つの缶が、コツン、と小さく鳴った。
頭上では、冬の薄い青空が高く広がっていて、その向こうを、白い雲がゆっくりと流れていく。中庭の木々は、すっかり葉を落として、枝先に小さな蕾を抱えていた。差し込む日差しは弱々しいのに、不思議と背中がぽかぽかと温かい。遠くの校舎からは、テスト明けの解放感に浮かれた生徒たちの笑い声が、風に乗って途切れ途切れに届いてくる。
ふと横を見ると、澪が缶を両手で包んだまま、目を細めて空を見上げていた。有栖はその隣で、足をぶらぶらさせながら、鼻歌を口ずさんでいる。三人並んだ影が、ベンチの足元に長く伸びていた。
もうすぐ、クリスマスがやってくる。
悩んで、詰まって、頼って、頼られて。そんな不器用な繰り返しの中で、俺の全然普通じゃない二学期は、静かに終わろうとしていた。




