ep.21 器物破損ってやばいですか
テスト返却の日、順位発表の瞬間だけは何度経験しても心臓に悪い男、そう、俺だ。
二週間の禁欲生活――もといアニメ我慢生活を経て迎えた、中間テスト返却の朝。教室には、いつもよりピリついた空気が漂っている。誰も彼も、机の上に返ってきたばかりの答案用紙を睨みつけては、一喜一憂の表情を浮かべていた。
「よっしゃ、数学八十点……!」
石井が拳を握りしめて小さくガッツポーズを決める。
「お前がまともな点取ってるの、逆に怖いんだが」
「失礼だな明月。俺だってやる時はやる」
「潔癖症を拗らせてる暇があったらもっと早くから勉強しろよ」
軽口を叩きながらも、俺の意識は完全に自分の答案の方に向いていた。数学、英語、現代文、化学――どの教科も、手応えとしては悪くない。少なくとも、期末の時のような「白紙で出した」レベルの絶望はどこにもなかった。
だが問題は、個々の教科の点数じゃない。学年順位だ。
昼休み、担任が「順位表、貼り出したから」と一言だけ告げて教室を出ていくと、教室中がざわめきながら一斉に席を立った。俺もその波に乗って、廊下の掲示板へと急ぐ。
*
掲示板の前には、既に人だかりができていた。押し合いへし合いしながら、みんな自分の名前を探している。
「おい石井、お前の名前どこだよ」
「ちょっと待て、今探してる……あった。八十五位」
「まぁ、そんなもんだろ」
「他人事みたいに言うな明月洸夜」
中村と桜井もそれぞれの順位を見つけて、微妙な顔をしたり満足げに頷いたりしている。桜井は相変わらず安定の三十位台、中村は「まぁこんなもんだろ」と諦観の境地に達していた。
問題は、俺だ。
人混みをかき分けて、ようやく順位表の前に立つ。上位から順に名前が並んでいるが、緊張しすぎて目が滑ってしまい、一向に自分の名前に辿り着かない。
――落ち着け、俺。上から順にちゃんと見ろ。
深呼吸をひとつ。改めて視線を上から順に走らせていく。
一位。『神楽坂澪』。
やっぱりか。期末では二位で悔しがっていたが、今回は見事に返り咲いたらしい。あいつのことだから、この二週間、俺なんかよりよっぽど鬼気迫る顔で机に向かっていたんだろう。
三位、五位、八位、十二位……と、見慣れた名前が続く。そして――
「……あった」
十七位。『明月洸夜』。
何度も目をこすって確認した。見間違いじゃない。ちゃんと自分の名前が、桁の一の位じゃなく十の位、それも一桁目に「1」がついた場所に刻まれている。
「……マジか」
声が震えた。二週間、机にかじりついて七時間勉強を続けた成果が、こんな形で数字に現れるとは。あの日々は無駄じゃなかった。
「おい明月ぃ! お前どこにいる、名前見つかったか!?」
石井が人混みの中から俺の肩を掴んでくる。
「……十七位」
「は?」
「十七位だって」
石井の目が、掲示板と俺の顔を三往復くらいした。
「……マジで!?」
「マジだ」
「うおおおおおおおおおおお!! 明月が二十位以内に入ってる! 二十位以内だぞこれ!」
石井が叫んだ瞬間、隣にいた中村と桜井も同時に俺の順位を確認して、目を丸くする。
「まじだ、明月が十七位だ……」
「奇跡が起きたな」
「奇跡て失礼だろ桜井」
だが実際、俺自身もこれが奇跡なのか努力の結晶なのか、自分でもよくわからない気分だった。とにかく、頑張った甲斐はあった。それだけは確かだ。
「お前、あの明月洸夜だぞ!? 前は百二十位だっただろ!?」
「今回は本気出したからな」
「マジで信じられん……いや、待て、これは祝わないといけないだろ!」
石井のテンションが、みるみるうちに沸点を突破していく。
「よし、いくぞ明月! 中村! 桜井! 一緒に喜んでやれ!」
「べつにお前の順位じゃないだろ」
