ep.19 妹の観察日記
第十九話 妹の観察日記
兄が今何を考えているか、大抵のことは顔を見た瞬間にわかってしまう女、そう、私だ。
文化祭の熱気もすっかり冷めて、翡翠川学園には平凡な日常が戻ってきていた。とはいえ、こちらは高等部の話。私、明月由紀が通う中等部は、そもそもあの騒がしい文化祭にすら「隣の建物の行事」程度の温度感でしか関わっていない。まったく、お兄ちゃんの方はさぞかし大変だったんだろうな。
朝六時半。私はいつも通り、誰よりも早く起きて台所に立つ。
「……今日は卵焼きと、味噌汁と」
冷蔵庫を漁りながら献立を組み立てる。お兄ちゃんは好き嫌いこそないものの、味の濃いものを好む。だから味噌はいつもより気持ち多めに。こういう些細な調整、本人は絶対に気づいていない。
朝食の支度を終えると、二階の兄の部屋へ向かう。ノックはする。だが返事を待つほど私は暇じゃない。
「お兄ちゃん、七時半よ」
「んん……」
布団の中でもぞもぞと動く塊。この様子だと、あと二回は起こしに来ないと本気で遅刻する。仕方のない人だ。
――さて。ここで一つ、はっきりさせておきたいことがある。
最近、有栖さんにも、クラスの子にも、果ては葵くん(あの神楽坂さんの弟らしい、由紀の中学の知り合いの知り合い経由で最近ちょっとやり取りするようになった)にまで聞かれることがある。
「由紀ちゃんって、なんでお兄さんのことそんなに分かるの?」
正直に言うと、これは別に超能力でもなんでもない。ただの積み重ねだ。
例えば、さっきの寝相。あれは「もう起きる気はあるが、まだ布団の温もりに未練がある」段階の寝相。完全に二度寝したい時はもっと静かに丸まる。声を出しながらもぞもぞ動くのは、起こされることを半分受け入れている証拠なのだ。
こんな観察、いつから始めたんだったか。
――たぶん、あの中学二年の春からだと思う。お兄ちゃんが誰かに騙されて、笑いものにされて、それでも「大丈夫だ」って強がって、毎晩部屋に閉じこもってアニメばかり見るようになった、あの頃。
私はまだ小学生で、何が起きたのか詳しくはわからなかった。ただ、お兄ちゃんの様子がおかしいことだけは、痛いほどわかった。声のトーン、食欲、目の動き、母さんへの返事の仕方――全部がいつもと違った。なのに私には、何もできなかった。「大丈夫?」と聞いても「大丈夫」としか返ってこない。子供だった私は、ただおろおろと見ていることしかできなかった。
あの時から、私は決めたのだ。次に何かあったら、絶対に見逃さない。お兄ちゃんが強がって隠そうとしても、私だけは気づいてあげられるように。
……なんて、こんな殊勝なことを考えているなんて、本人には死んでも言わない。言ったら絶対「え、キモ」みたいな顔をされる。断言できる。
「お兄ちゃん、起きないと卵焼き由紀が全部食べるよ」
「起きる、起きるから待って」
この一言で跳ね起きるあたり、私に対する胃袋の忠誠心だけは本物だと思う。
*
朝食を終え、私は一人で登校する。今日はお兄ちゃんと一緒じゃない。あの人、最近妙に朝早く出ていくようになった気がする。理由は多分わかっている。神楽坂さんと朝、席で話す時間を確保したいからだろう。文化祭が終わっても、あの二人の距離感はどうも縮まったままらしい。とても結構なことだ。
翡翠川学園中等部は、高等部と同じ敷地にありながら校舎は別。正門を潜ると、すぐに数人のクラスメイトに声をかけられる。
「由紀ちゃん、おはよう!」
「おはよう、遠藤さん」
遠藤さくらは、私の数少ない気の置けない友人だ。ふわふわした髪と、いつも明るい声が特徴で、私のことを「学園の氷の姫君」みたいに扱う周囲の中で、唯一普通に接してくれる。
「ねぇねぇ由紀ちゃん、聞いた? 高等部の文化祭、なんかすごかったらしいよ。ミスコンで一年生が準グランプリ獲ったって」
「……ああ、神楽坂さんね」
「知り合い?」
「まあ、ちょっと」
