第95話 「安定期の入口――静かに変わる日常」
朝。
目が覚めた瞬間の空気が、昨日までと少し違っていた。
張り詰めていたものが、わずかに緩んでいる。
⸻
柊木菫はゆっくりと起き上がる。
手をお腹に添えたまま、呼吸を整える。
⸻
(……大丈夫)
⸻
その言葉は確認というより、習慣に近くなっていた。
⸻
⸻
リビング。
桜はすでに椅子に座り、パンをちぎっている。
榮助は味噌汁を温め直している。
⸻
「おはよう、ママ」
⸻
「おはようございます」
⸻
いつも通りの朝の挨拶。
だが、その“いつも通り”が少しずつ形を変えている。
⸻
⸻
菫が椅子に座ると、榮助は一度だけ視線を向ける。
⸻
「今日は、少し楽に動ける日ですか?」
⸻
⸻
菫は少し考えてから頷く。
⸻
「……はい。昨日よりは」
⸻
⸻
その瞬間、榮助の表情がわずかに緩む。
⸻
「安定期に近い状態です」
⸻
⸻
その言葉は医師でもないのに、妙に確信があった。
⸻
⸻
桜は首を傾げる。
⸻
「安定期ってなに?」
⸻
⸻
菫は少しだけ笑う。
⸻
「元気が続きやすくなる時期よ」
⸻
⸻
桜は納得したように頷く。
⸻
「じゃあいっぱい遊べる?」
⸻
⸻
「ええ」
⸻
菫の声は自然と柔らかくなる。
⸻
⸻
榮助はそのやり取りを見ながら、静かに味噌汁を注ぐ。
⸻
もう“緊張の朝”ではない。
⸻
“調整された朝”だった。
⸻
⸻
午前。
龍雷神本社。
秘書課。
⸻
向葵はいつも通り資料を並べている。
しかし、今日の動きには少し余裕がある。
⸻
「今日は軽めのスケジュールにしてる」
⸻
それだけを菫に伝える。
⸻
⸻
菫は少し驚く。
⸻
「そこまで……?」
⸻
⸻
向葵は肩をすくめる。
⸻
「もう隠す必要もないし、無理させる必要もないでしょ」
⸻
⸻
その言葉は静かだが、確定だった。
⸻
⸻
美枝子も頷く。
⸻
「ここからは“守る段階”ね」
⸻
⸻
菫は小さく息を吐く。
⸻
「……ありがとうございます」
⸻
⸻
その言葉には、以前のような遠慮ではなく、受け入れが混ざっていた。
⸻
⸻
昼前。
会議室。
⸻
菫は同席するが、以前より明らかに負担は少ない。
資料も減っている。
発言も最小限。
⸻
それでも、存在感は消えない。
⸻
⸻
会議後、役員の一人が言う。
⸻
「柊木さん、最近安定してるな」
⸻
⸻
別の役員も続く。
⸻
「無理してない感じがいい」
⸻
⸻
その評価は、仕事というより“状態”に対するものだった。
⸻
⸻
午後。
デスク。
⸻
向葵が静かに言う。
⸻
「今日から、実質“軽勤務扱い”にするわ」
⸻
⸻
菫は少しだけ目を丸くする。
⸻
「正式にですか?」
⸻
⸻
向葵は頷く。
⸻
「段階的にね」
⸻
⸻
榮助も横から短く言う。
⸻
「妥当です」
⸻
⸻
その三人の間で、もう議論はない。
決定ではなく、流れだった。
⸻
⸻
夕方。
窓の外は少しオレンジ色。
⸻
菫は椅子に座ったまま、ふと自分の体を意識する。
⸻
昨日までの“緊張”が薄れている。
⸻
代わりにあるのは、静かな重み。
⸻
⸻
(ここから変わる)
⸻
そう自然に思えた。
⸻
⸻
帰り道。
車内。
⸻
桜は後部座席で歌っている。
榮助は運転。
菫は助手席。
⸻
⸻
何気ない日常。
しかし確実に違う。
⸻
⸻
榮助が言う。
⸻
「そろそろ、周囲への説明も整理します」
⸻
⸻
菫は少しだけ迷う。
⸻
そして頷く。
⸻
「……お願いします」
⸻
⸻
その一言で、さらに一段階進む。
⸻
⸻
夜。
帰宅。
⸻
桜はすぐに眠くなり、ソファでうとうとする。
⸻
菫はそれを見て微笑む。
⸻
⸻
榮助は静かに言う。
⸻
「今日は、少し早く休みましょう」
⸻
⸻
菫は頷く。
⸻
「そうですね」
⸻
⸻
その夜。
特別な出来事は何も起きない。
⸻
だが、それこそが“変化の証明”だった。
⸻
⸻
安定期の入口。
⸻
それは劇的な変化ではなく、静かな移行。
⸻
そしてこの家族は、その流れに確実に乗り始めていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
もしこの物語に少しでも「面白い!」と感じていただけたなら——
ブックマーク & 評価★5 をぜひお願いします!
その一つひとつが、次の章を書き進める力になります。
読者の皆さまの応援が、物語の未来を動かします。
「続きが気になる!」と思った方は、ぜひ、見逃さないようブックマークを!
皆さまの応援がある限り、次の物語はまだまだ紡がれていきます。




