ep.16 文化祭の亡霊
約束の時間より二十分も早く待ち合わせ場所に着いて、手持ち無沙汰にスマホを弄っている男、そう、俺だ。
「……早く来すぎたな」
昇降口前の掲示板の陰、ちょうど人の流れから外れた位置に陣取って、俺は何度目かも分からない時刻確認をする。待ち合わせは昼過ぎ。まだ十五分ある。何をそんなに緊張してるんだ俺は。取材でも実行委員でもない、ただの約束だってのに。
昨日の自分を殴りたい。「俺が、お前と回りたいから誘ってる」なんて、よくもまああんな歯の浮くようなセリフを面と向かって言えたもんだ。思い出すだけで顔が熱くなる。石井にでも聞かれてたら一生いじられるところだった。
周囲を見渡すと、文化祭二日目の校内は相変わらずの賑わいだった。他校の制服を着た来場者や、卒業生らしき私服の大人たちもちらほら混じっている。翡翠川学園は近隣でも評判の学校だ、卒業生が懐かしさに誘われて遊びに来るのも珍しくないんだろう。
――そんなことを考えていた時だった。
視界の端、掲示板の向こうを歩く一団に、俺の目が勝手に吸い寄せられた。
見覚えのない制服を着た女子生徒が三人。その中の一人、淡いピンクブラウンの髪をした小柄な少女が、笑いながら友人と何かを話している。肩にかかるくらいの長さの髪は毛先がふんわりと外側に跳ね、前髪は目元にかかるくらい長く、それでいて不思議とまとまりがある。垂れ気味の目が笑うたびに細くなり、柔らかで優しげな雰囲気を作り出していた。
その顔を見た瞬間、俺の全身から音を立てて血の気が引いた。
――天ヶ瀬メイ。
中等部時代、内部進学せずに他校を受験してどこかへ消えたはずのあいつが、なぜかここにいる。
いや、待て、落ち着け。よく考えたらこの学校の中等部出身なんだから、文化祭に遊びに来ること自体はおかしくない。おかしくないが、俺の心臓には全くおかしい。
俺は反射的に体をひねり、掲示板の陰にさらに深く隠れようとした。母親譲りの気配遮断スキル、今こそ発動する時だ。
「あれ?」
だが遅かった。
柔らかい声が、まっすぐ俺の背中に刺さった。
「洸夜だ! うそ、超久しぶり!」
振り返るしかなかった。逃げても無駄だと悟った獲物のように、俺はゆっくりと体の向きを変える。
メイは友人たちに何か一言告げると、小走りでこちらへ駆け寄ってきた。友人たちは「なになにー、彼氏?」とはやし立てていたが、メイはそれを軽く手で払うようにあしらい、「ちょっと知り合いに会っただけだから、先行ってて」と屈託なく笑って見せた。友人たちが不服そうにしながらも去っていくのを見て、俺の中で嫌な予感がさらに濃くなる。
「わー、変わってないね洸夜。相変わらず地味っていうか、目立たない感じ」
「……久しぶりだな、メイ」
喉の奥から絞り出すように声が出た。声が震えていないか、自分でも不安だった。
「相変わらず冷たいなぁ。もっと懐かしがってくれてもいいのに」
メイはそう言うと、俺の制服の袖をちょんと摘まんだ。距離感の詰め方が、記憶にあるあの頃と何一つ変わっていない。人懐っこくて、優しそうで、そのくせ相手の反応を面白がっているような、あの独特の目つき。
「今、この学校の隣の高校通っててさ。あ、翡翠川の文化祭やるって聞いたから、懐かしくて友達誘って遊びに来ちゃった」
「そうか」
「なにそのそっけない返事」
メイはくすっと笑って、俺の顔を覗き込むように首を傾げた。
「ねぇ、洸夜さ。中学の時のこと、まだ気にしてたりする?」
来た。
心臓が跳ねた。夢の中で見た、あの顔のない化け物の姿がフラッシュバックする。だが目の前にいるメイの顔には、ちゃんと表情がある。柔らかく笑う、あの頃と同じ顔が。