ちょっとどころではないのだが、詳しく話すと長くなるので割愛する。それに、あの人がお兄ちゃんの隣の席だという情報は、なぜか中等部にまでうっすら伝わっている。この学校の情報伝達速度、本当にどうなっているんだろう。お兄ちゃんもよく愚痴っていたけれど、私にも他人事ではなかったらしい。
「玉子焼きの人でしょ? うちのクラスでも話題になってたよ、号外読んだ子が」
「……あれ書いたの、うちの兄なんだけどね」
「え、うそ!?」
さくらが目を丸くする。私はなんとなく誇らしいような、恥ずかしいような、複雑な気持ちで頷いた。
教室に入ると、いつも通り視線が集まる。私に対する視線というのは、大体二種類に分けられる。「憧れ」と「近寄りがたさ」だ。銀髪と蒼い瞳、常に完璧な姿勢、成績はもちろん学年一位。中学に上がってからずっとこの調子で振る舞ってきたから、今更キャラを崩す気もない。
もっとも、家でのあの体たらくを彼らが見たらどう思うだろうか。エプロン姿で兄に小言を言い、探偵気取りでチョコの包み紙一つから状況証拠を積み上げる私を。想像するだけで少し笑いそうになる。
一限目は数学。担当の先生が問題を解説する間、私はノートの端に無意識に「お兄ちゃんメモ」を書き足していた。
『十月・チョコの包み紙(二人組):仮説③に格上げ(進展の兆候あり)』
我ながら暇なことをしている自覚はある。だが、これも立派な情報収集だ。刑事だってメモを取る。私だって似たようなものだと思う。
休み時間、さくらがノートを覗き込んできた。
「由紀ちゃん、それ何のメモ?」
「な、なんでもない!」
慌てて手で隠す。危なかった。こんなもの見られたら、さすがに変な妹だと思われる。いや、もう手遅れかもしれないけれど。
*
昼休み、私は購買でパンを買ってから、渡り廊下の窓際で一人、外の景色を眺めていた。ここからは、ちょうど高等部の校舎の一部が見える。
――お兄ちゃん、今頃ちゃんと友達と昼ごはん食べてるかな。
中学一年の頃までは、正直、お兄ちゃんのことがずっと心配だった。友達もろくにいなくて、休み時間はいつも一人でスマホをいじっている姿ばかり想像していた。だけど高校に入ってから、様子が変わった。石井くんや中村くん、桜井くんの話をするようになったし、新聞部にも入った。何より、神楽坂さんの話をする時のお兄ちゃんの顔が、以前とは全然違う。
あの頃の傷、完全に消えたわけじゃないと思う。あの人はきっと、自分でもまだ気づいていない部分で、誰かを信じることに臆病なままだ。だからこそ、少しずつでも変わっていく兄の姿を見ると、こっちまで嬉しくなる。
「由紀さん、こんなところで一人?」
声をかけられて振り返ると、そこには生徒会の先輩、柏木先輩が立っていた。中等部の生徒会でも一目置かれている、いわゆる優等生タイプの人だ。
「柏木先輩、お疲れ様です」
「今度の生徒会選挙、由紀さんも副会長候補に推薦されてるって知ってた?」
「初耳です」
勝手に話が進んでいることに驚きつつも、正直悪い気はしない。こういう「勝手に持ち上げられる」感覚、どこかで最近も見た気がする。……ああ、神楽坂さんのミスコンと同じ構図だ。似た者同士なのかもしれない、あの人と私。
「まあ、まだ決定じゃないから、気が向いたら考えといて」
「はい、検討します」
柏木先輩が去っていくのを見送りながら、私はふと思う。お兄ちゃんはこういう「勝手に周りが期待してくる」プレッシャーに、多分一生馴染めないタイプだ。それでいいと思う。誰かが無理に変わる必要はない。ただ、隣にいる人が少しでも支えになれたらいいなと思うだけだ。
*
放課後、部活には入っていない私は、まっすぐ家に帰る。図書館で少し勉強してから帰ることもあるけれど、今日は特に用もない。
家に着くと、思ったより早くお兄ちゃんが帰ってきていた。珍しい。
「あれ、お兄ちゃん早いね。新聞部は?」
「今日は先輩が用事で休みだったから、部活自体なしだった」
「ふーん」
