ep.25 模試とカウントダウン
"全国"という単語がつくだけで、いつものテストの三割増しで胃が痛くなる男、そう、俺だ。
紅葉狩りから一週間ほど経った、十一月下旬のホームルーム。窓の外の景色は、あの日燃えるように赤かった木々もすっかり色を落とし、寒々しい灰色の枝だけが目立つようになっていた。教室の空気にも、どこか張り詰めたものが混ざり始めている。冬服への衣替えが済んだばかりのブレザー姿が、まだ少し落ち着かない。
担任が手にしたプリントの束を教壇にトンと置いた瞬間、教室中に嫌な予感が漂った。
「はい、来週の水曜、全国模試な。範囲は今までの既習事項全部だ」
「うわぁ……」
教室のあちこちから、判で押したような呻き声が漏れる。中間テストの傷がまだ癒えきっていないところに、追い打ちのような一撃だった。
「先生、全国模試って、順位とかどこまで出るんですか」
誰かがそう質問すると、担任は面倒くさそうにプリントをめくった。
「校内順位はもちろん、都道府県内順位と、全国順位まで出る。志望校の判定もな」
その一言に、教室の空気がさらに重くなった気がした。
「全国、ってことは、他校の連中とも比べられるってことか……」
俺の呟きに、前の席から冷静な声が返ってくる。
「当然でしょう。全国模試なんだから」
振り返らなくても、澪の声だとわかる。相変わらずの正論だ。
「お前は余裕そうだな」
「余裕なわけないでしょう。全国となれば、話が違うもの」
澪はそう言いながらも、机の上にはすでに新しいノートと、範囲別にまとめられた付箋がびっしり貼られた参考書が積まれていた。用意周到すぎる。学年首席というのは、こういう地道な積み重ねの上に成り立っているんだろう。
斜め後ろの席から、聞き覚えのある挑戦的な声が飛んできた。
「ふーん、全国模試か。面白いじゃん」
有栖だ。頬杖をついて、こちらをにやにやと見つめている。
「有栖、なんかテンション高いな」
「だって、今度こそ澪ちゃんに勝てるチャンスじゃん」
「勝てる、って」
「一学期期末は私が一位だったけど、二学期中間は澪ちゃんに一位取られたし。この際、全国規模でどっちが上か、はっきりさせようと思って」
物騒なことを言い出す有栖に、澪が横目でちらりと視線を送る。
「望むところよ。受けて立つわ」
「おお、いいね、その顔」
二人の間に、見えない火花がバチバチと散っているのが俺にもわかった。学年トップ争いの当事者二人が、いつの間にか俺の周りに揃っている状況が、なんだか申し訳なくもあり、少し誇らしくもある。妙な気分だ。
「明月、お前はどうすんだよ」
石井が興味津々といった顔で身を乗り出してくる。
「どうするもこうするも、前回の勢いのまま真面目にやるだけだ」
「あの十七位、まぐれじゃなかったんだな」
「まぐれで取れる順位じゃないんだよ、あれは」
自分で言っておいてなんだが、胸を張れる数少ない実績だ。花瓶を割った代償として得たものにしては、悪くない。
「ちなみに俺は、今回はサッカー部の練習優先で本気は出さない」
石井が悪びれもせずそう言い放つと、中村が呆れたように肩をすくめた。
「お前、いつも本気出さないよな」
「本気を出さないのも、俺の美学の一つだ」
「屁理屈言うな」
いつも通りの騒がしいやり取りに、教室の緊張感が少しだけ和らいだ気がした。
*
その日の放課後、俺は図書室の隅で参考書と格闘していた。中間の時のような一夜漬けは、もう懲り懲りだ。あの反省を活かして、今回はコツコツ型でいくと決めている。
「またここにいたのね」
声をかけられて顔を上げると、参考書を抱えた澪が立っていた。中間の時とほとんど同じ光景だが、あの時よりも幾分か、二人の間の空気は柔らかい。
「勉強しに来たのか」
「当然でしょう。図書室なんだから」
澪は俺の向かいの席に、当たり前のように腰を下ろす。もう聞き慣れたやり取りだ。
「教えてもらわなくても大丈夫そう?」
「あぁ、一応な。前みたいに丸投げする気はない」
「そう。……なら、隣で勝手に勉強してるだけでも、いい?」
思いがけない言葉に、俺は少し面食らった。
「別にいいけど、それだと勉強教えてもらうのと変わらなくないか」
「違うわよ。今回は、私があなたに教えるんじゃなくて、ただ一緒にいるだけ。それなら、あなたの言う『自分の力でやる』を邪魔しないでしょう」
