ep.10 妹と、迷子のお姫様
もうこの時点で今までで最も輝いた夏休みを過ごしてしまったかもしれない男、そう、俺だ。
バスに揺られながら窓の外を眺めていると、見慣れた翡翠川の街並みが視界に戻ってきた。二泊三日の合宿はやたら濃かった気がするが、終わってみればあっという間だった。日焼けした腕がじんじんと熱を持っている。溜まっているアニメの消化を思うと、帰宅後の予定でもう頭がいっぱいだった。
「洸夜、荷物忘れてるよ」
有栖に声をかけられ、座席の下に転がっていた自分のリュックを慌てて拾い上げる。
「お、おう。サンキュ」
「相変わらず抜けてるなぁ」
解散場所の校門前で、御手洗先輩が「取材、本当にありがとねー!」と満面の笑みで手を振っていた。少し離れた場所で荷物をまとめている澪に軽く会釈をしてから、俺は重い荷物を担いで家路についた。合宿中に見た色んな顔が、まだ頭の中でぐるぐると渦を巻いている。整理するにはもう少し時間が要りそうだ。
「ただいまー」
玄関を開けると、待ち構えていたのは案の定、由紀だった。
「おかえりお兄ちゃん。日焼けした?」
「したかもな。川で散々遊ばされたし」
「ふーん」
合宿の話を根掘り葉掘り聞かれるかと身構えたが、意外にもそれ以上は追及されなかった。妹の中で何かの情報処理が着々と進んでいる気配だけが、やけに不穏だった。
――そして、夏休みも折り返しに差し掛かったある日。俺は相変わらず、溜まりに溜まった録画アニメと格闘する平和な日々を送っていた。健全な高校生の夏休みとは何なのか、深く考えたら負けな気がする。
「お兄ちゃん、いい加減外出なさいよ」
朝、リビングのソファで丸まってアニメを見ていた俺に、由紀が仁王立ちで宣言した。
「合宿以外、まったく外出てないでしょ。不健康すぎ」
「アニメ見るのに外出は必要ないだろ」
「屁理屈言わない。今日はモール付き合ってもらうから」
「え、急だな」
有無を言わさぬ迫力に、俺は渋々ソファから立ち上がる。世の中には抗えない力というものが存在する。それが我が家では大抵、二つ下の妹の形をしているというだけだ。
電車で二駅、翡翠川ショッピングモールに到着すると、夏休みとあって家族連れやカップルで賑わっていた。冷房の効いた館内に一歩入っただけで、外の熱気から解放されてほっと息をつく。
「まずは服屋、行くわよ」
「俺の服?」
「違う、私の。ついでにお兄ちゃんの見苦しい部屋着も新調するけど」
「見苦しいは余計だろ」
文句を言いつつも荷物持ちとして連行される俺。由紀は目当ての店を的確に巡り、あっという間に紙袋を三つほど俺の腕にぶら下げていった。
「ついでにこれ、お兄ちゃんも着てみて」
押し付けられたのは、やけに襟の高いシャツだった。
「なんで俺まで」
「いいから。……ほら、思ったより悪くないじゃない」
「褒めてんのか貶してんのかどっちだ」
試着室から出てくるたびに満足げに頷く由紀を見ていると、もはや誰の買い物なのかよく分からなくなってくる。妹の買い物ペースは戦場のそれに近い。俺はただの荷物運搬用兼試着モデルロボットと化していた。
「お兄ちゃん、次あそこのカフェでちょっと休憩しよ」
「賛成、腕がもう限界だ」
カフェへ向かう途中、通路の先にホビーショップの看板を見つけてしまった俺は、ふらりと足を止めた。新作フィギュアの予約ポスターが、まるで手招きしているように見える。
「……お兄ちゃん、目が真剣」
「いや、ちょっとだけ見るだけだから」
「はいはい、五分ね」
結局、俺はグッズコーナーで見慣れたキャラの缶バッジを二個ほど確保した。由紀は呆れた顔をしつつも、レジ前で「これも一緒に買っとく?」と限定版のクリアファイルをこっそり手に取っていた。金は出さないくせに、こういうところだけ興味を示すのが妹らしい。
