ep.17 幼馴染の特等席
文化祭最終日、朝から浮かれて遅刻しかけた女、そう、私だ。
「有栖ー、はやくー! 二年八組のやつ、午前中で列できてるらしいよ!」
昇降口で待っていた麻衣が、私の腕を引っ張るようにして急かしてくる。隣ではひなのがスマホの画面を見せながら、うんうんと頷いていた。
「見て見て、これ。『過激な体験?!The Beauties of the Jade River』って書いてある。なにこれ、めっちゃ気になるんだけど」
「あー、それね……」
私は思わず苦笑いを浮かべた。洸夜がぼやいていたのを思い出す。「地獄だった」「二度と行かない」「石井が泣いた」。断片的にしか聞いていないが、なんとなく察しはつく。
「有栖、なんか知ってるの?」
「ううん、なんにも」
知らないふりをしておいた方が面白そうだったから、私は素知らぬ顔でそう答えた。麻衣とひなのは「怪しい〜」と笑いながらも、それ以上追及してこない。この二人は詮索よりノリを優先するタイプだから、一緒にいて楽だ。
最終日の校内は、初日以上の熱気に包まれていた。廊下を行き交う人の波、あちこちから聞こえる呼び込みの声、焼きそばと綿菓子の匂いが混じった独特の空気。私はその中を、友達と一緒に流されるように歩いていく。
――ふと、渡り廊下の向こうに、見慣れた背中が見えた気がした。
黒髪、猫背気味の姿勢、どこか気だるげな歩き方。間違いない、洸夜だ。隣には、水色の髪をした澪ちゃんの姿もある。二人は何やら楽しそうに話しながら、人混みの中をゆっくりと歩いていた。
私の口元が、勝手にゆるむ。
上手くやってんじゃん。
声には出さず、心の中でだけそう呟いた。
良かった、洸夜。ちゃんと誘えたんだ。あの不器用な男が、自分から誰かを誘うなんて、正直、去年までの私だったら考えもしなかった。
そう思う自分の胸の奥に、ほんの小さな、針で刺したくらいの違和感があることに、私は気づかないふりをした。いつものことだ。慣れている。
「有栖、なにニヤニヤしてんの」
「べつに、なんでもない」
「絶対なんかあるでしょ、その顔」
麻衣に肘でつつかれて、私は慌てて表情を戻す。いけない、顔に出やすいのは昔からの悪い癖だ。
「それより、二年八組行くんでしょ? 早く並ばないと」
私は強引に話題を変えて、二人を引っ張るようにして歩き出した。
――正直、あの店には近づきたくなかった。洸夜たちが被害に遭った現場をわざわざ見に行くなんて、悪趣味にも程がある。だけど友達の勢いに逆らえず、気づけば私は『過激な体験♡!?The Beauties of the Jade River』の入り口前に立たされていた。
「いらっしゃいませぇー!」
ドスの効いた低い声に、麻衣とひなのが同時に固まる。
現れたのは、噂に違わぬ巨漢の"美女"だった。金髪縦ロールのウィッグ、ミチミチと悲鳴を上げるピンクのドレス、餃子のようなカリフラワー耳。ああ、これが洸夜の言っていた「地獄」の正体か。想像以上だ。
「あら、可愛い子が三人も! ウチのお客さんに、また可愛いのが増えるわねぇ♡」
「ちょ、有栖、なにこれ……!」
麻衣が悲鳴混じりに私の腕にしがみついてくる。私はといえば、笑いを堪えるので精一杯だった。これは確かに、石井が泣くのも頷ける。
結局、私たちは三十分の「地獄」を体験し、青ざめた顔で校舎に戻ってきた。麻衣とひなのは「もう無理」「筋肉のトラウマできた」とぐったりしていたが、私は内心、ちょっとだけ愉快な気分になっていた。
――洸夜も、こんな顔してたのかな。
想像すると、なんだかおかしくて、また笑いがこみ上げてくる。