「友情だろこれは!」
石井が俺の肩に腕を回し、中村がもう片方から抱きつくようにしてくる。桜井まで珍しく興奮気味に俺の背中を叩いてきた。
「明月、やるじゃないか」
「うおおおお、明月洸夜が二十位以内だ! 伝説だ!」
「大袈裟すぎるだろお前ら」
そう言いながらも、俺の口元も自然と緩んでしまう。こういう時、素直に喜んでくれる友達がいるのは、悪くないもんだ。
興奮した石井が、俺と中村の腕を引っ張って廊下を歩き出す。
「おい、行くぞ二人とも! みんなに自慢してやろうぜ!」
「どこ行くんだよ」
「決まってるだろ、生徒会室の前の掲示板にも一応貼ってあるはずだからそっちも見に行くんだよ!」
なぜそんな余計な確認をしに行こうとするのか理解に苦しんだが、興奮した石井を止める術は誰にもなかった。三人でだんご状態のまま、廊下を小走りに駆けていく。
――そして、事件は起きた。
昇降口近くの廊下、そこには生徒会が管理している大きなガラスケースがあり、その脇に、創立六十周年を記念して卒業生から寄贈されたという、由緒正しい大きな陶器の花瓶が飾られていた。名前は知らないが、校長が事あるごとに「これは大変貴重な品でね」と自慢げに語る、あの花瓶だ。
「うおおお、二十位以内だぞおおお!」
テンションの振り切れた石井が、両手を大きく振り上げながら走る。その手が、勢い余って俺の背中にぶつかり、俺はバランスを崩して隣の中村に倒れ込んだ。連鎖的に中村がよろけ、その拍子に彼の肘がガラスケースの土台を強く突く。
「あ、」
誰かの声が、廊下に小さく響いた。
ぐらり、と花瓶が揺れる。まるでスローモーションのように、俺たちの目の前でその大きな陶器が台座から滑り落ちていくのが見えた。
「うわああああああ!!」
石井の絶叫と共に、花瓶は盛大な音を立てて廊下に叩きつけられ、粉々に砕け散った。中に生けられていた花と水が、破片と一緒に廊下いっぱいに広がっていく。
一瞬にして、周囲が静まり返った。
「……終わった」
俺は膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとか堪えた。
「な、なんだ今の音……!」
騒ぎを聞きつけた教師や生徒たちが、次々と廊下に駆けつけてくる。
「お前ら、何をやってるんだ!」
生徒指導担当の教師が血相を変えて怒鳴りながら駆け寄ってくる。石井、中村、俺の三人は、破片の前で凍りついたまま動けなかった。
「す、すみません、その、勢い余って……」
「言い訳は後だ、まずは怪我人がいないか確認しろ」
幸い、破片で怪我をした者はいなかった。だが問題は、この花瓶が「大変貴重な品」だったということ、そしてそれを割ったのが、よりによってあの新聞部の記者――明月洸夜だったということだった。
「お前、新聞部の子だろう。廊下の記事、よく書いてる」
「は、はい……」
「新聞部が校内で器物破損か……これは、少々問題になるぞ」
教師のその一言に、俺の背筋が凍った。
*
噂というのは、恐ろしいほど速く広まるものだ。
昼休みが終わる頃には、校内中に「新聞部の一年生が花瓶を割った」という話が伝わっていた。俺が部室の扉を開けた瞬間、待っていたのは、この世の終わりのような顔をした御手洗先輩だった。
「明月くぅぅぅん……なんてことしてくれたのよぉ……!」
「せ、先輩、落ち着いてください」
「落ち着けるわけないでしょ! あの花瓶、校長が毎年開校記念式典で自慢するやつなのよ!? これ、下手したら新聞部の廃部理由に使われかねないんだから!」
先輩の悲鳴に、部室にいた他の部員たちも一斉に顔を強張らせる。
新聞部には、御手洗先輩、俺、有栖の他に、二年生の男子部員が二人いる。普段はあまり表舞台に出てこない、地味だが真面目な二人だ。名前を小林隼人、もう一人を松本蓮という。
