ep.14 文化祭までのカウントダウン
気づけば毎朝、目覚まし時計より先にシフト表のことを考えるようになってしまった男、そう、俺だ。
十月に入り、実行委員に就任してから早くも一週間が経過した。教室の黒板の隅には、赤いマジックで大きく『文化祭まで、あと十日』と書かれたカウントダウンボードが鎮座している。書いたのはもちろん澪だ。
朝のホームルーム、担任が出席を取り終えるとすぐに教壇の前に立ったのは澪だった。手には、几帳面な文字でびっしり書き込まれたクリップボード。
「おはようございます。今日の作業予定を発表します」
いつもの澄ました声。だが、その響きにはクラス全体を統率する芯の強さが滲んでいる。
「まず内装班は午前中に木材の搬入。放課後は喫茶店側のテーブルクロスの採寸と、お化け屋敷側の暗幕の取り付けを並行して進めます。装飾班は看板の下書きを今日中に完成させて。備品班は購買と美術室の在庫確認、余っている絵の具の色を一覧にして提出して」
淀みない指示に、教室が一瞬しんと静まり返る。誰も口を挟む隙がない。
「あと、明月くん」
「お、おう」
「内装班のリーダー、今日もお願いね。重いものは無理せず声かけて」
「了解」
たったそれだけのやり取りなのに、周りの女子から小さくどよめきが起こる。(「今の、なんかいい感じじゃない?」「呼び方、明月くんのままなんだ」)聞こえてるぞそれ。
澪は表情ひとつ変えず、次の議題へと話を進めていく。完璧な司令塔だ。学級委員長ですらこんなに堂々とはしていない気がする。
――そして放課後。理想と現実は、いつも大体ズレる。
「よし、じゃあこの角材、まっすぐ切ればいいんだよな」
のこぎりを構えた石井が、やけに自信満々な顔でそう宣言した。俺は釘の袋を数えながら適当に返事をする。
「まぁ好きにしろ」
「見てろよ明月、俺のプロ意識ってやつを」
――五分後。
「あっ……曲がった」
「言わんこっちゃない」
斜めに切れた角材を手に呆然とする石井の隣で、中村が黙々と別の木材にペンキを塗っていた。かと思えば、なぜか木材そっちのけで自分の腕にまで白い線を描き始めている。
「中村、お前何してんだ」
「……集中力が切れると、こうなる」
「切れる前提で作業すんな」
俺友達にする相手ミスったかな。こいつらまともじゃない。
桜井は二人の惨状を横目に見ながら、涼しい顔で寸法通りに木材を組み上げていた。三人の中で唯一まともに戦力になっている。
「桜井なかなかやるなぁ」
「役立たずとはまさに石井のことだな」
名言みたいな顔で言うなよ、桜井。
「あ、そうだ明月、お前にこれ渡さないと」
石井が手をばたつかせてポケットに手を突っ込む。ポケットから取り出された紙には『あなたも神楽坂信仰教に!』と水色を中心にグラデーションされた文字がデカデカと書かれており、背景にはやけに綺麗な湖の写真がたくさん貼られてある。妙に手が込んだポスターだ。
「……なにこれ」
「なにって、神楽坂信仰教のポスターだが?」
「当たり前のように意味不明な事を言うのはやめてくれ」
「まぁそう言わず、受け取るだけでも良いから」
石井は強引に俺のポケットへ気味の悪いポスターを捩じ込む。
いやマジでやめてくれ。
しばらくすると、教室の入り口から澪が顔を出した。手には巻き尺と、真剣な表情。
「進捗どう?」
「まぁまぁ順調だ。石井の木材以外は」
「なによ、助けてあげれば良いじゃない」
澪はくすりと笑ってから、俺の隣にしゃがみ込み、組みかけの骨組みを覗き込む。
「ここ、あと五センチ低くしないと、暗幕がうまく垂れないわ」
「マジか」
「マジよ。図面、ちゃんと確認した?」
