第89話 「準備の日――静けさの中で整えられていくもの」
昼を少し過ぎた秘書課は、午前中よりもさらに落ち着いた空気に包まれていた。
会議と会議の間に生まれるわずかな隙間時間。
それは“休憩”ではなく、“次に備える時間”だった。
秘書課の誰もが、その短い時間を使って資料を整理し、予定を確認し、頭の中を切り替えている。
静かな場所だった。
だが、決して止まっているわけではない。
常に次へ進み続けている。
菫はデスクで午後の資料を確認していた。
昨日の件は、すでに誰も口にしていない。
だが完全に消えたわけではなく、静かに“背景として残っている”感覚だけがある。
それでも、仕事は進む。
進めなければならない。
(仕事に戻る)
その意識だけで、彼女は呼吸を整えるようにキーボードを叩く。
数字を確認する。
契約書を見直す。
営業部から送られてきた修正依頼をまとめる。
ひとつひとつを丁寧に処理していく。
そこへ美枝子が通りかかる。
「午後の会議、無理はしなくていいからね」
菫は顔を上げる。
「はい。ありがとうございます」
「少しでも体調が悪くなったら、すぐ言いなさい」
「はい」
そのやり取りは短い。
だが、昨日よりも少しだけ距離が近い。
美枝子の言葉には、上司としてだけではない温かさが含まれていた。
菫もそれを感じている。
だからこそ、素直に頷いた。
一方その頃。
榮助は別のデスクで役員資料の最終確認をしていた。
数字の整合性。
会議資料の順番。
リスク項目の抜け。
出席者の変更。
すべてが“問題ない状態”であるかを確認する。
その作業は単調に見えて、実際はかなり繊細だった。
一つのミスが、そのまま役員会議全体へ影響する。
だからこそ、確認は何度でも行う。
「柿沼」
向葵の声が飛ぶ。
「はい」
「この資料、役員順番少し変更あるから差し替えお願い」
「承知しました」
即答。
迷いはない。
榮助はすぐに資料を受け取り、変更箇所を確認する。
向葵はその様子を見ながら軽く頷いた。
「ほんと、安定してきたね」
榮助は視線を上げないまま答える。
「業務手順を最適化しているだけです」
「それが一番難しいのよ」
向葵は小さく笑う。
「最初の頃は、そこまで余裕なかったでしょ?」
「……否定はしません」
「正直ね」
向葵は苦笑する。
「でも、今の秘書課でその正確さは助かってる」
榮助は短く答えた。
「ありがとうございます」
それ以上は続かない。
だが、それで十分だった。
昼休み前。
秘書課は一度だけ静かになる時間を迎える。
電話が止まり、キーボードの音が減る。
廊下を歩く人も少なくなる。
ほんの数分だけ訪れる静寂。
菫は椅子に深く座り、少しだけ息を吐く。
(大丈夫)
そう心の中で確認する。
(今日はちゃんと仕事ができている)
そのとき、榮助が一度だけ視線を向ける。
ほんの一瞬。
菫はそれに気付く。
だが、何も言わない。
榮助も何も言わない。
それだけで十分だった。
視線だけで、互いの状態を確認する。
最近では、それが二人の自然な習慣になりつつあった。
昼休み。
社員食堂は賑わっているが、秘書課は少し遅れて動くため、席は空いている。
菫は軽い食事を選ぶ。
・温うどん
・小鉢(ほうれん草のおひたし)
・ひじきの煮物
・温かいお茶
妊娠してからは、自然と身体に優しいものを選ぶようになっていた。
向葵が隣に座る。
「昨日より顔色いいね」
菫は少しだけ頷く。
「休めましたので」
「休めた、って言えるの大事よ」
向葵は箸を動かしながら続ける。
「真面目な人ほど無理するから」
菫は少しだけ目を伏せる。
「……そうかもしれません」
「だから周りを頼るの」
「はい」
その返事は以前より素直だった。
午後。
会議準備が本格化する。
資料配布。
順番確認。
出席者調整。
来客対応。
役員スケジュールの最終確認。
秘書課全体の空気が、再び緊張感を帯び始める。
榮助は会議室と秘書課を何度も往復する。
無駄のない動き。
必要な情報だけを持って移動する。
途中で健二郎とすれ違う。
「問題ないか」
「問題ありません」
「そうか」
会話はそれだけ。
だが互いに十分だった。
その途中で、菫とすれ違う。
一瞬だけ目が合う。
何も言わない。
ただ、それだけ。
それでも、二人にとっては十分なやり取りだった。
夕方近く。
外の光が少し傾き始める。
窓の外の空がゆっくりと色を変えていく。
美枝子が資料をまとめながら言う。
「今日の会議はこれで終わりね」
菫は小さく頷く。
「はい」
榮助も短く返す。
「終了予定通りです」
「お疲れ様」
美枝子が穏やかに言う。
一日の“山場”はすべて終わった。
だが誰も気を抜かない。
それが秘書課だった。
帰宅準備の時間。
菫はバッグを閉じる。
一瞬だけ、昨日の出来事が頭をよぎる。
だがすぐに消える。
(もう終わった)
(今は、今を考えよう)
榮助が近くで言う。
「本日の業務は問題ありませんでした」
菫は少しだけ笑う。
「そうですね」
「桜ちゃんのお迎え、行きましょうか」
「ええ」
短い会話。
だが、その内容はもう完全に家族のものだった。
外は夕方の光。
ビルの窓がオレンジ色に染まり始めている。
何も起きていないようで、
確かにいろいろなことが整えられた一日だった。
そして今日もまた、
二人はそれぞれの仕事を終え、
同じ場所へ帰っていくのだった。
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