第88話 「秘書課の静かな午前――共有される情報とされない感情」
朝の龍雷神本社ビルは、いつも通りに整っていた。
ガラス張りのエントランスから差し込む光は明るいが、空気そのものは冷静で、どこか機械的な秩序を保っている。
社員たちはそれぞれの役割に従い、同じ速度で動いていた。
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秘書課。
その一室は、外の流れとは少しだけ切り離されたような静けさがあった。
書類の束、ノートPC、予定表、電話機。
すべてが“正確に置かれた状態”で存在している。
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菫はデスクに座り、昨日の件の報告書をまとめていた。
表情は落ち着いているが、指先の動きはいつもより少しだけ慎重だった。
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(業務として整理する)
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そういう意識が、彼女の中で自然に働いていた。
感情ではなく、事実として処理する。
それがこの会社での立ち位置を保つための方法でもあった。
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そこへ、美枝子が入ってくる。
書類を一枚手に持ったまま、いつもの穏やかな表情。
だが、菫の顔を見た瞬間だけ、わずかに視線が止まる。
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「……昨日、何かあったの?」
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声は低く、周囲に聞こえないように調整されていた。
菫は一瞬だけ迷うが、すぐに答える。
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「実は……元旦那が来ました」
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その一言で、美枝子の動きが止まる。
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「……来た?」
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菫は小さく頷く。
「連絡なしで、家に」
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美枝子はゆっくり息を吐く。
そして周囲を確認してから、さらに声を落とす。
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「それ、榮助は知ってるの?」
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その名前が出た瞬間、空気が少しだけ変わる。
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菫は答えようとしたが、その前に——
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「はい」
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横から声が入る。
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榮助だった。
秘書課の入口から入ってきたばかりで、手には資料を持っている。
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歩く速度も、表情も、いつも通り。
昨日の件を特別視する様子はない。
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美枝子は少しだけ目を細める。
「……知ってたのね」
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榮助は短く頷く。
「はい。昨日の件は把握しています」
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そして、淡々と続ける。
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「ただし、元旦那さんの顔や詳細については知りません。業務上の情報共有も受けていません」
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その言い方は、あくまで“事実の整理”だった。
感情は一切含まれていない。
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美枝子は少しだけ表情を和らげる。
「そう……」
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菫はその横で、静かに榮助を見る。
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榮助はすでに資料のページをめくっている。
まるで今の会話が業務の一部であったかのように。
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「本件については、家庭内の問題として処理されています」
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そう付け加え、視線も上げずに言う。
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「業務への影響はありません」
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その一言は、明確な線引きだった。
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美枝子は少しだけ黙る。
そして、静かに頷いた。
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「……分かったわ」
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その後、空気は自然に戻っていく。
誰もその話題を引きずらない。
それが秘書課の暗黙のルールだった。
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菫は報告書を閉じる。
美枝子は別の書類へ移る。
榮助はすでに次のスケジュール確認をしている。
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何事もなかったように、時間が進む。
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しばらくして、美枝子がふと小さく言う。
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「昨日の件……大変だったわね」
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菫は一瞬だけ手を止める。
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「……はい。でも、もう終わりました」
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その返答に、美枝子は軽く頷く。
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「ならいいわ」
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そのやり取りの間も、榮助は業務を続けていた。
資料整理、予定確認、電話対応の下準備。
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だが一度だけ、菫の方に視線を向ける。
ほんの一瞬。
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そしてすぐに戻す。
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昼前。
向葵が入ってくる。
「午後の役員資料、確認お願い」
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菫は頷く。
「はい」
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榮助も短く返す。
「承知しました」
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そのまま業務は続いていく。
昨日の出来事は、誰の中にも残っている。
だが、それを表に出す者はいない。
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秘書課という場所は、
“知っていても言わないこと”で成り立っている。
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そしてもう一つ。
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“言わなくても守られていること”でも成り立っていた。
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昼休み前。
菫は一度だけ窓の外を見る。
空は晴れている。
何も変わらない午後が来ようとしている。
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(もう大丈夫)
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そう心の中で静かに思う。
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榮助はその横で、次の予定を確認している。
美枝子は会議室へ向かう準備をしている。
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何も特別なことは起きない。
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ただそれが、この世界の“安定”だった。
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