「お前、興味ないんじゃなかったのか」
「べ、別に。ただの話のネタ用よ」
「話のネタで限定版狙う奴がいるかよ」
カフェに向かう途中、噴水広場を横切ろうとしたところで、俺は聞き覚えのある声に足を止めた。
「……明月くん?」
振り返ると、私服姿の澪が立っていた。制服とはまた違う、涼しげなワンピース。夏の日差しの下で見る私服の澪は、学園の「高嶺の花」とはまた違う柔らかさがあった。
「神楽坂……こんなとこで奇遇だな」
「本、買いに来ただけよ。それより、その荷物……」
澪の視線が、俺の隣に立つ由紀へと移る。銀髪をなびかせ、涼しい顔でストローを咥えている由紀を、澪はまじまじと見つめた。何かに気づいたように、その表情がすっと固まる。
「あの、明月くん。もしかして……彼女さん?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。由紀もぽかんとした顔でストローを咥えたまま固まっている。
「……は?」
「その、休日に女の子と二人でお買い物なんて、そういうことなのかなって……ち、違ったらごめんなさい」
澪の声は尻すぼみに小さくなっていく。ワンピースの裾を握る指先が、心なしか白くなっていた。
銀髪の由紀と黒髪の俺、どこをどう見たら彼女だと錯覚できるのか、正直俺からしたら理解に苦しむ。どう見たって仲の良い兄妹じゃないか。近くにいた買い物客まで、ちらちらとこちらを窺っているのが地味に居た堪れない。
「いや違う。こいつ妹」
「……妹?」
「中等部二年の、明月由紀です」
由紀がぺこりと会釈する。
「そう、妹さん……そっか。妹さんなんだ……」
みるみるうちに、澪の肩から力が抜けていくのが分かった。露骨に安堵した表情を隠しきれていない。分かりやすいやつだな、こいつも。
「あの、それで……お二人はこれからどこへ?」
「カフェで休憩しようとしてたとこ」
「そう。私も、少し休もうと思っていたところで……」
澪の視線がちらちらとこちらを窺っている。誘ってほしそうな空気を隠しきれていない。俺が口を開くより先に、由紀がにっこりと笑って割って入った。
「神楽坂さんも、一緒にどうですか?」
「え、いいの……?」
「もちろん。お兄ちゃんがお世話になってるみたいなので」
由紀のその笑顔、絶対何か企んでる顔だ。長年の兄妹の勘がそう告げていた。
三人でカフェに入り、注文を済ませて席に着く。向かいに座った澪と由紀は、最初こそぎこちなかったが、由紀が「学年首席って本当ですか」と話を振ると、澪も次第に口数が増えていった。
「由紀さんは、中等部なのよね。成績はどう?」
「一応、学年一位は死守してます」
「あら、優秀ね」
「神楽坂さんほどじゃないと思いますけど」
二人の間に、なにやら見えない火花が散っている気がするのは俺の気のせいだろうか。テーブルの下で、由紀の足が俺の足をこつんと小突いてくる。何のアピールだそれは。
運ばれてきたパンケーキを前に、澪は少しだけ表情を緩めた。
「こういうお店、あまり来る機会がなくて」
「なら、ちゃんと食べてから写真撮りましょうよ」
「あ、そうね……」
スマホを構える澪の隣で、由紀がさりげなく俺の分の生クリームを自分の皿へ移動させていた。取り分けているようで、単なる強奪である。抗議しようにも、二人とも会話に夢中で俺の声など届かない。世の中、声の大きい者が正義なんだなと、俺は自分のコーヒーを啜りながら妙に納得した。
「そういえば、お兄ちゃんから合宿の話、全然聞けてないんです。神楽坂さん、なにか面白いことありました?」
「え、それは……」
澪が言葉に詰まり、ちらとこちらを見た。川での一件を思い出しているのだろう、頬がじわりと赤くなっていく。