「した……つもりだった」
澪はため息をつきつつも、俺から巻き尺を受け取って手早く測り直してくれる。てきぱきとした所作は、教室でリーダーシップを発揮している時のそれと変わらない。だが石井や中村がいる前だからか、心なしか口調はいつもより余所行きだった。
「では、この寸法で明月くんの方で作り直しをお願いできる?」
「了解しました、実行委員長殿」
「ふふ、その呼び方、意外と悪くないわね」
そのやり取りを離れたところから見ていた石井が、俺の肩に手を置いて神妙な顔で頷いてくる。
「明月、お前ほんとにたいした奴だよ」
「なんだよ急に」
「神楽坂様に信頼されてるって、それだけでこの世の勝ち組だろ」
「勝ち組の基準おかしくないか」
石井が胸ぐらを掴んできて熱弁してくるのも慣れたもので、俺はもう驚きもしなくなっていた。青春、とはこういう理不尽の連続を指すのかもしれない。
――一方その頃。新聞部の部室は、いつも以上の混沌に包まれていた。
「みんな聞いてー! 今年の文化祭特集号、目標発行部数、去年の三倍よ!」
御手洗先輩がホワイトボードに大きく『完全密着!文化祭前線レポート』と書きなぐる。文字が斜めっているのは本人のテンションの高さゆえだろう。
「先輩、三倍って現実的な数字ですか」
「夢は大きく持つものよ明月くん」
「はぐらかされた」
有栖はパイプ椅子に座ったまま、配られた取材スケジュール表をぱらぱらとめくっている。
「先輩、これ私と洸夜、毎日どっかしらの教室に取材に行く感じですか」
「そうよ! 出し物の様子、準備の裏側、生徒会の企画……ネタは尽きないわ!」
「先輩が全部私たちに投げてるだけじゃ」
「聞こえないなぁ」
都合の悪い部分は徹底的に聞こえないふりをする先輩を横目に、俺はスケジュール表を確認する。取材対象のリストには、他クラスの出し物や部活の企画とともに、見慣れない一行があった。
――『ミス翡翠川コンテスト・候補者インタビュー(体育館ステージ企画)』
「先輩、これ何ですか」
「ああ、それね。毎年恒例、生徒会主催の人気投票企画よ。今年はうちの新聞部も密着取材することになったの」
「候補者って誰なんです」
「まだ正式発表前だから詳しくは言えないけど……」
先輩がにやりと意味ありげな笑みを浮かべたところで、有栖が横からひょいと口を挟んできた。
「あー、それ私も小耳に挟んだよ。生徒会の子が言ってたんだけど」
「なんだよ」
「一年の候補、神楽坂さんらしいよ」
一瞬、空気が止まった気がした。
「……は?」
「知らなかった? もう推薦名簿に名前載ってるって」
澪がミスコンに出る。文字にすると単純な情報のはずなのに、頭の中で処理が追いつかない。あいつ、そんなこと一言も言ってなかったぞ。
「まぁ本人は嫌がってるって話も聞くけどね。周りが勝手に推薦しちゃったパターンっぽい」
「へー……」
俺の反応が妙だったのか、有栖がにやにやしながら顔を覗き込んでくる。
「なに、その微妙な顔」
「別に。ただの感想だ」
「ふーん」
それ以上追及されなかったのは幸いだったが、頭の片隅にその一言がずっと引っかかったまま、俺はその日の取材業務をこなす羽目になった。
――夜、自室のベッドに寝転がりながらスマホを開くと、澪からのメッセージが届いていた。
『内装、進み具合どう?』
『さっき五センチ短くして組み直した。多分明日には形になる』
『さすがね。……お疲れ様』
『そっちこそ、シフト表作りとか大変だろ』
『慣れてるから平気よ』
簡潔なやり取りだったが、文面の端々に疲れが滲んでいるような気がして、俺はしばらくスマホの画面を見つめていた。
