ep.12 既読の攻防と、二学期開幕
深夜、スマホの通知一つでここまで動揺する男がいるとするなら、それは間違いなく俺だ。
布団に寝転がりながらアニメの続きを漁っていた時だった。画面の端に、見慣れない通知がひょこりと顔を出す。
『神楽坂澪さんからメッセージが届きました』
一瞬、目を疑った。何度か瞬きをしても、表示は変わらない。
――は?誰?
いや、名前は分かる。分かるが、状況が理解できない。俺は神楽坂とLINEを交換した記憶がない。
恐る恐るアプリを開くと、トーク画面には短い一文だけが表示されていた。
『こんばんは、神楽坂です』
それだけ。それだけなのに、俺は布団の上でスマホを取り落としそうになった。心臓が、ドラムロールでも叩いているみたいにうるさい。
落ち着け。落ち着け俺。なんで交換した記憶もないのに追加されてるんだ。まさか、勝手にIDでも調べられたのか。いやそんなことする理由がない。
念のためプロフィール画面を確認してみる。アイコンは花の写真、一言メッセージは空欄。間違いなく本人だ。偽物とか、乗っ取りとか、そういう可能性を疑った自分がちょっと恥ずかしくなる。
混乱しながらも、俺は必死に記憶を辿った。そういえば、モールで別れる時、由紀が「連絡先交換しときますね」とか言って澪のスマホを覗き込んでいた気がする。……あいつ、まさか俺のQRコードまで勝手に渡したのか。
妹の暴走に頭を抱えつつも、目の前の一文からは目が離せない。
どうしよう。どう返せばいいんだ。「こんばんは」だけ返すのは味気ないし、かといって長文を送るのも変に思われそうだ。
俺はスマホを持ったまま、何度も文字を打っては消した。
「こんばんは、明月です」――堅すぎる。取引先とのメールじゃないんだから。
「おー久しぶり」――馴れ馴れしすぎるだろ、これ。
「LINE交換した記憶ないんだが」――事実だけど角が立つ。
結局、何十回目かの推敲の末、俺はようやくシンプルな一文で送信ボタンを押すことにした。
我ながら、こんなに一文に時間をかけたのは初めてかもしれない。誰かに見られたら鼻で笑われそうな真剣さで、俺はスマホと向き合っていた。
『こんばんは。由紀が勝手に交換したっぽいけど大丈夫だった?』
送った瞬間、猛烈な後悔が押し寄せる。何だこの文面、素っ気なさすぎないか。もっと気の利いた一言があっただろ俺。大丈夫だった?ってなんだよ。
だが今更取り消しもできない。俺は画面を見つめたまま、しばらく硬直していた。
既読、の文字がついたのはほとんど一瞬だった。
――待ってたのか?いや、たまたまだろ。
だが返信が来るまでの数十秒が、やけに長く感じられる。ようやく画面に、新しいメッセージが表示された。
『大丈夫よ。……というか、由紀さんが勝手にやったこと、あなたも把握してなかったの?』
『ついさっき知った』
『なら、お互い様ね』
なんだそのやり取り、ちょっと面白いな。俺は思わず口元が緩むのを感じた。
それから二、三通、他愛のない言葉を交わす。夏休みの宿題の進み具合とか、新聞部のこととか、当たり障りのない話題ばかりだったが、なぜか終わるのが惜しく感じた。
『そろそろ寝るわ。おやすみ』
『おやすみなさい』
最後の一文を見届けてから、俺はスマホを枕元に置いて天井を見上げた。
なんだこれ。ただの連絡先交換のはずなのに、心臓がまだ落ち着かない。
――いや、これは別に、そういうんじゃないから。友達とのやり取り、そう、ただそれだけだ。
自分に言い聞かせながら、俺はなかなか寝付けない夜を過ごすことになった。
翌朝、目を覚ましてすぐスマホを確認する自分に気づいて、俺は軽く自己嫌悪に陥った。
メッセージは来ていない。当たり前だ、まだ朝の七時だぞ。何を期待してるんだ俺は。
それから数日、俺たちはぽつぽつとやり取りを続けた。特別な内容はなにもない。今日読んだラノベの感想とか、暑さへの愚痴とか、新聞部の御手洗先輩がまたやらかした話とか。それでも、教室で話す時とは少し違う、砕けた言葉遣いの澪を知れるのが、なんだか新鮮だった。
既読がついてから返信が来るまでの時間や、スタンプの選び方、ふとした時に見せる砕けた口調――そういう細かいことが気になり始めている自分に、俺はまだ気づかないふりをしていた。
だが、平穏な日々ばかりではなかった。
ある日の午後、俺は何の気なしに『今日暑すぎて溶けそう』と送った。すぐに既読がついた。だが、それきり返信が来ない。
一分。五分。十分。
