ep.20 二十位の誓い
「二学期中間テスト、もうすぐだからな。気合い入れろー」
担任の一言に、教室中から「うわぁ……」という重いため息が漏れる。文化祭が終わった解放感に浸る間もなく、次のイベントが待ち構えているとは、この学校のスケジュール感覚はどうなっているんだ。
「文化祭の疲れも取れてないのに、なんでこう間髪入れずにテストがあるんだ……」
机に突っ伏しながら呟くと、前の席から呆れたような声が返ってくる。
「文化祭が終わったのは三週間も前でしょう。いつまで引きずってるのよ」
澪だ。振り返らずとも声だけで表情まで想像できる。多分、呆れながらも少し笑っている顔だ。
「三週間なんてあっという間だろ。俺の中では昨日の出来事だ」
「時間感覚がおかしいのよ、あなた」
澪は呆れたように言いながらも、机の上にはすでに範囲表と真新しいノートが並んでいる。見慣れた光景だ。学年首席のこの人は、こういう時だけは誰よりも準備が早い。
実行委員としての疲れを微塵も見せず、澪はすでに次の戦いに備えていた。
「明月くん、今回はどう? 前回みたいな一夜漬け、今度は許されないわよ」
「なんで俺の勉強計画にまで口出すんだよ」
「あなたが赤点取ったら、また私が教える羽目になるからよ」
まるでそれが確定事項であるかのような口調に、俺は思わず苦笑した。
放課後、新聞部の部室では、案の定緊迫した空気が漂っていた。
「みんな聞いてー! 我が新聞部、テスト期間中は活動休止よ!」
御手洗先輩がホワイトボードに『臨時休部:テスト明けまで』とデカデカと書きなぐる。
「先輩、今更ですけど部の存続の方は大丈夫なんですか」
「明月くん、あなた分かってないわね。廃部を回避するには、まず部員が留年しないことが最優先事項なのよ」
妙に説得力のある正論に、俺は頷くしかなかった。
――このままじゃまずい。
期末テストでは学年百二十位くらいだった。赤点は回避したが、褒められた順位でもない。あの時は神楽坂に勉強を教わって、チョコを分け合って、糖分補給とか言いながらギリギリ乗り切った。もちろん今でも感謝しているし、あの時間は嫌いじゃなかった。
だけど、正直なところ、今回はちょっと違う気持ちがあった。
毎回毎回、神楽坂に頼り切りになるのはどうなんだ、という話だ。あいつは学年二位を「二位でしかない」と自分を追い詰めるくらい、家業の重圧を背負って生きている。そんな相手に「教科書忘れた」だの「勉強教えて」だの、いつまでも甘えているのは、なんというか、男として格好がつかない。あと有栖のやろうにギャフンと言わせてやりたい。
――今回は、自力でやってやる。
柄にもなく、そう決意した。目標は学年二十位以内。中間の範囲なら、期末より単元も絞られてるし、いけるはずだ。多分。
「なんか今日の明月、目が違うな」
昼休み、学食で石井が俺の顔をまじまじと見つめてくる。
「なんだよ急に」
「いや、なんか悟りを開いたみたいな顔してる」
「悟りは開いてないが、決意はした」
「決意?」
「二十位以内取る」
石井、中村、桜井の三人が同時に箸を止めた。
「……はい?」
「聞き間違いか? 明月が、二十位?」
「桜井まで疑うのかよ」
「いや、疑うだろ普通。お前この前百二十位くらいだったじゃん」
中村の正論に、俺は言葉に詰まる。事実だから何も言い返せない。
「まぁ見てろ。今回は本気出す」
「じゃあ授業中も寝ないのか?」
「テスト期間中だけはな」
「テスト期間中だけて」
石井が呆れたように肩をすくめる。まぁ、日常的に授業態度を改めるつもりは今のところない。だが、テスト前の二週間だけは話が別だ。人間、期間限定でなら大抵のことは我慢できる。多分。
その日の放課後、俺は神楽坂に自分の決意を伝えることにした。伝えなくてもいいと言えばいいのだが、なんとなく先に言っておかないと、また向こうから「教えてあげましょうか」と自然に申し出てきそうな気がしたからだ。
「神楽坂、今回のテストなんだけどさ」
「なに、また教科書忘れたの?」
「違う。今回は、自分でやってみようと思って」
神楽坂は一瞬、きょとんとした顔をした。
「……自分で?」
「ああ。毎回教えてもらってばっかりなのもどうかと思って。今回は二十位以内、狙う」
しばらく黙って俺の顔を見つめていた神楽坂は、やがてふっと小さく笑った。
「へえ。……らしくないこと言うのね」
「うるさいな。悪いか」
「ううん、別に。……頑張りなさいよ、明月くん」
その一言には、からかいの色よりも、どこか応援するような響きが混じっていた気がした。もちろん、こういう時に限って照れくさそうに視線を逸らすあたり、素直じゃないところは相変わらずだ。
「もし、本当に困ったら、頼ってくれても構わないけど」
「その時は頼む。だけど今回は、自力でやれるとこまでやる」
「そう。……なら、私も応援だけしておくわ」
それだけ言うと、神楽坂は机に向き直り、いつも通りシャーペンを走らせ始めた。ちらりと横目で見ると、口元がわずかに緩んでいるのがわかる。
*
その日から、俺の生活は一変した――と言いたいところだが、正確には「テスト期間限定で一変した」というのが正しい。