――その頃、澪の自室。
「姉さん、またその顔してる」
ノックもそこそこに部屋に入ってきた葵が、ベッドに座ってスマホを見つめる澪をじっと観察していた。
「な、なによ急に」
「文化祭の話でしょ、それ」
「そうだけど、それが何」
葵は勝手にベッドの端に腰を下ろすと、画面を覗き込んでくる。
「へぇ、まだやり取りしてるんだ」
「し、してるわよ。実行委員なんだから当然でしょう」
「その割には返信、めちゃくちゃ早いね」
「うるさい」
澪はスマホを胸に抱えるように隠したが、葵はニヤニヤと笑うだけで特に追及はしてこなかった。かわりに、思い出したように別の話題を持ち出す。
「そういえば姉さん、ミスコン出るんだって?」
「な……、なんでそれを」
「クラスの子から聞いた。もう学校中噂になってるよ」
「勝手に推薦されただけよ! 私は辞退届出そうと思ってるんだから」
珍しく声を荒げる澪に、葵は面白そうに目を細める。
「辞退すればいいのに、姉さんまだ出てないよね、その届」
「そ、それは……色々忙しくて」
「本当に忙しいだけ?」
「なによ、その言い方」
葵はそれ以上は突っ込まず、代わりに肩をすくめて立ち上がった。
「まぁいいけどさ。頑張れば、明月くんも見に来るんじゃない?」
「な……っ、そういう問題じゃないから!」
「反応、面白いなぁ」
からかい混じりに笑いながら部屋を出ていく弟の背中を見送りながら、澪はスマホの画面に視線を戻す。トーク画面には、まだ既読のついたままの自分のメッセージが表示されていた。辞退届の話は、結局、その夜も口にする勇気が出なかった。
――翌日から、準備期間は加速度的に忙しくなっていった。
放課後の教室は連日、木材を切る音と絵の具の匂いに包まれていた。石井は懲りずにのこぎりを握っては微妙に曲げ続け、そのたびに桜井が黙々と修正する。中村はいつの間にか手先の器用さを発揮し始め、暗幕の縫い付けを一手に引き受けていた。
「お前、意外と器用だな」
「昔から、家庭科の成績だけは良かった」
「知らなかった特技だな」
なぜか自信満々な中村を横目に、俺は看板のペンキ塗りに戻る。ふと隣の作業台を見ると、有栖がステンシルシートを使って文字を切り抜いていた。
「有栖、そっちどう」
「順調順調。……ねぇ洸夜、中村くんのことなんだけど」
「ん?」
「合宿の後から、なんか変じゃない?」
「変って言うか……まぁ、色々あったんだろ」
「そっか」
有栖はそれ以上聞いてこなかったが、視線がちらりと中村の方へ向けられているのを俺は見逃さなかった。二人の間にある空気が、以前とは少しだけ違って感じられる。触れたら藪蛇になりそうなので、俺は黙って作業に集中することにした。
昼休みには、御手洗先輩に急かされて号外の写真撮影に走り回り、放課後には内装作業、夜はLINEでのやり取り――そんな日々が続くうちに、カウントダウンボードの数字は着実に減っていった。
『文化祭まで、あと三日』
その日の放課後、教室にはほぼ完成した喫茶店とお化け屋敷の内装が並んでいた。木製のカウンター、手作りの看板、暗幕で仕切られた廊下。誰もが疲れた顔をしながらも、どこか達成感に満ちた表情をしている。
「うわ、思ったよりちゃんとしてる……」
石井が完成した看板を見上げて感嘆の声を漏らす。斜めに切った木材は、桜井の手によって跡形もなく修正されていた。
「石井の功績はゼロだけどな」
「細かいこと言うなよ」
教壇の前に立った澪が、最後の確認事項をクリップボードに目を通しながら読み上げる。
「明日は最終チェックの日。シフト表、メニュー表、装飾、すべて漏れがないか確認します。何か問題があれば今日中に報告して」
