第80話 「朝の出発――小さな旅の始まり」
朝は、まだ少しだけ柔らかい光を残していた。
窓の外には淡い雲が広がり、街は休日特有のゆっくりとした呼吸をしている。
平日とは違う時間の流れ。
それが、今日という日の始まりだった。
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菫はキッチンで荷物の最終確認をしていた。
小さなトートバッグの中には、必要最低限のものが整然と入っている。
・飲み物
・タオル
・簡単な薬
・桜の着替え
・母子手帳(念のため)
妊娠中ということもあり、自然と“準備の精度”が上がっていた。
無駄を削り、必要だけを残す。
それは仕事でも家庭でも変わらない癖だった。
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「忘れ物は……ないわね」
小さく呟いた瞬間、後ろから足音が聞こえる。
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榮助がリビングに入ってくる。
すでに軽装の私服。
仕事のときとは違い、少しだけ“人間らしい柔らかさ”がある。
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「おはようございます」
榮助の声はいつも通り落ち着いている。
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「おはようございます」
菫も自然に返す。
もう、このやり取りは生活の一部だった。
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テーブルの方では桜が椅子に座りながら足を揺らしている。
完全に目は覚めていないが、どこか楽しそうだった。
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「今日はどこ行くの?」
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桜の問いに、菫は優しく答える。
「少し遠くの場所よ。お出かけ」
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「おでかけ!」
桜の声が一気に明るくなる。
その反応に、榮助はわずかに視線を落とす。
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「移動時間は長くなりますか」
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「二時間ほどかしら」
菫が答えると、榮助は短く頷いた。
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「問題ありません」
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その言い方は、いつも通り“仕事のような整理された判断”だった。
だが今日は、それが少しだけ違う意味を持っている。
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“家族で出かける日”
それだけで、判断基準が少し変わっていた。
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朝食は軽めだった。
・おにぎり(鮭・梅)
・卵焼き
・味噌汁
・水
桜の分は少しだけ甘めに調整されている。
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「おいしい!」
桜が嬉しそうに言うと、菫は微笑む。
「よかったわ」
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榮助は静かに食べながら、時折桜の様子を見る。
その視線は仕事の監視ではなく、単なる“確認”に近いものだった。
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食事が終わると、出発準備に入る。
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桜は小さなリュックを背負う。
中身はお菓子とおもちゃ。
それだけで満足そうだった。
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「準備できたわね」
菫が確認すると、桜は元気よく頷く。
「できた!」
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榮助は玄関で靴を整える。
そして一度だけ家の中を見渡す。
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(問題なし)
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その短い確認のあと、静かに言う。
「行きましょう」
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菫が桜の手を取る。
そして三人は玄関を出た。
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外の空気は少しだけ冷たく、しかし心地よかった。
朝の光が道路をゆっくりと照らしている。
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桜は真ん中で歩きながら、楽しそうに言う。
「今日はずっと一緒?」
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その問いに、菫は少しだけ間を置いて答える。
「ええ、今日はずっと一緒よ」
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榮助はその言葉を聞きながら、前を見ている。
だが、その横顔はいつもよりわずかに緩んでいた。
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(今日は移動日)
(業務はない)
(家庭だけの時間)
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その事実は、彼にとってまだ完全には慣れていない領域だった。
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駅へ向かう道。
車の音。
通り過ぎる人々。
それらすべてが、日常でありながら“非日常”に見える。
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桜は途中で小さく跳ねる。
「たのしみ!」
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菫はその姿を見て、静かに微笑む。
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榮助はその二人の間を歩きながら、ふと一言だけ呟く。
「安全に進行します」
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菫は少しだけ苦笑する。
「旅行よ、それ」
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「理解しています」
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短い会話。
それでも、そのやり取りが自然だった。
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駅に着くと、人の流れが少し増える。
休日特有のざわめき。
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切符を買い、ホームへ向かう。
電車を待つ時間。
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桜はベンチに座りながら足を揺らしている。
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菫はその隣に座り、少しだけ空を見上げる。
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榮助は立ったまま周囲を確認している。
いつもの癖。
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だが今日は、それが“守る”ための動きではなく、“一緒にいるための動き”になっていた。
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電車がホームに入る。
風が少しだけ流れる。
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桜が嬉しそうに立ち上がる。
「きた!」
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菫は立ち上がり、軽く桜の手を握る。
榮助もその横に立つ。
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三人は同時に電車へと乗り込んだ。
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扉が閉まる音。
そしてゆっくりと動き出す車両。
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窓の外に流れる街並み。
その中で、朝という時間は少しずつ“移動”していく。
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菫は小さく息を吐く。
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(今日は、少しだけ違う日になる)
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その予感だけが、静かに胸の中に残っていた。
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