「べ、別に、大したことは」
「ふーん」
由紀の目が細くなる。何かを察知した猫のような目だった。俺は視線を逸らし、コーヒーを飲むふりをしてこの場をやり過ごすことにした。逃げるが勝ちだ。
カフェを出たあとも、解散する空気にはならなかった。次に向かったのは書店だった。澪は参考書コーナーに直行すると、真剣な顔で何冊も見比べ始める。
「そんなに悩むほど違うのか、参考書なんて」
「全然違うわよ。解説の丁寧さとか、問題の質とか」
「へー」
「由紀さんは、こういうの興味ある?」
「あります。今度受験生になるので」
二人が参考書談義で盛り上がっている間、俺は隅の棚で新刊のラノベを物色していた。誰も俺のことなど見ていない。荷物持ちにも小休止は必要だ。
書店を出ると、今度は由紀の希望でゲームセンターに寄ることになった。
「お兄ちゃん、次はゲームセンターも行こうよ」
「体力の限界を感じるんだが」
「私も少し寄ってみたいわ。クレーンゲーム、やったことないから」
「マジか、意外だな」
クレーンゲームの前で、慣れた手つきで操作する由紀と、真剣な顔で挑んでは何度も失敗する澪。対照的な二人を眺めながら、俺はただの観客に徹することにした。
「あ、取れた」
「一回で取るの、普通すごくない……?」
「コツがあるんです。今度教えましょうか」
澪の目がきらりと輝く。どうやらまた一つ、彼女の弱点に由紀が食い込んだらしい。年齢差なんて関係ないとばかりに、いつの間にか完全に姉貴分の顔になっている妹を見て、俺はなんとも言えない気持ちになった。
由紀は取ったばかりの小さなうさぎのぬいぐるみを、少し迷った様子で澪の方へ差し出した。
「……これ、あげます」
「え、いいの? 私のために取ってくれたわけじゃないでしょう」
「まぁ、記念ってことで。今日のお礼です」
「そう……ありがとう」
澪はぬいぐるみを大事そうに両手で受け取ると、心底嬉しそうに目を細めた。その顔を見て、由紀は満足げに小さく頷いている。妹よ、お前は一体何と戦って、何に勝ったつもりなんだ。
気づけば夕方近くになっていた。西日がモールの窓ガラスを橙色に染めている。
「あの、もし良かったら……この後、三人で夕飯とか」
澪が控えめに切り出したところで、由紀のスマホが小さく振動した。画面を覗いた由紀が、残念そうに眉を下げる。
「あ、ごめんなさい。今日は母が早く帰ってくるので、夕飯の支度があって」
「そう、なら仕方ないわね」
「また今度、絶対」
澪は少しだけ寂しそうにしたが、すぐにいつもの澄ました表情に戻った。荷物持ちの役割は増える一方だったが、不思議と嫌な気分はしなかった。
「じゃあ、私はこっちだから」
駅の改札前で、澪が小さく手を振る。
「今日は、その……楽しかったわ。由紀さんとも、もっと話したかったし」
「私もです。また誘ってください」
澪は少し照れくさそうに微笑むと、改札の向こうへ消えていった。その後ろ姿を見送りながら、由紀がぽつりと呟く。
「……悪い人じゃなさそうだね」
「なんだよ急に」
「別に。ただの感想」
由紀はそう言うと、涼しい顔で歩き出した。だがその口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのを、俺は見逃さなかった。妹公認、というのも変な話だが、なんとなく肩の荷が一つ軽くなった気がした。
合宿での騒動から一転、思わぬ形で三人揃っての休日となった一日。荷物持ちとして酷使されただけのはずなのに、なぜか心なしか足取りが軽い。誰かと出かけるのも、たまには悪くないのかもしれない――なんて、柄にもないことを考えてしまうくらいには。
――こうして、俺の平穏(?)な夏休みは、また一つ賑やかさを増していくのだった。