最初は気にも留めていなかったが、三十分を過ぎたあたりから、じわじわと不穏な想像が頭をもたげてくる。
――怒らせるようなこと言ったか?いや、天気の話だぞ?変な意味に取られるような要素、どこにもないはずだが。
スマホを何度も確認しては、既読の二文字を睨みつける。用もないのにアプリを開いては閉じる、という無意味な動作を繰り返す自分が、なんだか滑稽だった。ついこの前、澪も似たようなことをしていたんじゃないだろうか、とふと思う。
我慢できなくなった俺は、有栖に助けを求めることにした。
『既読ついたのに返信来ないんだが、これって怒ってるやつか?』
送った直後、猛スピードで既読がついた。
『は?誰に送ったの、それ』
『言えない』
『あ、神楽坂さんね』
『なんでバレた』
こいつの勘の良さは、時々本気で恐ろしい。
『別に普通に忙しいだけでしょ、そんなの。あの人夏休みでも家業関係の用事詰め込まれてるって前に言ってたし』
『そうなのか』
『そんなに気になるなら、聞いてみればいいじゃん』
『いや、それはさすがに重いだろ』
『重くないって。恋する乙女は世話が焼けるなぁ』
最後の一言は華麗にスルーすることにした。触れたら負けな気がする。
結局、澪から返信が来たのは、それから二時間後のことだった。
『ごめんなさい、家の用事で少し立て込んでいて。……溶けないでね』
その一文を見た瞬間、勝手にほっとしている自分に気づいて、俺は思わず脱力した。何をこんなに気を揉んでいたんだ、俺は。
そう分かっていても、次の日からも似たような一喜一憂を繰り返す羽目になったのは、我ながら情けない話だった。
それでも、日々のやり取り自体は、思っていたよりずっと気楽なものだった。
『これ、今期一番おすすめのラブコメ。騙されたと思って一話見て』
俺が適当に送ったアニメのリンクに、まさか本当に食いついてくるとは思わなかった。
『……続き、ある?』
『まさか一話で沼落ちしたのか』
『べ、別に。ただ気になっただけよ』
『二話のリンクも送っとくわ』
その日を境に、澪との会話には自然とアニメの話題が増えていった。感想を送り合うたび、いつもの澄ました口調が崩れて、素直な言葉が漏れてくるのが妙に面白い。教室では絶対に見せない顔だ。
我ながら単純だと思うが、そういうやり取りが、思っていたよりずっと楽しみになっている自分がいた。
――そうこうしているうちに、夏休みは終わりを迎えようとしていた。
八月最後の夜、俺は自室でカレンダーを睨んでいた。明日から二学期。あれだけあった夏休みが、こんなにあっさり終わるなんて理不尽にも程がある。
「お兄ちゃん、明日の準備できてる?」
ノックもそこそこに顔を出したのは由紀だった。
「まだ何も」
「はぁ……相変わらずね。持ち物リスト送ったでしょ、ちゃんと確認しなさいよ」
「あとでやる」
「その『あとで』、絶対来ないやつじゃない」
耳の痛い正論に、俺は言い返す言葉もなく黙り込む。由紀は呆れたようにため息をつきながらも、俺の机の上に置きっぱなしだった教科書を几帳面に揃え直していく。世話焼きすぎるだろ、この妹。
「そういえば、神楽坂さんとはあれから連絡取ってるの?」
不意打ちの質問に、俺は思わず変な声を出しそうになった。
「な、なんでお前がそれ知ってるんだよ」
「知らないわけないでしょ、私がきっかけ作ったんだから」
「勝手に作ったんだろうが」
悪びれる様子もなくにやりと笑う由紀を見て、俺はこの妹の恐ろしさを再確認した。人の交友関係にここまで首を突っ込んでくる中学生がどこにいるんだ。
「まぁ、良かったじゃない。お兄ちゃんが自分から誰かと仲良くなろうとするの、珍しいし」
「別に、そんな大層な話じゃ」
「はいはい、照れなくていいから」
由紀はにやにやとした顔を隠しもせずに俺の顔を覗き込んでくる。こいつにこの手のことでからかわれるのは、地味に精神を削られる。
「てか、由紀。お前、あの日モールで神楽坂さんと何話してたんだよ」
「秘密。女同士のヒミツの話」
「気になるだろそれ」
「気にしなくていいの。お兄ちゃんは、私に任せておけばいいのよ」
自信満々に胸を張る妹に、俺は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。何を企んでいるのか知らないが、少なくとも碌なことじゃない気がする。
「早く寝なさいよ、明日遅刻するよ」
言いたいことだけ言って、由紀はさっさと部屋を出ていった。残された俺は、閉じたままの教科書とカレンダーを交互に眺めながら、小さくため息をつく。