いつも通りの淡々とした指示。だが、言い終えたあと、澪は少しだけ表情を緩めて教室を見渡した。
「……皆、お疲れ様。ここまで、よく頑張ってくれたと思うわ」
その一言に、教室中からぱらぱらと拍手が起こる。柄にもなく照れくさそうに視線を逸らす澪を見て、俺は思わず口元が緩んだ。
放課後、片付けを終えて教室を出ようとした時、澪に呼び止められた。
「明月くん、少し話せる?」
「ん、いいけど」
廊下の窓際、夕日が二人の影を長く伸ばしていた。
「その、ミスコンのこと……もう聞いてるわよね」
「まぁ、有栖から」
「あの人、口軽すぎるのよ」
澪は苦笑しながら、窓の外に視線を向けた。
「正直、乗り気じゃないの。柄でもないし、目立つのは慣れてるようで、慣れてないから」
「そうか」
「でも、辞退届も、まだ出せてなくて」
言葉を切った澪の横顔は、いつもの完璧な優等生の顔とも、放課後の素の顔とも違う、迷いを含んだものだった。
「別に、出なくてもいいと思うぞ。無理してやることじゃないだろ」
「……そうよね。分かってるんだけど」
澪はしばらく黙り込んだあと、ふっと小さく笑った。
「まぁ、もう少し考えるわ。ありがとう、聞いてくれて」
「別に、たいしたことはしてない」
「その台詞、あなたよく言うわよね」
夕暮れの廊下に、二人分の笑い声が小さく響いた。
――そして、文化祭前日。
教室には最後の装飾が施され、廊下には他クラスの生徒たちの浮き足立った声が響いていた。新聞部の部室では、御手洗先輩が印刷したばかりの特集号を高々と掲げている。
「完成したわよ、文化祭特集号! 表紙は各クラスの意気込み特集、そして目玉は――」
「ミスコン候補者の事前インタビューですね、知ってます」
「話が早くて助かるわ明月くん」
刷り上がったばかりの紙面には、候補者たちの写真とともに、まだ本人の許可を取っていないコメント欄が空白のまま残されていた。
「先輩、これ神楽坂さんの分、まだ埋まってないですけど」
「そこはこれから頑張って取材するのよ! 明日、本番前に一言もらってきて」
「無茶振りだ……」
有栖が印刷物を整理しながら、隣でくすくすと笑っている。
「まぁ、洸夜になら澪ちゃんも喋ってくれるでしょ」
「気軽に言うなよ」
窓の外はすっかり夕闇に包まれ、校舎のあちこちから最終準備の物音が聞こえてくる。教室に戻ると、澪が最後の一輪の造花を看板に飾り付けているところだった。
「明日から、本番ね」
「あぁ。準備期間、思ったより長かった気がする」
「そう? 私はあっという間だったけど」
澪はそう言って、少しだけ誇らしげに完成した教室を見渡す。喫茶店の内装、暗幕で覆われたお化け屋敷、手作りの看板――どれもこれも、クラス全員で積み上げてきたものだ。
「明日、頑張りましょうね、明月くん」
「あぁ、頑張ろう」
窓の外に見える夕焼けが、教室全体をオレンジ色に染めていく。カウントダウンボードの数字は、ついに『一』を示していた。
――そして、文化祭当日の朝。
校門の前には、他校生や保護者、近隣住民らしき人々の列ができていた。開場を待つざわめきが、朝の澄んだ空気を賑やかに揺らしている。
「うわ、思ったより人来てるな……」
石井が校門の外を見て呟く声が、緊張とワクワクの入り混じったものに聞こえた。
校内放送が開幕を告げ、正門が大きく開かれる。堰を切ったように人波が校舎へと流れ込んでいく光景を、俺は教室の窓から見下ろしていた。
「さぁ、始まるわよ」
隣に立った澪が、いつもの澄ました顔で、それでもどこか楽しげに呟く。
俺の全然普通じゃない文化祭が、こうして幕を開けた。




