ep.11 押せない「追加」ボタン
たかがボタン一つが、こんなに重いなんて知らなかった女、そう、私だ。
自室のベッドに腰掛けたまま、私はもう三十分近く、スマホの画面と睨めっこをしていた。表示されているのは、由紀さんから数日前に送られてきたメッセージ。
『これ、お兄ちゃんのQRコードです。よかったら仲良くしてあげてください(笑)』
絵文字まで添えて送られてきたそれを、私は既読にしたまま、ずっと放置していた。
友だち追加、というボタンを押すだけ。それだけのことなのに、指先が一向に動いてくれない。
別に、深い意味なんてないのに。ただの連絡先交換。クラスメイトなら誰だってすることだし、由紀さんに勧められたから、義理で追加するだけ。
そう、自分に言い聞かせるほど、なぜか心臓がうるさくなっていく。
思い返せば、あのモールでの一日から、どうも調子が狂っている。妹だと分かった瞬間の、自分でも呆れるくらいの安堵。三人でカフェを回った、あの他愛のない時間。あんなに気を抜いて笑ったのは、久しぶりだった気がする。
普段の私は、こうはいかない。神楽坂の名を背負う以上、休日だって完璧でいなければいけないし、感情を表に出すのははしたないことだと、ずっとそう教え込まれてきた。だからこそ、あの日の自分が、少しだけ怖い。
お父様が聞いたら、きっと呆れるだろう。「くだらないことに時間を使うな」と、いつもの抑揚のない声で言われる姿が容易に想像できて、少しだけ胸が重くなる。神楽坂家の令嬢たるもの、友人関係一つとっても、家の評判に繋がる――物心つく前から、そう叩き込まれてきた。だからこそ、こんな私的で、何の得にもならない一歩に、こんなにも臆病になってしまうのかもしれない。
誰かに背中を押してほしいわけじゃない。ただ、自分で決めて、自分で押したかっただけなのに。
もし追加した後、何を話せばいいんだろう。「こんにちは」だけじゃ素っ気ないし、かといって長文を送るのも重い。第一、向こうから返事が来なかったらどうしよう。
――いえ、そもそも、返事を期待している時点でおかしいでしょう、私。
頭の中で自分に突っ込みを入れながら、私は画面を閉じ、また開く、という無意味な動作を繰り返していた。完璧主義を自負している私が、こんな些細なことでここまで往生際が悪いなんて、我ながら信じられない。
コンコン、とノックの音がした。返事をする前に、扉が勢いよく開く。
「姉さん、なにしてんの。晩ご飯、もう冷めるって」
顔を出したのは、二つ下の弟、葵だった。淡い青みがかった髪を無造作に揺らしながら、遠慮なく部屋の中に踏み込んでくる。
「な、ノックしたらちゃんと返事を待ちなさい」
「待ってたら日が暮れるでしょ。……で、なにその挙動不審な感じ」
葵の視線が、私の手の中のスマホに向く。とっさに画面を伏せて胸に抱え込んだが、もう遅かったらしい。
「べ、別に。なんでもないわよ」
「なんでもない顔じゃないし。姉さん、耳赤いよ」
「し、失礼ね」
図星を突かれ、余計に頬が熱くなるのを感じる。この弟、口だけは達者で、こういう時ばかり妙に鋭い。
「ふーん。まぁいいけどさ」
葵はベッドの端にどかっと腰を下ろし、興味津々といった様子でこちらを覗き込んでくる。近い。
「誰にメッセージ送ろうとしてたわけ? その慎重さ、告白でもする気?」
「し、してないわよそんなの!」
「反応でかっ。図星じゃん」
弟の指摘に、私は言葉を失った。違う、そういうことじゃない。ただの、連絡先の話。それだけなのに。
「本当に違うから。ただの、その、友だち追加の話」
「友だち追加ごときで三十分も画面睨んでる姉さん、控えめに言って怖いんだけど」
うるさい。誰にも見られていないと思っていたのに、まさか弟に観察されていたなんて。
しばらく黙り込む私を見て、葵は何かに気づいたように、にやりと口角を上げた。この笑い方をする時、こいつは大抵ろくなことを考えていない。
「もしかして、例の隣の席の子?」
「な……!」
「前に由紀さんの話してた時、姉さん、明らかに様子おかしかったし」
由紀さんと交流があると、こういう時に情報が筒抜けになるから困る。誰がどこで喋ったのか知らないが、この家、家族間の情報網だけは異様に発達している。
「……仮に、そうだったとして、何か文句ある?」
「べつに。ただ、姉さんがそんな顔するの珍しいなって」
からかうような口調だったが、その目はどこか優しかった。いつも澄まし顔で「家業のために」とか言っている姉が、こんな風にただの女の子みたいに悩んでいるのが、単純に面白いのかもしれない。
それとも――案外、こういう姿を見られて安心しているのかもしれない。家業を継ぐ気のない葵は、代わりに全部を背負おうとする私を、いつも少し心配そうに見ていたから。
「じゃあ、さっさと追加しちゃえば」
「そう簡単に言わないでよ。私にも、色々考えがあるの」
「考えすぎなだけでしょ、それ」
容赦のない正論に、言葉に詰まる。悔しいけれど、否定できない。
「大体さ、姉さんっていつもそう。テストの順位も、家業のことも、全部ひとりで抱え込むくせに、こういう時だけ変にビビるよね」
「べ、別にビビってなんか」
「今、めちゃくちゃ画面睨んでたじゃん」