友達が自販機に飲み物を買いに行っている間、私は一人、廊下の窓辺に立っていた。窓の外には、賑わう校庭と、それを見下ろす青い空が広がっている。
――なんで私、あんなに一生懸命、洸夜の背中を押してるんだろう。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
合宿の夜、星空の下で「洸夜と神楽坂さんのこと、応援してるよ」って言った時のこと。あの時の自分の声を、今でもはっきり覚えている。すごく穏やかで、すごく優しい声だった気がする。まるで、それが自分の本当の気持ちであるかのように。
実際、嘘じゃない。応援してる。それは本当だ。
だけど――。
あの日、星を見上げながら、私の胸の中には、言葉にできない何かがずっと燻っていた。今もまだ、たまにこうやって顔を出す。
別に、洸夜の彼女になりたいとか、そういうことじゃない。多分。……多分、そうだと思う。
だって、友達のままでいる方が、絶対に楽なのだ。今みたいに、遠慮なくからかえるし、部屋にも勝手に上がり込めるし、隣にだって好きに座れる。恋人になんてなったら、こんな気楽な距離感、きっと保てなくなる。変に意識して、今みたいに軽口も叩けなくなって、下手したらこの関係そのものが壊れてしまうかもしれない。
それなら、今のままでいい。友達のポジションの方が、私にとってはずっとやりやすい。
――そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
でも、さっき廊下の向こうで澪ちゃんと笑い合っていた洸夜の顔を見た瞬間、胸の奥のあの針が、いつもより少しだけ深く刺さった気がしたのは、一体どういうわけなんだろう。
「有栖、なに一人でぼーっとしてんの」
麻衣の声にはっとして、私は慌てて笑顔を作った。
「なんでもない。それより、次どこ行く?」
「あ、そういえば有栖のクラス、まだちゃんと見てないんだよね。行こうよ」
「うち? まあ、いいけど」
友達に流されるまま、私は一年二組の教室へと足を向けた。
喫茶店モードの教室は、最終日とあってか一番の盛況ぶりだった。カウンターの中では中村がぎこちない手つきでコーヒーを淹れ、石井が接客をしながら「衛生的な接客を心がけております」とか意味不明なことを言っている。桜井は黙々と皿洗いをこなし、ホールでは澪ちゃんがてきぱきと注文を捌いていた。その様子は、実行委員長として指示を出していた時と同じくらい、堂々としている。
「あ、有栖じゃん」
洸夜が私に気づいて片手を上げる。相変わらずどこか気だるげな雰囲気だが、その顔には、以前よりずっと自然な余裕が滲んでいる気がした。
「調子どう、洸夜」
「見ての通り、大盛況で目が回りそうだ」
「頑張れ、実行委員長の右腕」
「言い方」
軽口を叩き合いながら、私はカウンター越しに澪ちゃんと目が合った。彼女は小さく会釈をしてくれる。以前よりずっと自然な笑顔だった。ああ、いい感じなんだな、この二人。改めてそう思う。
「琴吹さんも座っていく? 席、ちょうど空いたところよ」
「んー、今日は友達といるから、また今度で」
そう言って、私は友達のところへ戻った。カウンター越しに見えた澪ちゃんと洸夜の何気ないやり取りが、なぜかいつまでも頭の片隅に残っていた。
――やっぱり、これでいいんだ。
私は誰にともなく、そう自分に言い聞かせた。
午後三時。校内放送が、閉会のアナウンスを告げる。
「文化祭二日目の全日程を終了します。生徒の皆さんは速やかに各教室に戻り、片付けを行ってください」
その瞬間、校内のあちこちから「あーもう終わりかー」というため息と、達成感の入り混じったどよめきが上がった。二日間、あんなに騒がしかった校舎が、少しずつ静けさを取り戻していく。
