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第90話 「迎えの時間――同じ一日が、別々に進み、最後に重なる夜」


夕方の秘書課は、すでに一日の終わりへ向かっていた。


会議資料の整理は終わり、机の上には「明日に回すもの」と「今日終えたもの」がきっちり分けられている。


その境界線が、仕事という世界の終わりを静かに示していた。


菫はデスクで最後の確認をしていた。


画面には営業課との調整案件が並んでいる。


人事との連携、スケジュール修正、社内承認の確認。


ひとつひとつを丁寧に確認し、漏れがないかを見直していく。


妊娠してからも、その仕事ぶりはほとんど変わらない。


むしろ、以前よりも慎重になったと言ってよかった。


その横で、榮助は健二郎の秘書業務を向葵と並行して処理していた。


役員スケジュールの最終確認。


明日の会議資料の精査。


社内決裁の整理。


同じ空間にいながら、二人はそれぞれ別の「仕事の世界」にいた。


一瞬だけ、榮助が手を止める。


そして静かに言う。


「今日は……」


向葵が顔を上げる。


榮助は続けた。


「二人で桜の迎えに行きませんか」


その言葉は淡々としていた。


だが、そこには当然のように組み込まれた家族の形があった。


向葵は一瞬だけ目を細める。


そして小さく笑った。


「……いいんじゃない?」


「桜ちゃんも喜ぶでしょ」


それだけ言うと、すぐに資料へ戻る。


榮助も同じように視線を落とす。


「では、業務に戻ります」


すぐに空気は仕事へ戻った。


会話は切り替えの一瞬で終わる。


そこから定時まで、秘書課はいつも通りの速度で進んでいく。


電話の音。


キーボードを打つ音。


資料をめくる音。


その全てが、今日という一日を静かに締めくくろうとしていた。


一方その頃。


菫は営業課の担当者と人事課の同期二人と打ち合わせをしていた。


営業課の担当者は高橋悠斗。


人事課の同期は、三浦航平と長谷川美咲だった。


「この案件、次のフェーズで契約形態変えます?」


高橋が資料を見ながら言う。


三浦も頷いた。


「社内配置的には問題ないけど、調整は必要ですね」


長谷川も続ける。


「その場合、評価基準も少し変わると思います」


菫は静かに資料を見ながら頷いた。


「では、その方向で一度整理しましょう」


「詳細は明日までにまとめます」


冷静で、正確で、無駄がない。


この時間だけは、彼女は完全に「仕事の顔」だった。


やがて定時。


会社の中に「帰る人の流れ」が生まれる。


榮助は健二郎秘書としての最後の確認を終える。


向葵と軽く引き継ぎを交わす。


「問題なし」


それだけで完結する。


向葵は苦笑した。


「ほんと、簡潔ね」


「はい」


「まあ、そこが柿沼君らしいけど」


榮助は軽く一礼し、退室した。


菫も別フロアで業務を終える。


同僚たちに軽く会釈しながら退社準備を進める。


「お疲れ様です」


「お疲れ様」


そんな短いやり取りを交わしながら、会社を後にする。


二人は別々の出口へ向かった。


会社を出る時間も違う。


歩くルートも違う。


だが、向かう先は同じだった。


駐車場。


菫の車。


榮助は助手席に乗る。


無言のままシートベルトを締める。


菫もエンジンをかけながら一言。


「迎え、行きましょうか」


榮助は短く答える。


「はい」


車はゆっくりと駐車場を出た。


保育園。


夕方の子どもたちの声がまだ残っている時間。


門が開く。


桜が一番に気付く。


「お兄ちゃん‼︎」


全力で駆け寄る。


榮助は自然にしゃがみ、桜を受け止める。


桜はそのまま頬にキスをした。


「えへへ!」


無邪気な行動。


その瞬間。


菫の目が、ほんの少しだけ細くなる。


そして次の瞬間。


菫は榮助の方へ歩く。


何も言わない。


ただ距離を詰める。


そして――


唇に、短くも深いキス。


一瞬で空気が変わる。


桜が楽しそうに笑う。


「ママもしてる‼︎」


菫はすぐに顔を背けた。


「……見ないの」


だが榮助は動かない。


ただ静かに、そのまま受け止めている。


保育士たちは少し驚いた表情を浮かべていたが、誰も何も言わなかった。


車へ戻る。


桜は後部座席へ。


菫が運転席へ。


榮助は助手席。


車が動き出す。


夕方の道は穏やかだった。


信号待ちの時間。


桜は今日あった出来事を楽しそうに話している。


「きょうね、おえかきしたの!」


「それとね、おともだちとおにごっこした!」


榮助は後ろを振り返る。


「そうですか」


桜は嬉しそうに笑った。


帰宅後。


桜は菫と一緒に夕飯を食べる。


今日の夕食は親子丼と味噌汁、サラダだった。


テレビを見ながら笑う。


一方で榮助はキッチンに立つ。


一人分の食事を静かに作る。


野菜炒めとご飯。


味噌汁。


フライパンの音だけが響く。


夜。


部屋はそれぞれの時間へ分かれていく。


桜は菫と一緒に就寝準備。


髪を乾かし、歯を磨き、布団へ入る。


榮助は別室。


書類を少しだけ整理しながら食事を終える。


電話が鳴る。


菫からだった。


「お疲れ様です」


榮助は短く返す。


「お疲れ様です」


少し間が空く。


菫の声。


「今日は……ありがとうございました」


榮助は少しだけ間を置く。


「問題ありません」


桜の声が奥で聞こえる。


「お兄ちゃん、おやすみー!」


榮助は小さく答える。


「おやすみなさい」


「また明日」


「はい」


通話が切れる。


部屋は静かになる。


榮助は椅子に座ったまま、少しだけ目を閉じる。


(終了)


それだけを思考で確認する。


そしてそのまま、静かに夜へ沈んでいった。


明日もまた、同じようで少し違う一日が始まるのだった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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