「……別に」
「ふーん、そう言う割には、めっちゃ固まってるけど」
「気のせいだろ」
「あはは、意地張っちゃって。まあ、あの時は私も悪かったなーとは思ってるよ? でもさ、あれって別に、罰ゲームって言っても軽いノリのやつじゃん。洸夜が本気にしすぎたのが、正直びっくりだったっていうか」
――ぐらり、と足元が揺れた気がした。
軽いノリ。本気にしすぎた。まるで悪いのは全部俺の方だったみたいな言い草。あの時、教室中に響いた嘲笑を、俺は今でもはっきり覚えている。「あいつ本気にしてたんだって」「ウケる」「かわいそー」。あれのどこが軽いノリだったっていうんだ。
「……それ、本気で言ってんのか」
声が、思ったより低く出た。自分でも驚くくらい。
「え?」
「軽いノリで人を傷つけて、それを『本気にしすぎた方が悪い』にすり替えるの、随分都合いいなって思っただけだ」
メイの笑みが、一瞬だけ止まった。だがすぐに、困ったように眉を下げる。
「……なにその言い方。そんな怖い顔しないでよ、ただの世間話じゃん」
「世間話で蒸し返す話じゃないだろ、それ」
「うわ、洸夜って昔からそうだよね。ちょっと言われただけですぐそうやってムキになる。空気読んでよ、こういうのは笑って流すとこでしょ」
――出た。
あの時と同じだ。相手が傷ついたら「空気読めない」認定にすり替えて、自分は悪者にならないように立ち回る。あの頃の俺は、これに何も言い返せなかった。ただ黙って、傷を抱えて、恋愛なんてろくなもんじゃないと決めつけて、二年半も人との距離を測りながら生きてきた。
だけど、今は違う。
澪の不器用な優しさも、有栖の騒がしいけど真っ直ぐな軽口も、由紀の過保護な小言も、御手洗先輩の理不尽な無茶振りも、全部が今の俺を作ってきた。あの頃の俺のままじゃいられない。
「悪いけど」
俺は、まっすぐメイの目を見た。
「笑えない冗談だったよ、あれは。謝ってほしいとも思ってない。ただ、あれを『軽いノリ』で片付けられるのは違う。それだけは言っとく」
沈黙が落ちた。
メイは一瞬、意外そうに目を見開いた。あの頃、俺がこんな風に言い返すとは想定していなかったんだろう。だがすぐにまた、困り顔の仮面を被り直す。
「……なんか、変わったね洸夜」
「そうかもな」
「ふーん。じゃあさ」
メイは俺の袖を摘まみ直し、声を一段落として覗き込んできた。優しい声、柔らかい笑顔。
「昔みたいに、また仲良くしようよ。私、洸夜のそういう素っ気ないとこ、実は結構好きだったんだよ?」
夢の中で首筋に吐息がかかった感覚が、一瞬だけよみがえる。
――けれど、不思議なほど、何も揺れなかった。
俺は、摘ままれた袖から、静かに彼女の指を外した。
「それは無理だ」
「え?」
「お前のこと、恨んでるわけじゃない。ただ、もう何も残ってないんだ。あの時の気持ちも、傷も。……全部、きちんと過去になってた」
嘘じゃなかった。口に出して初めて、それが本当だったと気づく。
夢に出るほど引きずっていたはずの顔が、目の前にいても、ただの「中学の同級生」にしか見えない。のっぺらぼうの化け物はどこにもいなかった。そこにいるのは、少し派手になった、ただの女子高生だ。
「……なにそれ。私、もう眼中にないってこと?」
メイの声から、甘さが剥がれ落ちた。
「そうなるな」
「ひど……。だって、私があの時いなかったら、洸夜、今みたいに」
「あの頃のことで、礼は言わない」
俺は遮った。
