ep.23 葵くんの1日
姉が今、誰のことを考えて頬を緩めているか、大抵は顔を見た瞬間にわかってしまう男、そう、僕だ。
朝六時。神楽坂家の朝は、目覚まし時計よりも先に廊下を歩く足音で始まる。
「葵様、お目覚めのお時間です」
ノックの後、静かにドアを開けたのは家政婦の桐山さんだ。うちにはこの手の人が何人もいて、正直今でも全員の名前と役割を覚えきれていない。
「はーい、起きてますよー」
起きてない。だが起きてる体で返事をするのが、この家で生き延びるコツだ。
僕は可愛らしい体を動かし、のそのそと布団から這い出して洗面所へ向かう。廊下はやたら広く、天井は高く、壁には誰が描いたのかも知らない絵画がずらりと並んでいる。物心ついた時からこの景色だから今更なんとも思わないが、たまに友達を家に呼んだ時の「ここ、美術館か何か?」という反応だけは毎回面白い。
朝食の席に着くと、すでに姉さん――神楽坂澪が、背筋を伸ばして座っていた。
「おはよう、姉さん」
「……おはよう、葵」
返事はいつも通りだが、心なしか声のトーンが軽い。ふうん。
「お父様、おはようございます」
「うむ」
テーブルの上座には、いつもの仏頂面の父がいる。新聞を片手に、僕たちの方をろくに見もしない。この人と朝から目が合うことは、うちの食卓においては割とレアイベントだ。
「澪、模試の結果は」
「学年で一位でした」
「当然だな」
それだけ言って、また新聞に視線を戻す父。相変わらずの塩対応だが、姉さんはそれに慣れているのか、表情ひとつ変えずに紅茶を口に運んでいる。
僕はというと、テストの話題を振られる前にさっさとパンを口に詰め込むことにした。平均点、というのがうちの家では「呆れられる」対象らしい。慣れているというよりは、諦められている、が正しいのかもしれない。
「葵は、家業を継ぐ気は本当にないのか」
珍しく話しかけられて、僕は危うくパンを喉に詰まらせるところだった。
「ないですね。僕には荷が重いですし、姉さんの方が向いてますから」
「……そうか」
父はそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。がっかりされているのか、安心されているのか、この人の表情からは読み取れたことがない。姉さんがちらりとこちらを見て、小さく口の端を上げたのを、僕は見逃さなかった。
朝食の後、姉さんの手元でスマホがぽつりと震えた。
「……」
画面を見て、ほんの一瞬だけ、彼女の眉間の硬さが緩む。誰からのメッセージかなんて、聞かなくてもだいたい想像がつく。
「姉さん、また見てるね、それ」
「な、見てないわよ」
「今、めちゃくちゃ見てたけど」
「見てないったら見てないの」
むきになって否定するあたり、余計に怪しい。僕は追及するのをやめて、代わりに紅茶を飲み干した。この手の追及は、朝の忙しい時間帯にやるものじゃない。夜、部屋でゆっくりやるべきものだ。
登校は、うちの専属の運転手さんが車を出してくれる。姉さんは高等部、僕は中等部――校舎は違うが敷地は同じなので、車自体は一緒だ。
「姉さん、今日も委員会の仕事?」
「新聞部の手伝いに、少し顔を出すだけよ」
「新聞部って、あの明月とかいう人がいる部活だっけ」
「……なんで、そんなに詳しく知ってるのよ」
「由紀ちゃんから聞いた」
僕がそう言うと、姉さんはあからさまに言葉を詰まらせた。由紀ちゃんの名前を出すだけで、姉さんの動揺具合が面白いくらい分かりやすくなる。隠し事が下手すぎて思わず吹き出しそうになってしまう。
「べ、別に、明月くんの話なんて」
「してないなんて言わせないよ、姉さん。この前、新聞部の花瓶事件のことまでうちで相談してたでしょ。窯元の伝手がどうとか」
「あれは、うちの祖母の寄贈品が絡んでたからよ! 仕方ないでしょう」
「はいはい」
僕は軽く受け流しておく。深追いすると本当に機嫌が悪くなって面倒くさくなるタイプだからこの辺が引き際だ。
中等部の正門で車を降りると、ちょうど校門で友達と話している由紀ちゃんの姿が見えた。
「おはよ、由紀ちゃん」
「あ、葵くん、おはよう」
由紀ちゃんは、学校では「氷の姫君」なんて呼ばれているらしいが、僕から見ればただの過保護な世話焼き妹だ。何しろ本人が「お兄ちゃんメモ」なるものをノートの端につけているという情報を、僕は本人の口から聞いてしまっている。
将来の夢は探偵なのだろうか。
「ねぇ由紀ちゃん、お兄さん、最近どう?」
「相変わらずだよ。十七位取ったって浮かれて花瓶割ってた」
「うちの姉さんと同じくらい極端だね、その人」
「うちのお兄ちゃんが極端なんじゃなくて、葵くんのお姉さんが極端に完璧なだけだと思う」
辛辣だ。だがまあ、否定できない。
「二人とも、うまくいってると思う?」
