第85話 「夜の湯――貸切という小さな世界」
ホテルの案内に従って向かった先は、館内の奥まった場所にある貸切露天風呂だった。
木の廊下を進むと、静かな灯りに照らされた個室の入口が並んでいる。
「貸切露天風呂・一時間三千円〜四千円」
事前に説明されていた通り、家族単位で使える小さな空間だった。
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「ここですね」
榮助が淡々と言う。
菫は少しだけ周囲を見回す。
「……本当に貸切なんですね」
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桜はすでに楽しそうに入口を見上げている。
「おふろー!」
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三人はそのまま更衣室へと入る。
木の香りがする落ち着いた空間だった。
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着替えが始まる。
桜は慣れたように自分で服を脱いでいく。
菫は少しだけ視線を気にしながら動きを止める。
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「……男の人がいると、なんか恥ずかしいですね」
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ぽつりと漏れたその言葉に、榮助は一瞬だけ動きを止める。
だがすぐに平常の声で返す。
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「もう何回も見ていますし、特に問題はありません」
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あまりにも事実ベースの返答だった。
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菫は顔を真っ赤にする。
「そういう意味じゃなくて……!」
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榮助は少しだけ視線を上げる。
「体調は大丈夫ですか」
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その一言で、空気が少しだけ切り替わる。
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菫は一瞬固まり、それから慌てて答える。
「だ、大丈夫ですよ……!」
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桜はそのやり取りを気にせず、すでにタオルを持って走り回っている。
「早くおふろ入ろー!」
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露天風呂は外に開かれた岩風呂だった。
夜風がわずかに肌に触れ、湯気がゆっくりと立ち上る。
星が少しだけ見える空。
静かだが、完全に閉じた世界だった。
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「温度、問題なし」
榮助が湯に手を入れて確認する。
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「もう仕事じゃないんですから……」
菫が小さく言う。
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まずは三人で体を流す。
桜は楽しそうにシャワーを使い、
「ママ見てー!」
と何度も呼ぶ。
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菫はそのたびに優しく対応しながら、自分の髪を濡らしていく。
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榮助は淡々と動きながらも、桜の安全と菫の体調を同時に確認していた。
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「滑りやすいので気を付けてください」
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「わかってます」
菫が軽く返す。
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湯船に入る。
「はぁ……」
桜がすぐに声を漏らす。
「気持ちいい!」
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菫もゆっくりと肩まで浸かる。
「……落ち着きますね」
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榮助は隣で静かに座る。
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しばらくの間、誰も多くは話さない。
ただ湯の音だけが響く。
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やがて、菫が少しだけ榮助の方を見る。
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榮助も視線を返す。
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次の瞬間。
ごく自然に距離が縮まる。
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軽いキス。
湯気の中で、静かに交わされる短い接触。
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桜は少し離れた場所で遊んでいる。
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菫は小さく息を吐く。
「……ここでもするんですね」
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榮助は淡々と答える。
「距離が近いため、自然です」
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その後も何度か。
軽いキスと、ほんの少し濃いめの接触。
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会話はほとんどない。
ただ、空気が少しずつ“慣れたもの”になっていく。
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湯から上がる頃には、三人ともゆっくりと温まっていた。
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体を洗い直し、シャンプーでもう一度髪を整える。
泡と湯気の中で、日常の延長のように時間が過ぎる。
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風呂から上がると、脱衣所で身体を拭く。
木の床が少し冷たい。
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菫が髪を拭いていると、榮助がタオルを取る。
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そして何も言わず、菫の髪をドライヤーで乾かし始める。
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「……自分でできますけど」
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「効率的です」
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機械的な返答。
しかしその手は丁寧だった。
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温風の音だけが響く中。
菫は少しだけ目を閉じる。
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その瞬間だった。
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榮助が少しだけ顔を近づける。
そして短く、濃いめのキス。
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ドライヤーの音の中で、静かに重なる時間。
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菫は驚きながらも、すぐには離れなかった。
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「……今、それ必要ですか?」
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榮助は少しだけ考えてから言う。
「必要ではありませんが、自然でした」
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菫は小さくため息をつく。
「もういいです……」
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全てを終えた後。
三人は売店へ向かう。
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自動販売機で牛乳を買う。
「お風呂上がりはこれ」
桜が嬉しそうに言う。
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菫も一本手に取る。
榮助も無言で受け取る。
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部屋に戻ると、夜は完全に深くなっていた。
テレビは消され、灯りも落ちる。
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桜はすぐにベッドへ。
「もう眠い……」
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菫が布団をかける。
「おやすみ」
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榮助は静かに一言。
「おやすみなさい」
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そして三人は、それぞれの呼吸の中で眠りに落ちていく。
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夜は静かに閉じていく。
貸切露天風呂で始まった小さな時間は、そのまま家族の夜へと溶けていった。
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