「まぁまぁ先輩、落ち着いて。うちは一年の頃から廃部の危機ばっかり煽られてますけど、実際は毎回なんとかなってるじゃないですか」
小林先輩がのんびりとした口調でフォローを入れる。
「そうそう、今回だってきっと大丈夫ですよ。過失であって、故意じゃないんですから」
松本先輩も穏やかに頷く。この二人、普段は目立たないが、こういう時に限って妙に冷静だ。
「そうは言ってもね小林くん、松本くん! うちは去年も一昨年も、廃部寸前まで追い詰められてるのよ!? 部員の不祥事なんて、格好の口実になるんだから……!」
御手洗先輩が机に突っ伏して呻いている隣で、有栖が呆れたように腕を組んでいた。
「洸夜、あんたやることなすこと大きいね……」
「わざとじゃない。石井が興奮しすぎたのが原因だ」
「まぁ、明月くんの十七位は素直に凄いと思うけど、そのはしゃぎ方が問題だったってことね」
容赦なく指摘され、俺は何も言い返せなかった。
*
放課後、俺と石井、中村の三人は、生徒指導室に呼び出されることになった。花瓶の弁償や処分について、正式な話し合いが行われるらしい。
部屋に入ると、そこには担任と生徒指導の教師だけでなく、意外な人物の姿があった。
「――生徒会長の一之瀬です」
背筋の伸びた、涼しげな雰囲気を纏った三年生の女子生徒が、静かに名乗る。艶やかな黒髪を一つに束ね、眼鏡の奥の瞳は落ち着いていて、まるでこちらの内心まで見透かされているような感覚に陥る。
「あの花瓶、生徒会が管理している備品だったので、私も同席させてもらいます」
その一言に、俺と石井、中村は思わず身を硬くした。生徒会長直々の登場に、これはただ事では済まないという緊張感が一気に高まる。
「まず、状況を整理しましょう。廊下を走っていて、花瓶を破損させた。故意ではなく、過失。間違いないですね」
「は、はい……」
石井が消え入りそうな声で答える。あの威勢の良さはどこへ行ったのか。
「新聞部の活動として走っていたわけではなく、あくまで個人的な浮かれ行動、ということでよろしいですか」
「そうです、テストの結果が良くて、それではしゃいでしまって……」
俺が説明すると、一之瀬先輩は小さくメモを取りながら頷いた。
「なるほど。……ちなみに、明月くん。あなた、新聞部の記者としてこの学校の記事をいくつも書いていますね」
「あ、はい」
「先日のミスコン特集記事、私も読みました。なかなか、読ませる文章でしたよ」
予想外の言葉に、俺は少し面食らった。
「新聞部が学校行事を盛り上げてくれているのは、生徒会としても評価しています。ただ、今回のような不祥事が起きると、廃部を検討している教員会議に格好の材料を与えることになる。それは理解していますね」
「……はい」
一之瀬先輩の言葉は淡々としているが、その一つ一つに重みがあった。御手洗先輩が心配していたことが、まさに現実味を帯びてくる。
「ですが」
と、彼女は続けた。
「今回の件、私が生徒会側から確認した限りでは、悪質性はなく、純粋な不注意による事故です。器物の損害については、然るべき弁償手続きを取ってもらいますが、それをもって部活動そのものを処分の対象にするのは、少々行き過ぎだと私は考えます」
その一言に、俺と石井、中村は思わず顔を見合わせた。
「せ、生徒会長……」
「もちろん、これは私個人の意見です。最終的な判断は教員会議に委ねられますが、生徒会としては、新聞部の活動実績を鑑みて、廃部という極端な処分には反対の立場を取るつもりです」
淡々とした口調の中に、確かな意志が滲んでいた。厳しそうな見た目とは裏腹に、意外と筋の通った人らしい。