澪はそう言うと、シャーペンを構えて自分のノートに向き直った。妙に理屈っぽいが、なんだかその気遣いが、じんわりと胸に染みる。
「……ありがとな」
「別に、お礼を言われるようなことじゃないわ」
澄ました顔で言い切る澪だったが、その口元はやっぱり緩んでいた。
窓の外はすっかり日が落ちて、図書室の蛍光灯だけが二人を照らしている。シャーペンの芯が紙を擦る音と、時折ページをめくる音だけが、静かな空間に規則正しく響いていた。暖房の効きが甘いのか、澪は時折小さく手をこすり合わせていたが、それでも席を立とうとはしなかった。誰に強制されたわけでもないのに、この時間が続けばいいと、柄にもなく思ってしまう自分がいた。
閉館時間を告げるアナウンスが流れると、二人同時にノートを閉じる。
「続きは、また明日ね」
「おう、また明日」
その短いやり取りが、もうすっかり当たり前の日課になっていることに、俺は今更ながら気づいた。
家に帰って風呂上がりにスマホを開くと、澪から一通のメッセージが届いていた。
『今日の分、ちゃんと復習した?』
『今からやる』
『今から、は危険な言葉よ』
『信用ないな』
『実績がそう言わせるのよ』
手厳しい返信に、俺は苦笑しながらも素直に机に向かうことにした。こうやって、遠回しに尻を叩かれているのだと分かっていても、不思議と嫌な気はしない。
*
家に帰ると、珍しく母の晴奈が先に帰宅していた。ソファに座って企画書らしき資料を眺めていたが、俺の顔を見るなり画面から目を離す。
「あら、洸夜。今日も勉強?」
「模試が近いからな」
「へぇ、珍しいこともあるもんね」
からかうような口調だったが、その目にはどこか感心したような色が滲んでいた。
「うちの部下にも見せたいくらいだわ、その心境の変化」
「大袈裟だろ」
「大袈裟じゃないわよ。ゲーム会社の企画職だって、締め切り前は似たようなもんだけどね」
母は苦笑しながら、テーブルの上の資料をトントンと揃える。仕事と勉強、種類は違えど、締め切りに追われる感覚はどこか似ているのかもしれない。
「由紀は?」
「もう部屋で勉強してるわよ。あの子は言われなくてもやるタイプだから」
「知ってる」
俺は苦笑して、自分の部屋への階段を上った。妹に追いつくには、まだまだ努力が必要らしい。
その夜、布団に入る前にもう一度参考書に目を通す。窓の外では、冷え切った夜空に星が瞬いていた。中間の時とは違う種類の緊張感が、腹の底にじんわりと居座っている。全国、という言葉の重みを、こんな形で実感する日が来るとは思わなかった。
「……まぁ、やれるだけやるか」
誰に言うでもなく呟いて、俺は明かりを消した。
*
模試当日。教室には、いつも以上の緊張感が張り詰めていた。配られた問題用紙の分厚さに、あちこちから小さなため息が漏れる。
国語の現代文で悪戦苦闘し、数学の最後の大問を白紙で提出しかけ、英語のリスニングでは隣の中村が「あ、今の聞き逃した」と小声で呟くのが聞こえて、俺まで集中力を持っていかれそうになった。
「終わったぁぁぁ……!」
最終科目が終わった瞬間、石井が机に突っ伏して叫ぶ。中村は「英語のリスニング、三問くらい聞こえないふりして適当にマークした」と虚ろな目で呟き、桜井は珍しく「今回は、まぁまぁの手応えでござる」と侍口調で満足げに頷いていた。
「どうだった、明月くん」
澪が振り返って声をかけてくる。
「わからん。全国規模だと、感覚が掴めないな」
「私も。……今回は、本当に自信ないかも」
「珍しいな、お前がそんなこと言うの」
「人間なんだから、こういう時もあるわよ」
中間の時とまったく同じやり取りに、俺たちは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
斜め後ろでは、有栖が「あー、疲れた」と伸びをしながら、こちらに視線を寄越してくる。
「澪ちゃん、今回は私が勝つ気がする」
「あら、根拠は?」
「勘」
「それは根拠とは言わないでしょう」
澄ました顔で切り返す澪に、有栖はけらけらと笑っていた。この二人、いつの間にか、ただのライバルというより、どこか気の置けない友人同士のような空気になっている気がする。
「そういえば、二人とも数学の最後の証明問題どうした?」
俺がそう聞くと、二人は同時に顔を見合わせた。