僕がそう聞くと、由紀ちゃんは腕を組んで、いかにも「探偵」といった顔つきで頷いた。
「私の観察日記によれば、絶好調」
「観察日記て。うちの姉さんもそうだけど、お互いの妹と弟がこんな調子で見張ってるって知ったら、二人ともドン引きするだろうね」
「知られたら困るから、これは私たちだけの秘密にしとこうね、葵くん」
「了解」
握手を交わす僕たちの姿を、通りすがりのクラスメイトが微妙な顔で見ていた気がするが、気にしないことにする。
授業中は特に書くこともない。数学の授業で居眠りしかけて怒られたことと、昼休みに友達が「神楽坂さんの弟なのに、なんで平均点なの」と失礼な質問をしてきたので「姉が優秀すぎると、こっちが霞むから逆に楽なんだよ」と皮肉で返しておいたことくらいだ。うちの姉が優秀すぎるおかげで、僕は基本放置してもらえる。悪くない立場だと思う。
放課後、僕には僕で「一応神楽坂家の男子として最低限」の礼儀作法のレッスンがある。継ぐ気がなくても、外に出た時に恥をかかない程度の作法は仕込まれるのがこの家のルールらしい。今日は茶道の先生が来る日だった。
「葵様、また手順を飛ばしていますね」
「すみません、先生」
姉さんが受けているレッスンの数に比べれば、僕のそれなんてお遊び程度のものだ。姉さんは勉強に、家業の勉強会に、実行委員に、新聞部の手伝いにと、毎日分刻みのスケジュールで動いている。僕がのんびり茶道の先生に怒られている間にも、姉さんはきっとどこかで誰かと打ち合わせをしているんだろう。
――時々思う。姉さんは、いつ休んでるんだろうって。
夕方、僕が自分の部屋で漫画を読んでいると、廊下から控えめな足音が聞こえた。姉さんが帰ってきたらしい。
「ただいま」
「おかえり、姉さん。今日も遅かったね」
「新聞部の手伝いと、実行委員の残務が少し」
そう言いながらも、姉さんの表情はさほど疲れているようには見えなかった。むしろ、心なしか足取りが軽い。
夕食は、いつも通り父と母と姉さんと僕の四人。母は今日は珍しく在宅で、仕事の資料を横目にしながら箸を進めている。
「澪、期末はもうすぐね。今回もしっかり」
「はい、お母様」
「葵は、平均点さえ取れれば十分だから」
「その言い方、地味に傷つくんだけど母さん」
母は聞こえないふりをして、優雅に紅茶を飲んでいる。この家、父も母も塩対応なのに、なぜか姉さんにだけは異様に厳しい。跡取り娘というのは、こんなにも報われないものなのかと、時々気の毒になる。
夕食の後、僕は姉さんの部屋のドアをノックした。
「姉さん、入るよ」
「な、なによ急に」
姉さんはベッドの上で、机の上に置いた小さな白いうさぎのぬいぐるみを撫でていた。あの夏休みのゲーセンで、由紀ちゃんが取ってあげたという例のやつだ。
「それ、まだ大事にしてるんだ」
「べ、別に、大事にしてるってわけじゃ」
「じゃあ埃かぶってていいの」
「……大事にしてるわよ、悪い?」
あっさり白状した姉さんに、僕は笑いを堪えられなかった。
「で、聞きたいんだけど。明月とかいう人と、最近どうなの」
「な……、なんでいきなりそんな話」
「気になるからだよ。姉さんが誰かのこと考えて頬緩めてるの、家族としては珍しい光景だし」
「ゆ、緩めてないわよ、そんなの」
「緩めてる。今も緩んでる」
姉さんは慌てて頬を両手で押さえたが、もう遅い。僕はベッドの端に腰掛けて、続きを促した。
「まぁ、悪い話じゃないなら別にいいけどさ。姉さんがそうやって、家業とか順位とか関係ないところで、誰かと普通に笑ってられるの、僕は結構いいと思うよ」
「……葵」
「なに」
「柄にもなく、いいこと言うのね」
「たまにはね。姉さんばっかり全部背負ってるの見てると、こっちも思うところくらいあるよ」
姉さんは少し驚いたような顔をした後、ふっと小さく笑った。いつもの澄ました笑顔じゃない、少しだけ子供っぽい笑い方だった。
「期末、また忙しくなるわね」
「その時は僕がお父様の相手、少しは引き受けるからさ。息抜きくらい、たまにはしなよ」
「あなたにお父様の相手が務まるの?」
「務まらないけど、気は逸らせると思う」
姉さんはそれを聞いて、今度こそ声を上げて笑った。
「変わり者ね、あなたって」
「姉さんほどじゃないよ」
部屋を出る間際、振り返ると、姉さんはまたスマホの画面をじっと見つめていた。画面の光に照らされたその横顔は、神楽坂家の令嬢としての顔でも、学年首席としての顔でもない、ただの十五歳の、普通の女の子の顔をしていた。
僕はそっとドアを閉めて、自分の部屋へ戻る。
――まぁ、うまくやってるみたいで何よりだ。
これでまた由紀ちゃんに、報告することが一つ増えた。あの子の「観察日記」に、また新しい一行が書き加えられるのかと思うと、少しだけおかしくなる。
神楽坂家の、僕の全然普通じゃない一日は、こうして静かに幕を閉じたのだった。