「弁償については、三人で分担してもらいます。金額は後日、正式な見積もりが出てから連絡します。それと、しばらくの間、廊下や階段での校内美化奉仕活動を課します。花瓶を割った罰、というより、廊下を安全に使うことの大切さを、身をもって学んでもらう意味合いですね」
「……ありがとうございます」
俺たち三人は、深々と頭を下げた。生徒会長という肩書きから想像していたよりも、ずっと理にかなった、公平な裁定だった。
*
新聞部の部室に戻ると、扉を開けた瞬間、御手洗先輩が飛びついてきた。
「明月くん! どうだったの!? 廃部……廃部にはならないわよね!?」
「大丈夫です、先輩。弁償と奉仕活動だけで済みました」
「よ、よかったぁぁぁ……!」
先輩はその場にへなへなと崩れ落ち、机に突っ伏した。小林先輩と松本先輩が、それぞれ「よかったですね先輩」「まぁ、予想通りでしたけど」と穏やかにフォローしている。
「有栖、心配かけて悪かったな」
「まったくだよ。……でもまぁ、無事でよかった」
有栖はそう言いながらも、どこか安堵したような顔で微笑んでいた。
*
教室に戻ると、澪が心配そうな顔で俺を待っていた。
「明月くん、大丈夫だった? 花瓶のこと、もう学年中に広まってるわよ」
「まぁ、なんとか。弁償と奉仕活動で済んだ」
「そう……よかった」
澪は小さく息を吐いてから、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「それにしても、十七位、おめでとう。……あなたにしては、頑張ったじゃない」
「お前にしては、はいらないだろそこ」
「あら、褒めてるつもりよ」
軽口を叩き合いながらも、彼女の目には確かな喜びの色が見えた。
「神楽坂は一位だったんだろ。おめでとう」
「ええ。今回は、意地でも取り返してやろうと思って」
澪は少しだけ誇らしげに、それでいて照れくさそうに視線を逸らした。
「二人で祝勝会でもすればいいのに」
いつの間にか背後にいた有栖が、にやにやしながら会話に割り込んでくる。
「な、なんでお前がここに」
「花瓶の件、気になって様子見に来たの。でもどうやら、順位の話で盛り上がってるみたいだから、これはこれで別件だね」
「揶揄うなよ」
軽くあしらいながらも、俺の頬は緩んでいた。
*
家に帰ると、由紀が玄関で待ち構えていた。
「お兄ちゃん、聞いたよ。十七位だって? すごいじゃない」
「まぁな」
「でも、花瓶割ったって話も聞いたけど」
由紀の情報網、相変わらず速すぎる。
「……その話もか」
「もう学校中に広まってるんだから、うちの中学にまで届いても不思議じゃないでしょ」
「勘弁してくれ」
「まぁ、順位の方は素直に褒めてあげる。頑張ったんだね」
珍しく、からかいの色のない、まっすぐな一言だった。
「お、おう。ありがとな」
「その代わり、花瓶のことは今度ゆっくり詳しく聞かせてもらうから」
「そっちは勘弁してくれって言ってるだろ」
夕食の席、母さんも珍しく興味津々な様子でこちらを見ていた。
「洸夜、十七位ってマジ?」
「マジだ」
「へえ、やればできるんじゃない」
「その言い方、地味に腹立つな」
「褒めてるのよ。……で、花瓶の弁償、いくらになりそうなの」
「まだわからん」
「まぁ、頑張って働いて返しなさいね」
母さんはあっさりとそう言って、味噌汁をすする。この緩さがあるから、うちの家族は今日もどうにか回っているのだと、俺は改めて実感した。
二週間の努力の末に手にした十七位という結果と、勢い余って割ってしまった由緒正しい花瓶。喜びと反省が同時に押し寄せる、なんとも締まらない一日だった。
だが、それでも――澪の「頑張ったじゃない」という一言だけは、何よりの成果だったと、俺は密かにそう思っていた。