朝は今まで通り早めに登校するが、教室に着いたら机に突っ伏して寝るのではなく、ノートを広げて予習を始める。授業中は睡魔と全力で戦い、板書を写す。放課後は寄り道せず、まっすぐ帰宅して机に向かう。
一日の勉強時間、目標は七時間。
我ながら正気の沙汰とは思えない数字だが、一度口に出した以上、有言実行しないと石井たちに一生いじられる未来しか見えない。
「お兄ちゃん、今日も部屋に籠ってるの?」
夕食後、由紀が俺の部屋を覗き込んでくる。
「ああ、テスト勉強だ」
「珍しいね。いつもならもうアニメ見てる時間なのに」
「今回はアニメ我慢の期間だ」
「へえ……」
由紀はしばらく無言で俺の机の上――参考書とノートと、時計代わりに置いたスマホのタイマーアプリを見つめていた。
「なんか、今回本気っぽいね」
「まあな。二十位以内、狙ってる」
「え、二十位? お兄ちゃんが?」
「そこまで驚くことか」
「いや驚くでしょ。この前百二十位だった人が急にそんなこと言い出したら」
容赦のない正論。神楽坂といい由紀といい、俺の交友関係にいる人間は正論で殴ってくる人間が多すぎる。
「まぁ、頑張るなら応援するけど。……何かあったの?」
「何かって?」
「いや、急に心境の変化があったのかなって」
由紀の観察眼は相変わらず鋭い。俺は少し言葉を選びながら答える。
「……毎回、神楽坂に頼りすぎるのも、なんか違うなって思っただけだ」
「ふーん」
由紀はそれだけ言うと、意味深な笑みを浮かべて部屋を出ていった。あの顔は絶対に何か勘付いている顔だ。だが今は追及してくる様子もなく、静かに扉を閉めてくれたのはありがたい。
「……よし、やるか」
俺は椅子に座り直し、数学の参考書を開く。タイマーをセットし、まずは二時間、集中してみることにした。
*
――正直に言うと、最初の三日間はまるで集中できなかった。
「ドーパミン出したーい…」
机に向かって五分もすると、スマホが気になる。参考書を開くと、なぜか無性にアニメの続きが気になる。七時間どころか、二時間机に向かっただけで魂が抜けそうになった。
「お兄ちゃん、集中できてないでしょ」
三日目の夜、由紀が麦茶を持って部屋に入ってきた。
「なんでわかるんだよ」
「シャーペンの音が止まってる時間が長すぎる。あと、さっきスマホ触ってたでしょ」
「見てたのか」
「廊下からちらっと」
監視社会か、この家は。
「まぁ、いきなり七時間は無理でしょ。最初は三時間から始めて、少しずつ伸ばせばいいんじゃない」
妹の意外とまともなアドバイスに、俺は素直に頷いた。プライドは高いが、正しいものは正しいと認められるくらいの分別はある。
それから数日、俺は少しずつペースを掴んでいった。三時間、四時間、五時間――机に向かう時間が伸びるにつれ、不思議と集中も続くようになってくる。人間、慣れというのは恐ろしいものだ。
学校でも、変化は少しずつ周囲に伝わっていった。
「明月、お前ほんとに授業中寝てないのな」
中村が驚いたように言う。
「言っただろ、テスト期間中だけは本気出すって」
「口だけかと思ってた」
「失礼な奴だな」
昼休み、有栖からもメッセージが届いた。
『洸夜、なんか最近マジメになったって噂で聞いたけど』
『まあな。今回は本気だ』
『珍しい。神楽坂ちゃんに頼らないつもりなの?』
『ああ』
『……ふーん、そういうとこ、嫌いじゃないよ』
柄にもなく、その一文に少しだけ照れくさい気持ちになった。
*
テスト当日まで、あと三日。
俺はついに、目標だった一日七時間の勉強時間を達成する日を迎えていた。学校から帰宅して、夕食を挟んで深夜まで、参考書と問題集を往復する。目が痛い。肩も凝る。だが、不思議と苦じゃなかった。
「お兄ちゃん、ご飯できたよ」
「あと五分」
「その五分、絶対三十分になるやつでしょ」
由紀の言う通り、気づけば三十分以上机に向かい続けていた。だが今回ばかりは、それを咎める由紀の声にも、どこか嬉しそうな響きが混じっている気がした。
「なんか、お兄ちゃんがこんなに真面目にやってるの、初めて見たかも」
「そんなに珍しいか」
「珍しいよ。びっくりした」
夕食の席、母さんも珍しく興味を示してきた。
「洸夜、最近部屋に籠ってると思ったら勉強してたのね」
「まあ、一応」
「へえ、明日は槍でも降るのかしら」
「その言い方はひどくないか」
軽口を叩き合いながらも、家族の中に流れる空気は、いつもより少しだけ温かい気がした。
テスト前日の夜、俺は最後の見直しを終えて、スマホを開いた。神楽坂から短いメッセージが届いている。
『明日、頑張ってね』
それだけの一文だったが、今の俺にはそれで十分だった。
『おう、お前もな』
短く返信して、俺は布団に入る。七時間勉強を続けた体は正直くたくただったが、不思議と気分は悪くなかった。
結果がどうなるかは、まだわからない。だが、少なくとも今回は、誰かに頼らず自分の足で立とうとした。それだけは、胸を張って言える気がした。
――俺の、全然普通じゃない中間テスト期間が、静かに幕を閉じようとしていた。




