第94話 「境界の朝――変わり始めた日常の輪郭」
朝。
窓の外はいつも通りの光なのに、部屋の中だけが少し違って見えた。
理由ははっきりしているようで、まだ曖昧なまま残っている。
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柊木菫は、ゆっくりと息を吐きながら鏡の前に立っていた。
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(昨日と同じはずなのに……)
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そう思いながらも、どこか“昨日とは違う自分”を意識している。
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リビング。
桜はまだ眠そうな顔で椅子に座っている。
牛乳を両手で持ち、少しずつ飲んでいる。
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「ママ、おはよう」
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その声はいつも通り無邪気だった。
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菫は自然に微笑む。
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「おはよう、桜」
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その横で榮助は朝食の準備を手伝っている。
派手さはないが、無駄のない動き。
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味噌汁を器に注ぐ音だけが、静かに部屋に響く。
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菫はその様子を見ながら、ふと自分の腹部に視線を落とす。
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(ここに、いる)
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まだ実感というには遠い。
しかし“存在の確信”だけが先にそこにある。
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榮助はその視線に気付く。
だが何も言わない。
ただ、少しだけ歩み寄る。
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「無理はしないでください」
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短い言葉。
それだけで十分だった。
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朝食。
三人は並んで座る。
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・味噌汁(豆腐とわかめ)
・焼き鮭
・卵焼き
・少量のご飯
・ほうじ茶
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いつもと同じ構成。
だが、どこか違う。
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桜は元気に箸を動かしながら言う。
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「ねぇ、ママ」
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「なぁに?」
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「赤ちゃんって、いつ出てくるの?」
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その一言で、空気が一瞬だけ止まる。
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菫は少しだけ息を詰める。
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榮助は箸を止めないまま、静かに聞いている。
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菫はすぐに答えを探す。
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「……まだ、もう少し先よ」
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桜は首を傾げる。
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「ふーん」
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そしてすぐに次の話題へ行く。
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「じゃあ、その間にいっぱい遊ぶ!」
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その無邪気さに、菫は少しだけ救われる。
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「そうね」
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榮助は小さく頷く。
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「その時間も大事です」
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その言葉が、妙に現実的だった。
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午前。
龍雷神本社。
秘書課。
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空気はいつも通り動いている。
しかし、菫の周囲だけがわずかに“調整された流れ”になっている。
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書類の量。
移動の距離。
会議の同席。
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それらすべてが、少しずつ軽くなっている。
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向葵はそれを理解している。
だが、あえて口には出さない。
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代わりに、業務の中で自然にフォローする。
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「これは私がやるわ」
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その一言だけで、仕事の重さが分散される。
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菫はそれに気付いている。
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「ありがとうございます」
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そう返す声は、以前よりも柔らかい。
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昼前。
美枝子が資料を持って近づく。
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「午後の会議、無理しないでいいわよ」
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菫は少しだけ驚く。
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「でも……」
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美枝子は軽く首を振る。
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「もう“全部出る必要”はない段階でしょ」
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その言葉は優しいが、確定でもあった。
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榮助が横から補足する。
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「必要な部分だけで十分です」
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菫は小さく頷く。
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「……分かりました」
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その瞬間、彼女の中で少しだけ意識が変わる。
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(まだ働ける自分)から
(守られながら動く自分)へ。
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午後。
窓の外は少しずつ傾き始める。
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会議準備の途中。
菫は一度だけ手を止める。
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軽い疲労。
ほんの少しの違和感。
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それでも耐えられる範囲。
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だが、向葵はそれにすぐ気付く。
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「休憩入れましょう」
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菫は首を横に振る。
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「大丈夫です」
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その返答に、向葵は少しだけ眉をひそめる。
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「“大丈夫”は今の基準じゃない」
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その一言で、空気が変わる。
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榮助が静かに言う。
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「休憩してください」
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短い命令に近い言葉。
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だが、拒否できない優しさがあった。
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菫は小さく息を吐く。
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「……分かりました」
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椅子にもたれた瞬間。
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ようやく、自分の体が少しだけ重いことに気付く。
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夕方。
業務終了。
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外に出ると、空気は少し冷たくなっていた。
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菫は車に乗る。
榮助が助手席へ。
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桜の迎えへ向かう道。
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車内は静か。
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菫は窓の外を見る。
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榮助は前を見ている。
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そして小さく言う。
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「そろそろ……生活を少し変えますか」
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菫は少しだけ目を閉じる。
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そして頷く。
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「……そうですね」
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それは決断ではなく、移行だった。
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日常は続いている。
しかし、確実に形を変え始めている。
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そしてその変化は、もう誰にも止められなかった。
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