第79話 「夜の静けさ――湯船に沈む鼓動と、同じ温度」
マンションに戻ったとき、夕方の名残はすでに薄れていた。
廊下の明かりはやや落ち着いた色に変わり、外の世界と切り離されたような静けさが部屋の中に広がっている。
三人はそれぞれの動きで、ゆっくりと“家の時間”へ戻っていった。
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桜は靴を脱いだ瞬間から眠気が勝っていた。
「……もう眠い……」
そのままリビングを横切り、ベッドに倒れ込むように横になる。
菫が慌てて毛布をかける。
「ちゃんと寝なさい」
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「うん……」
桜はそれだけ言うと、すぐに目を閉じた。
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その様子を見て、榮助は静かに言う。
「今日はよく動いていましたからね」
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菫は小さく頷く。
「公園、楽しかったみたい」
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「それが一番です」
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その会話は、もう“日常の締め”のように自然だった。
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軽めの夕飯は、静かに終わった。
・うどん
・野菜の煮物
・おにぎり少し
派手さはないが、体に負担をかけない構成。
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食器を片付けながら、菫は一度だけ榮助を見る。
「……お風呂、入りますか」
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その言葉は少しだけ控えめだった。
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榮助は一瞬だけ動きを止める。
そして短く頷く。
「はい」
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菫の部屋。
その後ろで、桜の寝息がすでに安定している。
完全に眠りに落ちた音だけが、静かに部屋を満たしていた。
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菫は榮助の部屋の前で立ち止まる。
「……じゃあ」
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榮助は一歩近づく。
そして言葉の代わりに、軽く唇を重ねる。
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最初は短く。
だがすぐに、少しだけ深くなる。
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静かな夜に馴染むような、長すぎない“濃いめのキス”。
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離れたあと、榮助は小さく言う。
「ありがとうございます」
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菫は一瞬だけ視線を逸らす。
「……お礼を言うことじゃないです」
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それでも、どこか柔らかい空気だった。
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浴室。
湯気がゆっくりと立ち上る。
照明は少し落とされ、白い光が水面に揺れている。
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湯船に並んで座る二人。
肩まで沈めると、外の音はほとんど消える。
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榮助は自然に菫の方へ視線を向ける。
そして、何も言わずにそっと距離を詰める。
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軽く唇を重ねる。
湯気の中で、温度だけが確かに交わる。
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菫は一瞬だけ目を閉じる。
「……ん……」
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離れたあと、榮助は視線を下げる。
菫のお腹へ。
ゆっくりと手を伸ばす。
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そこに触れる動きは、乱れたものではなく、確認に近い静かなものだった。
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「……大丈夫ですね」
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菫は小さく息を吐く。
「ええ……今日は落ち着いてる気がします」
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榮助はもう一度、軽くキスをする。
今度は先ほどより少しだけ長く。
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菫の指先が、湯の中でわずかに動く。
拒むわけではないが、完全に慣れたわけでもない。
その境界が、まだ少しだけ残っている。
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風呂を上がると、夜はさらに深くなっていた。
湿気を含んだ髪をタオルで押さえながら、菫は静かに言う。
「今日は……私の部屋で寝ませんか」
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榮助はすぐには答えない。
少しだけ間を置いてから、頷く。
「分かりました」
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菫の部屋。
桜はすでに完全に眠っている。
規則正しい寝息だけが、部屋の中心にある。
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ベッドの横に座る二人。
電気は落とされ、窓の外の街灯がわずかにカーテンを透かしている。
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菫は小さく息を吐く。
「今日は……よく動きましたね」
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榮助は頷く。
「休日としては適切でした」
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菫は少しだけ笑う。
「評価みたいですね」
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榮助は視線を上げる。
「そういうつもりではありません」
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その言葉のあと、静かに間が落ちる。
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菫はゆっくりと榮助の方へ体を向ける。
そして、小さく距離を詰める。
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唇が触れる。
今度は“おやすみ”に近い、静かなキス。
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一度離れたあと、もう一度だけ。
今度は少しだけ長く。
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菫は小さく言う。
「……おやすみなさい」
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榮助は短く答える。
「おやすみなさい」
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横になると、二人の距離はわずかに近いままだった。
だが、それ以上は動かない。
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天井の暗さの中で、菫が静かに呟く。
「ねえ……」
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榮助は目を閉じたまま応える。
「はい」
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菫は少しだけ間を置く。
「……このままで、いいんですよね」
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榮助はすぐには答えない。
そして、ゆっくりと言う。
「今は、それで問題ありません」
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その返事に、菫は小さく息を吐く。
「……そうですか」
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少しだけ沈黙。
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そして榮助が、もう一度だけ短く言う。
「隣にいる限り」
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菫は目を閉じる。
その言葉の意味を、ゆっくり受け止めるように。
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「……おやすみなさい」
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「おやすみなさい」
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夜は、完全に静かになる。
呼吸だけが重なり合いながら、同じ時間の中に溶けていく。
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それはまだ“完成”ではないが、
確かに“続いている関係”だった。
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