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第87話 「昼の訪問者――過去が部屋に入り込む瞬間」


もちろんです。流れを崩さず、感情描写を少し増やした形にすると、次のようになります。


帰宅直後の部屋は、まだ旅の余韻を少しだけ残していた。


荷物は完全には片付いておらず、ソファの上には桜の小さなバッグが置かれたまま。


キッチンには水が張られたコップ、テーブルには未整理の書類。


それでも空気はどこか穏やかで、「日常に戻ったばかり」の柔らかさがあった。


桜はソファでくつろぎながらテレビを見ている。


菫はキッチンで簡単な片付けをしていた。


榮助はその様子を一度確認し、静かに動線を整えている。


「問題ありません」


誰に向けたでもないような声が小さく落ちる。


その時だった。


インターホンが鳴った。


「……?」


菫の手が一瞬止まる。


榮助も顔を上げる。


桜もテレビから視線を外す。


再び、インターホン。


少しだけ強め。


菫はゆっくりと玄関へ向かう。


モニターを見る。


そこに映っていたのは――


元旦那だった。


一瞬、空気が止まる。


「……なんで」


菫の声はほとんど音にならない。


玄関の前で、元旦那は軽く手を振っていた。


まるで「近所に来たから寄った」程度の軽さだった。


菫は一度目を閉じる。


そしてインターホン越しに言う。


「……今日は連絡もなく来る日じゃないはずです」


元旦那は笑う。


「ちょっと荷物取りに来ただけだよ」


その言葉に、菫は一瞬黙る。


家の中に、彼の私物がまだ残っている。


それは事実だった。


「……分かりました」


菫は短く答え、玄関を開ける。


ドアが開いた瞬間、元旦那は中を見回す。


視線がまず桜へ向かう。


次に菫へ。


そして部屋全体へ。


その視線は落ち着いているようでいて、どこか探るような重さを持っていた。


「元気そうじゃん」


軽い口調。


菫は表情を変えない。


「用件は?」


元旦那は肩をすくめる。


「荷物。あとちょっと整理しに来ただけ」


そして勝手に靴を脱ぎ、部屋へ入る。


その瞬間、榮助が動こうとする。


玄関の奥で静かに一歩前へ出る。


しかしその直前。


菫のスマートフォンが小さく震えた。


『元旦那には君との結婚してる事は伏せるから来ないで』


菫からの短いメッセージ。


榮助はそれを一瞬で確認する。


動きが止まる。


(了解)


それだけを思考の中で処理し、彼は玄関の奥に戻る。


だが、その視線だけは一度も元旦那から外さなかった。


もし何かあれば、すぐに動けるように。


元旦那はリビングを歩き回りながら、収納棚を開ける。


「これまだあったんだ」


「これもか」


まるで自分の空間を確認するように、淡々と物をリュックに入れていく。


桜はソファの上でじっとそれを見ている。


少しだけ不安そうな顔。


菫はその横で、静かに立っている。


元旦那の視線が何度も菫に向く。


そして桜にも向く。


「大きくなったな」


軽い言い方。


だが距離は遠い。


菫は何も返さない。


桜もまた、言葉を返さなかった。


その沈黙が、今の関係をすべて表していた。


しばらくして、元旦那はリュックを閉める。


「これで終わりだな」


菫は短く言う。


「確認は終わりましたか」


元旦那は笑う。


「まあね」


そして、ふと思い出したように言う。


「あの時一緒にいた女さ」


菫の目がわずかに動く。


元旦那は笑顔のまま続けた。


「今、赤ちゃんできたわ」


その言葉は軽かった。


喜びを隠す気もない。


むしろ勝ち誇るような明るさすらあった。


菫は何も言わない。


ただ一瞬だけ目を伏せる。


桜はその空気を理解できず、じっと見ている。


数分後。


元旦那はリュックを背負う。


「じゃ、またな」


そしてそのまま玄関へ向かう。


ドアが閉まる。


カチリ。


完全な静寂。


二時間も経っていない。


しかし部屋の空気は明らかに変わっていた。


菫はその場に立ったまま動かない。


桜もソファの上で静かになる。


時間だけが少し重く流れる。


その頃。


榮助は隣の部屋で状況を確認していた。


ドアが閉まった音を聞く。


(退出確認)


そしてすぐに立ち上がる。


菫の部屋のドアが開く。


榮助が入る。


リビング。


菫はテーブルの椅子に座り、うつむいている。


桜はその横で小さく立っている。


空気が重い。


榮助は一度だけ状況を見て、静かに桜の前にしゃがむ。


そしてそっと抱き上げる。


桜は驚きながらも、すぐに抱きついた。


「……おにいちゃん」


不安そうな小さな声。


榮助は桜の背中をゆっくりと撫でる。


「大丈夫です」


短い言葉だった。


だが、その声はいつも以上に優しかった。


榮助は菫を見る。


数秒の沈黙。


そして言う。


「今回は……少し長めでもいいですか」


菫はゆっくりと顔を上げる。


何も言わない。


ただ、小さく頷いた。


榮助は桜を抱いたまま、菫の前に歩く。


そして静かに距離を詰める。


菫の額に、短く、しかし深く落ちるキス。


一度では終わらない。


もう一度。


今度は少し長く。


菫の肩の力が、ゆっくりと抜けていく。


桜はその間、榮助の腕の中で静かにしている。


キスが終わると、榮助は少しだけ離れる。


そして低い声で言う。


「問題ありません」


菫は小さく息を吐く。


「……ありがとう」


部屋の空気が、ゆっくりと戻っていく。


重さが少しずつ薄れる。


桜は榮助の腕の中で小さく言う。


「……もう帰ったの?」


榮助は頷く。


「はい。終了しています」


桜は安心したように榮助へ抱きついた。


菫はゆっくり立ち上がる。


テーブルに手をつく。


「……少しだけ、疲れました」


榮助は即答する。


「休息を推奨します」


その言葉に、菫は小さく笑った。


「相変わらずですね」


「事実です」


窓の外は静かに明るさを戻していた。


何事もなかったように、昼は続いている。


だがこの部屋だけは、確かに一度“過去”が通り過ぎた。


そして今、それはもう戻らない場所へと消えていた。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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