第92話 「静かな確定――言葉にされない変化」
朝。
龍雷神本社ビルのエントランスは、いつも通り人の流れで満ちていた。
誰もが同じ方向へ向かい、同じ速度で歩いているようでいて、実際はそれぞれ違う事情を抱えている。
その“均一に見える不均一さ”の中に、柊木菫の姿もあった。
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だが、昨日よりわずかに歩幅が小さい。
それでも周囲は気付かない。
気付かない程度の変化だからこそ、本人だけがその重さを感じていた。
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秘書課。
朝の始業前の静けさ。
書類の整列、PC起動音、コーヒーの香り。
すべてが規則的に動き始める。
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向葵はすでにデスクに座り、今日のスケジュールを確認していた。
そして視線を一度だけ菫へ向ける。
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「……昨日よりは顔色いいね」
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菫は軽く頷く。
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「はい。ありがとうございます」
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その返事は、いつもと同じ。
だが向葵は“完全には安心していない”表情をしている。
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少し離れた場所で榮助が資料を並べる。
健二郎関連の案件。
役員会議準備。
契約調整。
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その動きの中で、彼は一度だけ動きを止める。
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視線は菫へ。
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(安定しているようで、していない)
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それだけを情報として拾う。
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午前。
会議準備が進む。
秘書課は一気に“戦闘状態”へ切り替わる。
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「資料配布お願いします」
「役員席の確認済み」
「開始10分前に全員入室」
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声が飛び交う。
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その中で菫は、いつも通りの役割をこなす。
だが——
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書類を持ち上げる動作が、一瞬だけ遅れる。
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ほんのわずか。
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しかし、それを見逃した者は二人いた。
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美枝子と向葵。
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会議終了後。
人の流れが一気に緩む。
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その瞬間、美枝子は菫の横に来る。
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「少し話せる?」
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菫は頷く。
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「はい」
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給湯室前の静かなスペース。
人通りの少ない場所。
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美枝子は腕を組まず、ただ菫を見た。
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「昨日から……気になってる」
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菫は視線を少し落とす。
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「……はい」
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その一言で、美枝子は察する。
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すぐに声のトーンを落とす。
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「確認した?」
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菫は一瞬迷い、そして答える。
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「まだです」
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その言葉がすべてだった。
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美枝子は小さく息を吐く。
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「なら、早い方がいいわね」
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その会話を、少し離れた場所から向葵が聞いていた。
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表情は動かない。
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しかし、理解はすでにしている。
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昼休み。
秘書課の空気は落ち着いている。
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菫は一人で席に座る。
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向葵が横に来る。
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「ねぇ」
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菫は顔を上げる。
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「はい」
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向葵は少しだけ間を置く。
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そして言う。
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「もしかして……」
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言葉は途中で止まる。
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代わりに視線が菫の腹部へ一瞬だけ向く。
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その視線で、菫は全てを理解する。
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逃げることでも、否定することでもない“確認の目”。
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菫はゆっくり頷く。
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「……まだ確定ではありません」
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その言い方は“否定ではない肯定”だった。
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向葵は小さく息を吐く。
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「そう」
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それだけ。
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だがその一言には、驚きと受容が混ざっていた。
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午後。
向葵は資料を整理しながら、榮助を呼ぶ。
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「柿沼」
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榮助は顔を上げる。
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「はい」
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向葵は短く言う。
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「少し、話がある」
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廊下。
誰もいない場所。
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向葵は真正面から榮助を見る。
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「柊木さんのこと、気付いてる?」
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榮助は一拍置く。
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そして答える。
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「……可能性としては」
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その瞬間、向葵の目が少しだけ細くなる。
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「やっぱり」
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向葵はさらに一歩踏み込む。
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「確認した?」
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榮助は首を横に振る。
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「していません」
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短い沈黙。
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そして向葵は言う。
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「なら、早くした方がいい」
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その言葉は“業務”ではない。
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だが“現実”だった。
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夕方。
業務終了が近づく。
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菫はデスクで最後の資料をまとめる。
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美枝子が横に来る。
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「今日は早めに帰りなさい」
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菫は驚く。
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「でも業務が——」
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美枝子は遮る。
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「いいから」
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それだけ。
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榮助も同じタイミングで歩み寄る。
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「送ります」
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短い言葉。
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しかし、そこには“決定事項”のような重さがあった。
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外の空はすでに夕暮れ。
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ビルのガラスにオレンジが反射する。
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菫はゆっくり立ち上がる。
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その手はほんの少しだけ、自分の腹部近くに添えられていた。
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無意識。
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だが確かな変化。
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(もう、隠す段階ではないのかもしれない)
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その思考が、初めて現実味を持つ。
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そしてその夜へ向かって、物語は静かに次の段階へ進み始めていた。
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