明日からまた、あの騒がしい日常が始まるのか。
悪くないな、と思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。
――そして、始業式の朝。
「おはよう、洸夜」
通学路の途中、聞き慣れた声に呼び止められる。振り返ると、有栖がいつも通りの調子で手を振っていた。
「おう、有栖」
「久しぶりだね、こうやって一緒に登校するの」
「合宿でずっと一緒だっただろ」
「それとこれとは別腹」
意味の分からない理屈だが、こいつに関しては今更ツッコむだけ無駄だ。俺たちは連れ立って、久しぶりの正門を潜る。
夏休み明けの校舎は、どこか空気の匂いが違う気がした。蝉の声は相変わらずうるさいが、廊下を歩く生徒たちの顔には、休みボケと新学期特有の緊張感が入り混じっている。
「そういえば洸夜、なんか顔色いいね」
「そうか?」
「うん。なんか、こう……浮かれてる?」
「気のせいだろ」
俺は誤魔化すように視線を逸らしたが、有栖はニヤニヤと意味ありげにこちらを見つめてくる。この目、絶対何か勘付いている目だ。
「夏休み中、誰かさんと随分楽しそうにメッセージのやり取りしてたみたいじゃん」
「な……、なんでそれを」
「由紀ちゃんから聞いた。お兄ちゃんがスマホ片手にニヤニヤしてるって」
「あいつ何を勝手に流してんだ……」
情報網の出所が判明して、俺は頭を抱えたくなった。この家、家族全員が揃いも揃って口が軽すぎる。
「ふーん。まぁ、いいけどね」
それ以上は追及してこなかったが、その笑みだけが妙に気にかかった。
教室に入ると、夏休み前とほとんど変わらない光景が広がっていた。石井は開口一番「日焼けしたか?」と聞いてきて、中村は妙にそわそわした様子で落ち着きがない。
「明月、お前ちょっと雰囲気変わったな」
「そうか?」
「なんつーか、心なしか丸くなったというか」
「気のせいだろ」
桜井までそんなことを言い出すので、俺は思わず自分の頬を触ってしまった。顔つきなんて変わりようがないだろ。
「それより中村、お前どうした。合宿の後からずっとそんな感じだけど」
「べ、別に何でもない」
「絶対なんかあるだろその反応」
「うるさい、放っておいてくれ」
顔を赤くして目を逸らす中村を見て、俺は合宿最終日の夜のことを思い出した。あの様子だと、結果がどうだったのかは聞かない方が良さそうだ。触れられたくない話題には触れない、それが友情というやつだろう。多分。
「まぁ、そのうち話したくなったら話せよ」
「……お、おう」
俺の気遣いに、中村は少し驚いたような顔をしたあと、照れくさそうに頭を掻いた。石井だけが「俺には隠し事なしだよな?」と一人でうるさく騒いでいる。相変わらず騒がしい面子だ。
「そういえば明月、お前合宿の後もなんか神楽坂さんと仲良さそうだったよな」
「な……、なんの話だ」
「隠すなって、有栖から色々聞いてるんだよ俺は」
「あいつ本当に口軽いな……」
頭を抱える俺を見て、石井は満足げに笑っている。この学校、情報伝達の速さだけは本当にどうにかしてほしい。
自分の席に着くと、既に来ていた澪と目が合った。一瞬、お互いに何とも言えない沈黙が流れる。
「……おはよう、明月くん」
「おう、おはよう」
教室で顔を合わせるのは、モールでの一件以来だ。あれから何通もメッセージのやり取りをしてきたはずなのに、いざ本人を前にすると妙にぎこちない。文字だけの距離感と、実際に喋る距離感は、どうも勝手が違うらしい。
「な、なんか変な感じね。直接話すの、久しぶりな気がして」
「たしかに。画面越しだと、もっと素っ気なかったのにな」
「そ、それはあなたの返信が素っ気なかったからでしょう!」
わかりやすく頬を赤らめて反論してくる澪。だがその声には、いつものような刺々しさはなく、どこか楽しそうな響きが混じっている。
「そういえば、この前の『溶けそう』ってメッセージ、あれ何だったの」
不意打ちの話題に、俺は一瞬言葉に詰まった。まさかあの日のことを蒸し返されるとは思っていなかった。
「い、いや、暑かったから普通に」
「二時間も既読無視されて、それで動揺してたくせに」
「な……お前、有栖から聞いたのか」
澪は答える代わりに、悪戯っぽく口角を上げるだけだった。あの幼馴染、余計なことをべらべら喋りやがって。今度絶対仕返ししてやる。
「べ、別に、動揺なんて」
「ふふ、そういうことにしておいてあげる」
