第93話 「確定――言葉にされた現実」
朝。
その日の空気は、いつもより少しだけ“重さ”を持っていた。
理由は誰にも説明できないが、確かに何かが変わり始めている朝だった。
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柊木菫は出勤前、鏡の前で一度だけ自分の顔を見る。
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(大丈夫)
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そう言い聞かせるように呼吸を整える。
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だが、手は無意識に腹部へと添えられる。
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龍雷神本社。
秘書課。
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向葵はすでに出勤しており、資料を整えていた。
いつも通りの正確な動き。
しかし、その目は“いつも通りではない部分”を探している。
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菫が入室した瞬間、向葵は一度だけ視線を止める。
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「……おはよう」
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「おはようございます」
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返事は同じ。
だが空気は違う。
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午前の業務。
電話、調整、会議準備。
すべてが通常通り進むはずだった。
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だが、美枝子が静かに立ち上がる。
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「菫さん」
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その声に、フロアの空気が一瞬だけ引き締まる。
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菫は顔を上げる。
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「はい」
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美枝子は短く言う。
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「少し、来て」
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会議室ではない。
小さな応接スペース。
窓から光が入る静かな場所。
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向葵も同席する。
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三人だけの空間。
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美枝子は資料を開かない。
ただ菫を見る。
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「確認するわ」
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菫は小さく頷く。
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「はい」
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一拍。
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そして、美枝子は言う。
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「体調の変化はある?」
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菫は少しだけ間を置く。
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そして答える。
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「あります」
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その瞬間、向葵の表情がわずかに変わる。
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だが言葉は出さない。
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美枝子は続ける。
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「それ、もう検査は?」
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菫は視線を落とす。
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「まだ確定は……」
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そこまで言ったところで、美枝子が静かに遮る。
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「じゃあ、行きましょう」
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菫が顔を上げる。
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「え?」
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美枝子は淡々としている。
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「今から」
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午後前。
産婦人科。
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鍋島香織の診察室。
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静かな白い部屋。
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菫は椅子に座る。
手は少しだけ震えている。
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榮助は隣にいる。
無言。
だが離れない距離。
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香織は淡々と準備を進める。
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「じゃあ、確認していきますね」
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数分後。
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画面に映るものを見た瞬間、部屋の空気が変わる。
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香織は一度だけ息を吐く。
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そして言う。
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「妊娠しています」
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沈黙。
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菫は瞬きを一度だけする。
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榮助は動かない。
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だが、その視線だけがわずかに強くなる。
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香織は続ける。
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「週数的にも、初期ですね」
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美枝子は静かに頷く。
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「そう……」
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菫は小さく息を吐く。
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その音は、やっと現実に触れたような音だった。
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帰り道。
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誰も多くは話さない。
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車内は静か。
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桜は学校のため不在。
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その静けさが、逆に重い。
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菫が小さく言う。
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「……本当に」
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それ以上続かない。
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榮助が短く答える。
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「現実です」
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その一言で、すべてが確定する。
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美枝子は後部座席で静かに言う。
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「これからが大事ね」
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誰も否定しない。
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誰も急がない。
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午後。
龍雷神本社。
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向葵はすでに情報を把握していた。
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だが口には出さない。
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代わりに、榮助へ一言だけ。
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「どうするつもり?」
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榮助は一瞬だけ考える。
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そして答える。
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「守ります」
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それだけだった。
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だが十分だった。
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夕方。
菫はデスクに戻る。
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だがもう“以前と同じ菫”ではない。
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美枝子が横に来る。
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「無理しないで」
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向葵も言う。
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「業務、調整する」
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誰も大げさにはしない。
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だが、確実に“扱い”が変わっている。
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菫は小さく頷く。
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「ありがとうございます」
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その声は少しだけ弱く、そして少しだけ安心していた。
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夜へ向かう窓の外。
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空は静かに色を変える。
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そしてこの瞬間から、この物語の“日常”は確実に変わり始めた。
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