「でも、お前のせいで人間不信になったとも言わない。そこから拾ってくれたのは、別のやつらだったから」
有栖の顔が浮かぶ。由紀の、澪の顔も。
メイは何か言い返そうとして、唇を開き、そして閉じた。反論の材料が見つからないのだと、表情で分かった。空気を読ませて黙らせるという彼女の常套手段は、俺が「もう読まない」と決めた時点で、効力を失っていた。
その時――。
「……明月くん?」
澪の声が、背後から聞こえた。
振り返ると、少し離れた場所に立った澪が、俺とメイを交互に見つめていた。戸惑いと、それを隠そうとする作り笑い。
「あ、ごめん。待たせた……」
「ううん、時間通りよ。それより……」
澪の視線が、メイへと向く。メイは反射的に、人懐っこい笑みを作ろうとした。
「あ、もしかして彼女?」
「違う」
即答してから、少しだけ迷って、続けた。
「でも、俺が今、一番大事にしたい人だ」
自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。澪が息を呑み、メイの笑顔が凍りつく。
メイは澪を、頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするように見た。
「へえ、可愛い子じゃん。洸夜にしては、意外」
最後の悪あがきだった。棘のある一言。だが澪は、一瞬だけ表情を強張らせたあと、いつもの完璧な微笑みではなく、凛とした素の声で答えた。
「ええ。私も、そう思います。明月くんは、私にはもったいないくらいの人ですから」
「……っ」
「それと、天ヶ瀬さん」
澪は一歩だけ前に出た。
「彼が『もう終わったこと』と言うなら、それが全てです。……お話の続きは、必要ありませんね」
声は静かで、丁寧で、そして一切の隙がなかった。令嬢として鍛えられた「相手を黙らせる所作」を、澪は初めて俺のために使った。
メイは視線を泳がせ、俺を見て、澪を見て、そして、ふっと肩の力を抜いた。
「……あーあ。なんか、つまんないの」
負け惜しみのような、それでいて、どこか憑き物が落ちたような声だった。
「洸夜、ほんとに変わったんだね」
「お前もそうなれよ。人の反応を面白がるの、そろそろやめた方がいい」
「……説教?」
「忠告だ」
メイは小さく鼻で笑って、友人たちの声が響く方へ、くるりと背を向けた。
「じゃあね。もう連絡しないから、安心して」
それが、彼女の最後の言葉だった。
去っていく背中は、あの頃より、ずっと小さく見えた。振り返ることもなく、人混みの中に溶けていく。
俺は、息を長く吐いた。
肩の力が抜けて、足の先まで温かいものが戻ってくる。二年半、胸の奥に居座っていた何かが、音もなく消えていった気がした。
「……明月くん」
澪が、静かに口を開いた。
「大丈夫?」
「あぁ。大丈夫だ」
今度は、本心からそう言えた。
「聞かないのか、何があったか」
「無理に聞くつもりはないわ。……でも、いつか話したくなったら、聞かせて」
「そうだな。……そのうち、ちゃんと話す」
夢のこと、嘘告のこと、恋愛が怖かったこと。全部、澪になら話せる気がした。
「それと、さっきの『一番大事にしたい人』ってやつ」
「……っ!」
澪の耳が、一瞬で真っ赤になった。
「あれは、その、勢いで」
「勢いで言うことじゃないでしょう!」
「……嘘じゃないけどな」
「~~~っ!」
澪は顔を逸らし、マフラーなど巻いていないのに首元を押さえて、慌てて歩き出した。
「ほ、ほら、行くわよ! ルートは私が決めるんだから!」
「どこから回る?」
「……人が少ないところから!」
その後ろ姿を追いかけながら、俺は思う。
