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第91話 「揺らぎの前兆――気付かれないまま変わっていく身体」


朝。


龍雷神本社ビルの窓は、まだ薄い光を受け止めきれずに鈍い色をしていた。


完全な昼でもなく、完全な夜でもない。


その曖昧な時間帯が、まるで菫の身体の変化そのものを象徴しているようだった。


⸻


秘書課。


いつも通りの静かな整然さ。


だが、その中で柊木菫(すみれ)の動きだけが、わずかに“遅れている”。


⸻


書類を取る動作。


椅子から立ち上がる瞬間。


階段を上がるときの一拍。


⸻


どれもほんの僅かな違い。


しかし、それは積み重なると確かな“違和感”になる。


⸻


(……少し、重い?)


⸻


菫は自分の体にだけ聞こえるように思う。


だがすぐにその考えを打ち消す。


⸻


(気のせい)


⸻


そうでなければ困る、という方が正しかった。


⸻


⸻


「柊木さん」


向葵(あおい)の声が飛ぶ。


⸻


「はい」


⸻


菫はすぐに顔を上げる。


⸻


向葵は資料を手にしている。


しかしその視線は資料ではなく、菫の顔色に向いていた。


⸻


「今日、少し顔色悪くない?」


⸻


一瞬。


空気が止まる。


⸻


菫は軽く瞬きをしてから答える。


⸻


「問題ありません」


⸻


その返事は、いつも通りの“仕事の声”だった。


⸻


向葵は少しだけ眉を寄せる。


⸻


「ならいいけど」


⸻


だが、その“ならいいけど”は納得ではなく、保留に近い。


⸻


⸻


少し離れたデスク。


柿沼榮助(えいすけ)は会議資料を整理していた。


無駄のない動作。


一定のテンポ。


⸻


しかし、ふと視線だけが菫の方向へ向く。


⸻


ほんの一瞬。


⸻


(遅い)


⸻


それだけを観察として拾う。


⸻


だが言葉にはしない。


⸻


仕事中に、感情は挟まない。


それが彼の基準だった。


⸻


⸻


午前の中盤。


社内電話が増える時間帯。


秘書課は一気に動き出す。


⸻


「午後の役員会議、資料揃ってる?」


「確認済みです」


「スケジュール変更入った」


「了解」


⸻


音が重なる。


流れが加速する。


⸻


その中で菫は、いつも通りの速度を保とうとする。


⸻


だが——


⸻


一瞬だけ、立ち止まる。


⸻


(……)


⸻


視界がほんのわずかに揺れる。


⸻


すぐに手を机につく。


⸻


何でもないふり。


⸻


呼吸を整える。


⸻


⸻


その動きに、先に気付いたのは美枝子(みえこ)だった。


⸻


「菫さん」


⸻


声は低い。


業務の中に紛れるように。


⸻


菫はすぐに顔を向ける。


⸻


「はい」


⸻


美枝子は資料を持ったまま近づく。


⸻


「少し、休憩入れましょうか」


⸻


その言葉は命令ではなく、提案でもない。


⸻


“確認”だった。


⸻


⸻


菫は一瞬だけ迷う。


⸻


そして答える。


⸻


「……大丈夫です」


⸻


美枝子はそれ以上は言わない。


⸻


ただ一拍置いてから、


⸻


「なら、手元の業務だけにして」


⸻


それだけ。


⸻


⸻


そのやり取りを、向葵は離れた場所から見ていた。


⸻


(やっぱり)


⸻


口には出さない。


⸻


だが視線だけが少しだけ変わる。


⸻


⸻


昼前。


榮助が一度だけ秘書課の端で声をかける。


⸻


「柊木さん」


⸻


菫は顔を上げる。


⸻


「はい」


⸻


榮助は資料を渡すだけ。


⸻


「午後の会議、変更なしです」


⸻


「ありがとうございます」


⸻


それだけのやり取り。


⸻


しかし榮助は、その直前の一瞬を見逃していない。


⸻


菫の呼吸が少しだけ浅いこと。


⸻


だが、やはり何も言わない。


⸻


⸻


昼休み。


秘書課は静かになる。


⸻


菫は食事を軽く済ませる。


・温かいうどん

・小鉢

・お茶


⸻


向葵が横に座る。


⸻


「本当に食べる量、安定してるね」


⸻


菫は小さく頷く。


⸻


「体が重くならないようにしているだけです」


⸻


向葵は少しだけ黙る。


⸻


そして、言葉を選ぶように続ける。


⸻


「……最近、無理してない?」


⸻


菫は一瞬だけ止まる。


⸻


そして答える。


⸻


「していません」


⸻


短い。


⸻


だが“嘘ではないように聞こえる言い方”だった。


⸻


⸻


午後。


会議準備が進む。


⸻


資料確認。


役員席調整。


配布順整理。


⸻


すべてが通常通り。


⸻


しかしその中で、菫の動きだけがほんの少しずつ“制限されているように見える”。


⸻


無意識に。


⸻


⸻


夕方。


外の光が傾き始める。


⸻


向葵がふと呟く。


⸻


「今日は早めに終わらせるわ」


⸻


菫は顔を上げる。


⸻


「ありがとうございます」


⸻


向葵は軽く笑う。


⸻


「あなた、無理しすぎるから」


⸻


その言葉は冗談ではない。


⸻


⸻


榮助はそのやり取りを遠くから見ていた。


⸻


そして短く結論だけを思う。


⸻


(変化している)


⸻


⸻


だがまだ誰も“決定的な言葉”にはしていない。


⸻


それが、この日常の均衡だった。


⸻


⸻


夕方のビルを出ると、空は少しだけオレンジ色に染まっていた。


⸻


菫は車へ向かう。


⸻


その歩き方はいつも通り。


⸻


だが、ほんの少しだけ慎重だった。


⸻


⸻


日常は続いている。


⸻


しかし、その裏側で確実に——


⸻


“次の段階”が近づいていた。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

もしこの物語に少しでも「面白い!」と感じていただけたなら——


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読者の皆さまの応援が、物語の未来を動かします。


「続きが気になる!」と思った方は、ぜひ、見逃さないようブックマークを!

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