「解けたわよ、当然」
「私も解けたけど?」
声を揃えて即答する二人に、俺は乾いた笑いを漏らすしかなかった。この学年トップ争いの二人と自分を比べること自体、間違っているのかもしれない。
*
模試が終わってからも、日常はいつも通りに流れていった。
新聞部の部室では、御手洗先輩が「模試明けの解放感特集号」なる、誰も求めていない企画を打ち出して、有栖に「先輩、それただの息抜きじゃないですか」と一蹴されていた。それでも先輩は懲りずに「息抜きも立派な取材よ!」と胸を張っていたが、結局その号外は小林先輩と松本先輩に静かに没にされていた。
「せめて、クリスマス特集くらいは通してくださいよ先輩」
有栖がそう付け加えると、先輩の目が急にキラキラと輝き出した。
「クリスマス! それいいわね、イルミネーション取材とか……!」
嫌な予感がしたが、その話はまだしばらく先のことだと思って、俺はあえて聞こえないふりをしておいた。
家では、由紀が相変わらず俺の生活態度に目を光らせていた。
「お兄ちゃん、模試どうだった?」
「わからん。結果は年明けくらいだろ」
「ふーん。まぁ、頑張ったならいいけど」
珍しく追及してこない由紀に、俺は逆に落ち着かない気分になったが、深く聞くのはやめておいた。この妹の観察は、聞かなくても大体的中しているのが恐ろしいところだ。
葵とはあれから何度かメッセージのやり取りをするようになったらしく、由紀いわく「澪さんの弟くん、意外と話が合う」とのことだった。中学生同士の交友関係にまで、いつの間にか俺と澪の存在が影響を及ぼしているらしい。
「そういえば、葵くんが言ってたよ。『姉さん、最近前より楽しそうにしてる』って」
「へー、そうなのか」
「他人事みたいに言ってるけど、お兄ちゃんのことだからね、それ」
由紀の指摘に、俺は何も言い返せなかった。
新聞部の仕事も、模試特集が没になった後は久しぶりに平和な放課後が続いた。有栖と部室でだらだらとゲームをしたり、小林先輩と松本先輩が「そろそろ引退も見えてきましたね」なんて呑気な話をしたり――そんな穏やかな時間が、気づけば十二月に差し掛かろうとしていた。
朝の空気は日に日に冷たさを増し、通学路の並木もすっかり葉を落として、寒々しい枝だけが空に伸びている。吐く息が白くなる日も増え、下校時にはすっかり日が暮れるのが早くなった。教室のストーブが稼働し始めた頃、黒板の隅に、担任の几帳面な文字でこう書き込まれた。
『期末テストまで、あと二週間』
その一文を見た瞬間、教室中から「うわぁ……」というお馴染みの悲鳴が上がった。
「またかよ……」
俺は机に突っ伏しながら小さく呟く。模試の疲れが抜けきる間もなく、次のイベントが待ち構えているとは、この学校のスケジュール感覚はどうなっているんだ。
「文化祭、模試、期末って、うちの学校詰め込みすぎでしょ」
有栖が呆れたように頬杖をつく。
「言うな有栖。考えたら余計に憂鬱になる」
前の席では、澪がすでに新しいカウントダウンボードの準備を始めていた。中間の時と同じ、赤いマジックを手にした彼女の横顔は、どこか楽しそうにさえ見える。
「今回は、私も負けないから」
振り返ってそう言った澪に、有栖が不敵に笑い返す。
「望むところだよ」
二人のやり取りを眺めながら、俺は密かに気合を入れ直した。花瓶事件の反省もある。今回は、前回以上に真面目にやってやろうと、そう心に決めていた。
放課後、鞄を肩にかけながら教室を出ると、隣に澪が並んできた。
「今回も、図書室?」
「あぁ、当分は毎日行くつもりだ」
「そう。……じゃあ、また隣で勝手に勉強させてもらうわね」
「別に構わないけど」
軽口を叩き合いながら並んで歩く廊下は、もう見慣れた光景になりつつあった。窓の外を見ると、部活帰りの生徒たちが白い息を吐きながら校庭を横切っていくのが見える。すっかり冬の匂いだ。
中間、模試、そして今度は期末。積み重なっていくテストの数だけ、澪との距離が少しずつ縮まっている気がするのは、きっと俺の思い過ごしではないだろう。
窓の外では、冷たい北風が最後の枯れ葉を吹き飛ばしていく。カウントダウンボードの数字は、赤いマジックの文字で、もう静かに動き始めていた。俺の全然普通じゃない二学期は、こうしてまた新たな戦いの season へと突入していくのだった。