「じゃ、私もそろそろ行くね。1片付け手伝いに」
「え、有栖って実行委員じゃないじゃん」
「いいの、友達の顔覗きに行くだけだから」
麻衣とひなのに手を振って別れ、私は再び一年二組の教室へと向かった。
教室では、既に片付けが始まっていた。喫茶店の看板が外され、テーブルクロスが畳まれ、暗幕が取り外されていく。埃っぽい空気の中、誰もが疲れた顔をしながらも、どこか清々しい表情をしていた。
「石井、そっちの木材、危ないから気をつけろよ」
「分かってるって……って、うわ、また指挟んだ」
「学習能力ないのか、お前」
中村の呆れた声に、石井が涙目で指をさすっている。二日間フル稼働した割に、こういうところは全く変わっていない。桜井は黙々と椅子を積み上げ、その安定感は今日も部隊の中で頭一つ抜けていた。
「琴吹さん、来てくれたの?」
澪ちゃんが、汗をかいた額をハンカチで拭いながら声をかけてくる。二日間の疲労が滲んでいるはずなのに、その表情はどこか晴れやかだった。
「うん、暇だったし。手伝うよ」
「助かるわ。じゃあ、あっちの備品、段ボールに詰めるの手伝ってくれる?」
「了解でーす」
私はそのまま作業に加わった。看板を段ボールに詰め、余った装飾の造花を分別し、暗幕を丁寧に畳んでいく。洸夜は椅子の運搬で汗だくになりながら、それでも文句一つ言わずに動き回っていた。
「明月くん、そっちの角材、こっちに寄せておいて」
「了解、実行委員長殿」
「その呼び方、まだ続けるの?」
「意外と気に入ってる」
澪ちゃんが呆れたように苦笑する。その何気ないやり取りが、この二日間で二人の間に積み重なってきたものを、静かに物語っている気がした。
夕日が窓から差し込み、教室全体をオレンジ色に染め上げていく。ほぼ片付けが終わった頃、御手洗先輩が興奮気味に部室から駆けつけてきた。
「みんなお疲れ様ー! 最後に、片付け風景も一枚撮らせてー!」
「先輩、まだ撮るんですか」
「当然でしょ!有終の美ってやつよ!」
新聞部はそれぞれのクラスの集合写真を撮る仕事がある。少ない部員で全クラス回るのはかなりきついが御手洗先輩はやっぱり楽しそうだ。
先輩の号令で、疲れ切った顔のクラスメイトたちが、渋々ながらもカメラの前に集まっていく。石井は指を庇いながら、中村はペンキのついた頬のまま、桜井は椅子を担いだまま、澪ちゃんと洸夜は少し距離を空けて、それでも自然と隣同士に立っていた。
「はい、チーズ!」
シャッター音が、静かになった教室に小さく響く。
私はその輪から少し離れた場所で、片付けの最後の一仕事――余った紙コップをまとめる作業をしながら、その光景を眺めていた。
夕陽を背に、笑い合う洸夜と澪ちゃん。誰に強制されたわけでもなく、当たり前のように隣に立っている二人。
その光景を見つめながら、私の胸の中で、あの小さな針がまた一度、静かに疼いた。
――大丈夫。これでいいんだ。
私はそう自分に言い聞かせて、ゴミ袋の口を結んだ。友達でいることが、私にとって一番気楽で、一番自然な形なんだから。深く考える必要なんてない。
「有栖ちゃーん、そっちの段ボール、運ぶの手伝ってー!」
「はいはーい、今行くー」
私はいつも通りの明るい声で返事をして、軽い足取りで教室の隅へと向かった。
窓の外では、夕暮れの中、最後の来場者たちが名残惜しそうに正門へと吸い込まれていく。二日間の熱狂を終えた校舎が、少しずつ夜の静けさへと戻っていく。
その喧騒の名残の中で、私はいつもの笑顔のまま、誰にも気づかれないように、小さく息を吐いた。




