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第96話 「日常の中の確認――守るという形」


朝。


まだ外は完全に明るくなりきっていない時間。


部屋の中には、朝特有の静かな冷たさが残っていた。


⸻


柊木菫(すみれ)は、ゆっくりと椅子から立ち上がる。


体調は悪くない。


むしろ昨日より少し安定している。


⸻


それでも、どこかで“変化の途中”である感覚は消えない。


⸻


⸻


キッチンでは榮助(えいすけ)が朝食の片付けをしている。


いつも通りの無駄のない動き。


⸻


桜はまだ眠そうに椅子に座っている。


パンをゆっくり噛んでいるだけの静かな朝。


⸻


⸻


菫がカバンを手に取った瞬間。


榮助の動きが止まる。


⸻


一歩、近づく。


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何も言わない。


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ただ、距離を詰める。


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⸻


菫が気付いた時にはもう遅い。


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榮助は軽く手を添え、菫の顎に触れる。


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そしてそのまま、唇が重なる。


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⸻


一瞬ではない。


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短くもなく、長くもない。


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しかし確かに“濃い”キスだった。


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⸻


菫は小さく息を漏らす。


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「……っ……」


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⸻


榮助は静かに離れる。


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そのまま、何事もなかったように言う。


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「行ってきますの確認です」


⸻


⸻


菫は顔を赤くしながら小さく息を吐く。


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「……毎回それですか」


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⸻


榮助は淡々と答える。


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「習慣です」


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桜はそれを見て目を輝かせる。


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「またキスしてる!」


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⸻


菫は慌てて視線をそらす。


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「桜、見ないの」


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榮助は何も気にせず鞄を持つ。


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そして一言。


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「行ってきます」


⸻


⸻


菫は小さく息を整えて答える。


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「……行ってらっしゃい」


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⸻


その瞬間、朝は終わる。


⸻


⸻


会社。


龍雷神本社。


秘書課。


⸻


空気はいつも通り整っている。


しかし、菫の席にだけ“違う空気”がある。


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それに最初に気付いたのは向葵(あおい)だった。


⸻


「今日は少し顔色いいわね」


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⸻


菫は軽く頷く。


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「はい、安定してきています」


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⸻


そのやり取りの裏で。


榮助はすでに資料を整理している。


⸻


だが時折、視線が菫へ向く。


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⸻


業務中。


会議資料確認。


電話対応。


調整業務。


⸻


すべて通常通り進む。


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だが榮助は、わずかな違和感も見逃さない。


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⸻


菫が少しだけ椅子に寄りかかった瞬間。


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榮助はすぐに近づく。


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何も言わず、視線だけで確認する。


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「大丈夫ですか」


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⸻


菫は小さく頷く。


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「大丈夫です」


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⸻


その言葉に嘘はない。


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だが榮助は一拍置いてから、静かに手を伸ばす。


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菫の腹部に、そっと触れる。


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⸻


その動作に意味はないようで、確かな確認だった。


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⸻


菫は少しだけ驚く。


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「……会社ですよ」


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⸻


榮助は淡々と答える。


⸻


「問題ありません」


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⸻


その“問題ありません”は仕事ではなく、別の意味を持っていた。


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⸻


そのまま、榮助は一歩近づく。


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そして誰にも聞こえない声で言う。


⸻


「変化は安定しています」


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⸻


その言葉の直後。


ほんの一瞬だけ、菫の唇に軽く触れる。


⸻


短い、確認のようなキス。


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⸻


菫は息を止める。


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「……っ」


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⸻


周囲には気付かれない。


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だが菫の心臓だけが少し速くなる。


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⸻


榮助はすぐに離れ、通常の業務へ戻る。


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まるで何もなかったように。


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⸻


向葵は書類を見ながら、ふと一瞬だけ二人を見る。


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だが何も言わない。


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⸻


美枝子も遠くでそれを見ている。


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そして小さくため息をつく。


⸻


「……あの子は変わらないわね」


⸻


⸻


午後。


会社は通常運転。


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だが菫の周囲だけは、確実に“保護付きの時間”になっていた。


⸻


⸻


そして榮助は理解している。


⸻


これは恋愛ではなく、


⸻


守るための行動であることを。


⸻


⸻


それでも。


⸻


そのすべての中心には、確かに“温度”があった。


⸻


⸻


日常は続く。


⸻


少しずつ、確実に形を変えながら。    



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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