珍しく余裕そうな顔をしている澪に、俺は完全に主導権を握られてしまった気がした。だが、悪い気分ではない。むしろ、こういう軽口の応酬ができる関係になったことが、素直に嬉しかったりもする。
担任が入ってきて、始業式が始まる。長い長い校長の話を右から左に聞き流しながら、俺は隣の席から漂ってくる、夏の匂いが少し残った空気をなんとなく意識していた。
校長の話は、今年も判で押したように「実りある二学期に」で締めくくられた。何回目だろう、その台詞を聞くのは。体育館の後方では、早くも数人が船を漕ぎ始めている。
夏休みが終わって、また騒がしい日常が戻ってくる。テストも、部活も、そしてこの妙にむず痒い距離感も、当分は続きそうだ。
――悪くないな、やっぱり。
そんなことを思いながら、俺は気だるげに机に頬杖をついた。
昼休み、いつものメンバーで学食に向かう途中、スマホが小さく震えた。画面を覗くと、由紀からのメッセージだった。
『お兄ちゃん、神楽坂さんとお昼一緒に食べないの?』
『いや普通に友達と食うけど』
『チャンス逃してるよ、それ』
『余計なお世話だ』
妹の暴走はまだまだ続きそうだった。呆れながらスマホをしまうと、隣を歩いていた石井が横からひょいと画面を覗き込んでくる。
「おい今の誰から。顔がすごい死んでたけど」
「妹だ。ほっとけ」
「妹に何を言われたらそんな顔になるんだよ」
説明する気力もなく、俺は黙って歩調を速めた。学食に着く頃には、話題はいつの間にか文化祭のクラス出し物に移っていて、俺の顔面事情については誰も追及してこなかった。助かる。
放課後、新聞部の部室に顔を出すと、御手洗先輩が待ってましたとばかりに両手を広げて出迎えてきた。
「明月くん、琴吹ちゃん! 二学期も気合入れていくわよ!」
「先輩、開口一番テンション高すぎでしょう」
「当然でしょ! 二学期は文化祭があるんだから! 新聞部の存続、まだまだ油断できないのよ!」
嫌な予感しかしない発言に、俺と有栖は同時に顔を見合わせた。この人が「油断できない」と言う時、大抵、俺たちに理不尽な仕事が降ってくる。
「ちなみに先輩、文化祭で何させる気ですか」
「ふふん、それはまだ秘密。楽しみにしてなさい」
「その顔、絶対ろくなこと考えてないやつだ」
「失礼ね、ちゃんと考えてるわよ。……我が校始まって以来の、超大型企画をね」
両手を広げて力説する御手洗先輩の背後で、有栖が「今年もひどい目に遭いそうだね」と他人事のように呟いている。まったくもって同感だ。
「明月くん、期待しててね! 文化祭特集号は、新聞部の集大成になるんだから!」
「いや、集大成て。まだ入部して半年も経ってないんですけど」
「細かいことはいいの! さぁ、二学期最初の会議、始めるわよー!」
問答無用でホワイトボードにマーカーを走らせ始める先輩を眺めながら、俺は今から胃が痛くなる予感がした。まぁ、それも含めての、俺の全然普通じゃない高校生活なんだろう。
「洸夜、覚悟しときなよ。先輩がこのテンションの時、絶対とんでもない企画持ってくるから」
「知ってる。嫌ってほど知ってる」
「でもまぁ、退屈しなさそうで私は好きだけどね、こういうの」
有栖はそう言って、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。ホワイトボードには、すでに『文化祭特集号・完全密着!』という物々しい文字が躍っている。あの人のことだ、どうせまた誰かが振り回されるネタを見繕ってくるに違いない。
部室の窓から見える校庭では、運動部の生徒たちが二学期最初の練習に汗を流していた。あの中に、澪もいるんだろうか。テニスコートの方角を、ついぼんやりと眺めてしまう自分に気づいて、俺は小さく苦笑した。
夏休みの間に交わした、たわいもないメッセージのやり取り。それが、こんな風に日常の端々で顔を出すようになるとは、正直予想していなかった。
窓の外では、夏の名残を惜しむようにひぐらしが鳴いている。二学期の始まりは、思っていたよりずっと騒がしく、そして――ほんの少しだけ、悪くない気分だった。
その夜、風呂上がりにスマホを開くと、澪から一通のメッセージが届いていた。
『今日、久しぶりに直接話せて、その……ちょっと楽しかったわ』
素っ気ない文面のはずなのに、なぜか頬が緩む。俺はしばらく画面を眺めたあと、短く返信を打った。
『俺も』
たった二文字。それでも、送信ボタンを押す指に、もう迷いはなかった。
二学期は、まだ始まったばかりだ。