言い返せない。弟の観察眼だけは、なぜかいつも的確で腹立たしい。
「ていうか、その人ってどんな人なの。姉さんがそこまで気にするって珍しいし」
「……別に、普通の人よ。ちょっと変わってるけど」
「変わってるのに気になるんだ」
「そ、それとこれとは話が別」
自分でも支離滅裂だと分かっている。だけど、うまく説明できる自信もなかった。合宿での川の一件を思い出すと、それだけで顔が熱くなる。あの時、笑わないでと言った私に、彼は「そういう顔の方が好きだけどな」と、なんでもないことのように言ってのけたのだ。あんな不意打ち、卑怯だと思う。
「ほら、貸して」
葵が急に手を伸ばしてきた。
「な、なにする気」
「見るだけ見るだけ」
「や、やめなさい……!」
とっさに引こうとしたが、いつの間にか背が伸びた弟の腕は、私より一枚上手だった。あっという間にスマホを奪われる。
「ちょっと、返しなさいよ!」
「はいはい」
軽く躱しながら、葵は画面を覗き込む。表示されたままの由紀さんのメッセージと、QRコードのスクリーンショット。
「あー、なるほどね。これ追加するかどうかで悩んでたわけだ」
「だ、だから返してって言ってるでしょ!」
ベッドの上で追いかけっこのような格好になりながら、私は必死に手を伸ばす。だが葵は器用に体を反転させ、画面をこちらから遠ざけたまま、指を動かしていた。
「押せないなら、押してあげるよ」
「え……ちょ、待って葵、それは」
「今しかないよ、姉さん」
「そういう問題じゃ……!」
弟の指が、迷いなく画面の上を滑る。私は慌てて手を伸ばしたが、体勢を崩してベッドに手をついた分だけ、あと少し届かなかった。
止める間もなかった。
ピロン、と軽い電子音が部屋に響く。画面には、素っ気ない一言。
『友だちを追加しました』
時間が、一瞬止まった気がした。
「……は?」
「ほら、これで解決」
悪びれる様子もなく、葵はあっさりとスマホを返してくる。私はそれを受け取ったまま、しばらく画面から目を離せなかった。友だちリストの一番上に、見慣れた名前がある。『明月洸夜』。
「な……なに勝手なことしてくれてんのよ!」
「いや、姉さんがいつまで経っても押さないから」
悪気なく、むしろ得意げに言い切る弟に、怒る気力すら削がれていく。頭が真っ白で、何から文句を言えばいいのかもわからない。
「ど、どうしてくれるのよ、これ……」
「別に、友だち追加しただけでしょ。減るもんじゃないし」
弟にとってはそうなのだろう。だが私にとっては、ずっと踏み出せずにいた、ちっぽけだけど大きな一歩だった。それを、こんな形で勝手に済まされてしまうなんて。
「はぁ……」
深いため息をつく私を見て、葵は少し困ったような顔をした後、意外にも優しい声で言った。
「――まぁ、たまにはいいでしょ。姉さんが自分のために何かするの、珍しいし」
その一言に、思わず言葉を失う。いつも茶化してばかりのくせに、こういう時だけ妙に核心を突いてくる。腹立たしいけれど、悔しいくらい図星だった。
「……次からは勝手に人のスマホ触らないで」
「はいはい。今度はちゃんと自分で押しなよ」
軽い調子で流す弟に、私はもう一度睨みを利かせようとしたが、うまく力が入らなかった。怒っているはずなのに、なぜか口元が緩んでしまう。
「ねぇ、葵」
「なに」
「……ありがと。生意気だけど」
「素直に言われると逆に気持ち悪いんだけど」
照れ隠しなのか、葵は露骨に顔を背けながらそう言った。耳が少し赤いのは、夕方の光のせいにしておいてあげることにする。この家、案外、似た者姉弟なのかもしれない。
葵はひらひらと手を振りながら立ち上がる。扉のところで一度振り返り、いつもの飄々とした調子でこう付け加えた。
「あ、あと、ご飯マジで冷めるから早く来て。俺のせいにしないでよね」
「……分かってるわよ」
軽い足取りで部屋を出ていく弟の背中を見送りながら、私は再びスマホの画面に視線を落とす。
友だちリストに並んだ、その名前。トーク画面を開くと、白紙のまま、何も送られていない会話欄が広がっている。
何を送ればいいんだろう。
「こんばんは、神楽坂です」――堅すぎる。
「やほー」――柄じゃない。
「先日はありがとうございました」――他人行儀すぎる。
何度も文面を打っては消し、打っては消しを繰り返す。我ながら滑稽だと思う。仕事の交渉なら息をするようにこなせるのに、たかが同級生への一言が、こんなにも難しい。
思えば、明月くんの前でだけ、こんな風にみっともなく悩んだり、慌てたり、笑ったりしている気がする。完璧を求められる家でも、優等生を演じる教室でもなく、ただの十五歳の女の子でいられる時間。それが、思っていたよりずっと居心地がいいことに、私はまだ慣れていない。
――でも、不思議と、さっきまでの重苦しさは消えていた。踏み出してしまえば、案外、こんなものなのかもしれない。
私は小さく息を吐いて、もう一度画面に指を這わせる。
『こんばんは、神楽坂です』
短い一文を打ち込んだまま、送信ボタンの上で、また指が止まる。
――まぁ、今日のところは、これくらいで十分か。
窓の外はもうすっかり日が落ちて、夏の夜特有の生ぬるい風が、カーテンを揺らしていた。