過去の亡霊は、もういない。これからは、「傷つくのが怖いから近づかない」じゃなく、「傷ついても隣にいたい」と思える相手を、自分で選んでいくんだ。
澪はそう言うと、校舎の奥、比較的静かな特別教室棟の方角を指差した。賢明な判断だ。表舞台に出れば、間違いなくあの神楽坂信仰教――もとい石井たちに見つかる。
実際、その予感は的中していた。
「おい見ろ、あれ神楽坂さんじゃね!?」
渡り廊下の向こうから、聞き覚えのある声が響いた。俺は反射的に澪の腕を掴み、近くの空き教室の陰に引っ張り込む。
「わっ……」
「静かにしてろ、石井だ」
「え、なんでそんなに必死に隠れる必要が」
「あいつに見つかったら最後、俺たちの休日は終わる。信じろ」
澪は少し戸惑いながらも、俺の言葉に従って身を屈めてくれた。教室の陰から廊下を覗くと、石井を先頭に、中村、桜井の三人が「神楽坂さんどこだー」ときょろきょろしながら歩いているのが見えた。相変わらず息の合った捜索隊だ。
一団が通り過ぎるのを待って、俺たちはそっと廊下へ出る。
「……なんか、スパイ映画みたいね」
澪がくすりと笑いながら言った。さっきまでの重い空気が、少しだけ和らいでいる。
「悪いか。俺たちの平和のためだ」
「悪くないわ。むしろ、ちょっと楽しい」
その一言に、俺は思わず澪の顔を見た。悪戯っぽく笑うその表情は、教室で見せる完璧な優等生の顔とも、放課後に見せる素の顔とも違う、また新しい一面だった。
それから俺たちは、なるべく人混みを避けながら文化祭を巡った。三年生のクラスがやっているプラネタリウム企画に入り、真っ暗な教室の中で星空の映像を眺めながら、澪が小声で「明月くん、さっきの人のこと」と切り出しかけて、結局最後まで言わなかったこと。廊下で買ったクレープを分け合って、澪が生クリームを口の端につけたまま気づかず喋り続けていたこと。射的のコーナーで澪が意外な負けず嫌いを発揮して、店番の生徒相手にムキになって景品を取り合ったこと。
「もう一回、もう一回だけ!」
「お前、さっきから同じこと五回目だぞ」
「今度こそ当てるから見てなさい」
結局、澪が獲得したのは目当てのぬいぐるみではなく、なぜか場違いな駄菓子の詰め合わせだった。悔しそうにそれを抱えながらも、口元は隠しきれないくらい緩んでいる。
「……これはこれで、悪くないわね」
「お前、そういうとこ変わってるよな。高級な物より、こういうののほうが嬉しそうだ」
「うるさいわね。ポテチと同じ理屈よ」
澪はそう言いながら、詰め合わせの中の小さなラムネ菓子を一粒、俺の手のひらに乗せた。
「はい、お裾分け」
「サンキュ」
何気ないやり取り。だけど、さっきまでメイに揺さぶられていた胸の奥が、いつの間にかすっかり凪いでいることに、俺は今更ながら気づいた。
過去の亡霊は、まだ完全に消えたわけじゃないかもしれない。だけど今この瞬間、隣で笑っている澪の存在が、それをどうでもいいことに変えてくれている気がした。
夕方に近づく校舎の窓から差し込む光が、廊下を橙色に染めていく。
「次、どこ行く?」
俺が聞くと、澪は少し考えるように顎に手を当てたあと、悪戯っぽく笑ってみせた。
「決まってるでしょう。二年八組」
「……は?」
「さっき琴吹さんから聞いたのよ。すごい出し物やってるって」
「絶対やめとけ、あれは」
俺の全力の忠告も虚しく、澪はすでに歩き出していた。
夢の中のあの教室は、もう二度と見ない気がした。
――こうして、俺の文化祭二日目は、過去と決着をつけたまま、騒がしさを増していくのだった。