言いながら、私はさりげなく兄の様子を観察する。鞄の持ち方、靴の脱ぎ方、心なしか軽い足取り。何かいいことがあった時の歩き方だ。
「なんかあった?」
「別に、何も」
「嘘。声のトーン高い」
「……お前、たまに探偵かなんかかと思う時があるよ」
図星をつかれた時の兄の反応は、いつも大体同じだ。少し目を逸らして、頭をかく。今日もその通りだった。
「まあ、教えたくないなら別にいいけど」
そう言いつつも、こういう時は放っておくのが一番だと知っている。無理に聞き出そうとすると、貝みたいに口を閉ざすタイプだから。時間が経てば、大抵向こうから漏らしてくる。
夕方、台所で夕飯の支度をしていると、玄関が開く音がした。
「ただいまー」
母さんだ。今日は珍しく定時に帰ってきたらしい。
「おかえりお母さん。早いね」
「今日は商談がなかったからね。由紀、夕飯何?」
「肉じゃがと、あとお兄ちゃんのリクエストで卵焼き」
「気が利くわねぇ、うちの娘は」
母さんはコートを脱ぎながらリビングのソファに腰を下ろす。部長という肩書きの割に、家ではとことん力の抜けた人だ。この緩さがあるから、我が家はなんとか回っているのかもしれない。
夕食の席、三人で食卓を囲む。
「そういえば洸夜、最近帰り遅くない日多いけど、新聞部そんな忙しいの?」
「まあ、色々あって」
「色々って?」
「言わなくても」
母さんの追及を軽くいなすお兄ちゃん。だが私は知っている。文化祭の実行委員をやったこと、神楽坂さんと二人で回ったこと、その後もちょくちょく連絡を取り合っていること。母さんに全部話すつもりはないけれど、私だけはちゃんと見ている。
「まあ、洸夜が楽しそうならそれでいいけど」
母さんはあっさりそう言って、味噌汁をすする。この緩さ、時々羨ましくなる。私はどうしても、お兄ちゃんのことになると力が入ってしまう。
「由紀は? 学校どう」
「普通。あ、生徒会の副会長に推薦されそうって話があった」
「へえ、すごいじゃない」
「まだ決まってないけどね」
「由紀ならなれるでしょ、なんてったって完璧超人なんだから」
お兄ちゃんがからかうように言う。ムッとしたが、悔しいことに悪い気はしなかった。
「お兄ちゃんも見習ったら?」
「俺には荷が重い」
「最初から諦めてどうするのよ」
いつも通りの、なんてことのない食卓の会話。だけど、こういう時間が私は結構好きだ。お父さんがいない分、母さんとお兄ちゃんと私、三人でどうにか家族の形を保ってきた。誰か一人が欠けても、多分うまく回らない。だからこそ、お兄ちゃんの変化には人一倍敏感でいたいと思う。
*
その夜、自室に戻った私は、ベッドに寝転がりながらノートを開いた。中身は誰にも見せられない、兄の生態観察記録――なんて呼ぶと大げさだけど、要するにただのメモ帳だ。
『十一月某日:帰宅時の足取り軽い。声のトーン高め。理由不明だが、おそらく神楽坂さん関連。要継続観察』
我ながら暇だと思う。だけど、これは単なる暇つぶしじゃない。
いつかまた、お兄ちゃんが誰かに傷つけられそうになった時、今度こそ私が真っ先に気づいてあげたい。中学のあの日、何もできずに見ていることしかできなかった自分への、ちょっとした償いなのかもしれない。
もっとも、今のところは杞憂に終わりそうな気配が濃厚だけれど。
スマホが小さく震えた。画面を見ると、神楽坂さんからのメッセージだった。夏休みにお兄ちゃん経由で交換した連絡先は、いつの間にか私個人のものとしても定着している。
『由紀さん、今度の休みお茶でもどう?』
思わず口元が緩む。
『いいですね、行きましょう』
そう返信しながら、私はふと思う。お兄ちゃんの観察も大事だけど、こうして自分自身の交友関係が広がっていくのも、悪くない。
窓の外では、すっかり秋めいた夜風がカーテンを揺らしていた。明日もまた、いつも通りの一日が始まる。お兄ちゃんの様子を観察しながら、私は私なりの日常を積み重ねていくのだろう。
それが、私にとっての「普通」の形なのだから。




