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第76話 「静かな土曜――重なる朝の習慣」


土曜日の朝は、平日とはまるで違う。


目覚ましの音が鳴らないだけで、空気の質が少しだけ柔らかくなる。


カーテンの隙間から差し込む光も、どこか急かすような鋭さがなく、ただ静かに部屋全体を満たしていた。


⸻


キッチンには、いつも通りの朝食の準備が並んでいる。


・味噌汁(豆腐とわかめ)

・焼き鮭

・卵焼き(少し甘め)

・白米

・ほうじ茶


平日よりも、少しだけ“余裕”のある配置。


それは休日という時間がもたらす、小さな変化だった。


⸻


菫(すみれ)はエプロン姿のまま、鍋の火を止める。


「……今日はゆっくりできそうね」


小さく呟いたその声は、誰に向けたものでもない。


だが、背後からすぐに返事があった。


⸻


「おはようございます」


⸻


振り返ると、榮助(えいすけ)がすでに起きていた。


スーツではない。


休日用の落ち着いた服装。


それだけで、いつもの“仕事の顔”とは違う印象になる。


⸻


菫は少し驚いたように目を瞬かせる。


「早いですね」


⸻


榮助は淡々と答える。


「習慣です」


⸻


その言葉に、菫は小さく笑う。


「便利な習慣ですね」


⸻


⸻


テーブルに朝食が並ぶ。


三人分。


少し遅れて、桜(さくら)も目をこすりながら出てくる。


「……おはよう」


⸻


「おはよう、桜」


菫が優しく声をかける。


⸻


桜は椅子に座りながら、すぐに周囲を見回す。


「今日はお休みの日だよね?」


⸻


「そうよ」


菫が答えると、桜は嬉しそうに頷く。


「じゃあずっと一緒?」


⸻


榮助が短く言う。


「はい」


⸻


その一言だけで、桜は満足そうに笑った。


⸻


⸻


朝食が始まる。


静かな食卓。


だがその静けさは、気まずさではない。


むしろ、馴染みきった安心感だった。


⸻


榮助は味噌汁を一口飲み、ふと動きを止める。


そして次の瞬間――


何気ない動作のように、菫の方へ身を寄せる。


⸻


菫が気付くより先に、軽く唇が触れた。


⸻


短いが、はっきりとしたキス。


朝の挨拶のように自然で、それでいて少しだけ熱を含んでいる。


⸻


「……っ……」


菫は一瞬言葉を失う。


⸻


桜はそれを見て目を輝かせる。


「ママ、キスしてる!」


⸻


その声に、菫は慌てて小声で言う。


「ちょっと……桜、見てるから……」


⸻


だが榮助は動じない。


むしろ自然に、もう一度軽く菫の唇に触れる。


今度は少しだけ長く。


⸻


菫は視線を逸らしながらも、抵抗するわけではない。


ただ顔がほんのり赤くなる。


⸻


榮助は静かに言う。


「おはようございます」


⸻


その言葉は、さっきのキスと完全に繋がっていた。


挨拶として成立してしまっているのが、逆に日常的だった。


⸻


桜は楽しそうに笑う。


「お兄ちゃんとママ、いつも仲良いね!」


⸻


菫は困ったように視線を落とす。


「桜……」


⸻


だが榮助は淡々としている。


そのまま椅子に座り直し、再び食事を続ける。


まるで何も特別なことはなかったかのように。


⸻


⸻


しばらくして。


榮助はふと動きを止める。


そして自然な流れで、菫の方へ手を伸ばす。


⸻


今度はキスではない。


菫のお腹へとそっと耳を当てる。


⸻


静かに、ゆっくりと。


まるで“確認する”ような仕草だった。


⸻


榮助は目を閉じる。


しばらくそのまま動かない。


⸻


菫は小さく息を吐く。


「……どうですか?」


⸻


榮助は少し間を置いてから答える。


「問題ありません」


⸻


その言い方は医師のようでいて、どこか家族的でもあった。


⸻


桜が首を傾げる。


「赤ちゃん、元気?」


⸻


榮助は目を開けて頷く。


「元気です」


⸻


その言葉に、桜は満足そうに笑う。


「よかった!」


⸻


⸻


朝食の後。


片付けの音がキッチンに響く。


水の流れる音、食器の触れ合う音。


休日特有のゆっくりしたリズム。


⸻


菫が振り返ると、榮助が立っている。


そして一言だけ言う。


⸻


「今日は一日、いられますね」


⸻


菫は少しだけ間を置いて頷く。


「そうですね」


⸻


その返事には、仕事の緊張がない。


ただの“家族の時間”としての肯定だった。


⸻


榮助は少しだけ近づく。


そして低い声で言う。


「……菫さん」


⸻


「はい?」


⸻


榮助は一瞬だけ視線を落とし、それからまっすぐ見つめる。


「大好きです」


⸻


その言葉は、朝の光の中でやけに静かだった。


派手さもなく、誇張もなく。


ただ、確かな事実のように置かれる。


⸻


菫は一瞬だけ固まる。


そして小さく息を吐いて、視線を逸らす。


「……もう、急にそういうこと言わないでください」


⸻


だがその声は、怒ってはいない。


むしろ柔らかかった。


⸻


桜が笑う。


「ママ、また赤くなってる!」


⸻


菫は軽くため息をつく。


「桜まで……」


⸻


榮助はその様子を見て、わずかに目を細めるだけだった。


それ以上は何も言わない。


ただ、そこにいる。


それだけで十分だった。


⸻


⸻


朝はまだ続く。


時計はゆっくりと進み、休日という時間が静かに広がっていく。


この家にとっての“特別ではない特別な一日”が、ゆっくりと始まっていた。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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