第75話 「夕方の帰路――静かに増えていく“日常の重み”」
夕方。
龍雷神本社ビルの窓は、橙色にゆっくりと染まり始めていた。
昼の喧騒が少しずつ引いていき、代わりに“帰る準備”の空気が社内に流れ込んでくる。
その切り替えの時間は、どこか一日の中で最も人間らしい。
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秘書課フロア。
キーボードの音が減り、紙の整理音が目立ち始める。
菫は最後のチェックリストを確認していた。
隣では美枝子が資料をまとめている。
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「今日の分はここまでで大丈夫ね」
美枝子の声はいつも通り落ち着いている。
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菫は小さく頷く。
「はい。ありがとうございました」
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その声には、以前よりも少しだけ“疲れを隠す慣れ”が混ざっていた。
それでも崩れてはいない。
むしろ、静かに安定している。
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そこへ向葵が戻ってくる。
手には最終確認用の書類。
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「これ、明日の分まで整理しておいた」
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菫は受け取りながら頭を下げる。
「ありがとうございます」
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向葵は少しだけ視線を落とす。
もう以前の“観察”ではない。
どちらかというと“確認”に近い。
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「体調は?」
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短い問い。
だがそこには仕事以上の意味が含まれている。
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菫は一瞬だけ間を置く。
「大丈夫です。問題ありません」
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向葵は軽く頷く。
「ならいい」
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それ以上は何も言わない。
その距離感が、今の秘書課の“新しい均衡”だった。
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同じ頃。
少し離れた役員フロアでは、櫻井健二郎が書類を確認していた。
そこへ美枝子が通りかかる。
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「まだ残るの?」
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健二郎は顔を上げる。
「少しだけな」
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美枝子はため息混じりに笑う。
「あなた、“少しだけ”が長いのよ」
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健二郎は短く鼻で笑う。
「昔からだ」
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そのやり取りは、役員同士というよりも家族に近い。
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美枝子は書類を横目に見ながら言う。
「菫のこと、気にしてるでしょ」
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健二郎は少しだけ沈黙する。
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「……気にしてるというより、見てるだけだ」
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「それを気にしてるって言うのよ」
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美枝子の即答に、健二郎はわずかに口元を緩める。
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「無理させるな。それだけだ」
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「もう言われなくてもやってるわ」
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夕方の秘書課。
向葵がふと時計を見る。
「そろそろ、終わりね」
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その言葉に、空気が一気に“帰宅方向”へ動き出す。
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菫はデスクを片付けながら、ふと手を止める。
その瞬間、軽い倦怠感が一瞬だけ身体を横切る。
だが、表には出さない。
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(大丈夫)
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そう心の中でだけ確認する。
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同じ頃。
榮助は別フロアで資料を整理していた。
向葵が通りかかる。
「まだ残るの?」
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榮助は淡々と答える。
「迎えがありますので、ここで終わります」
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その言葉に向葵は少しだけ笑う。
「完全に生活優先ね」
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「効率です」
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即答だった。
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向葵は肩をすくめる。
「それが一番厄介」
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夕方のビルを出る頃、空はすでに赤みを帯びていた。
風は少し冷たい。
冬とまではいかないが、確実に季節は進んでいる。
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保育園前。
榮助は桜を迎えに来ていた。
門から飛び出す小さな足音。
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「お兄ちゃん!」
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自然に抱き上げる。
その動作はもう完全に習慣になっている。
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「今日はどうでしたか」
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「いっぱい遊んだ!」
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その答えに榮助は軽く頷く。
「それは良いですね」
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桜は少しだけ周囲を見てから言う。
「ママは?」
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「もう少しで帰ります」
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その言葉に安心したように桜は笑う。
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同じ時間。
菫は会社を出る準備をしていた。
美枝子が横で言う。
「送る?」
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「大丈夫です。榮助さんが迎えに来ますので」
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その言葉に美枝子は軽く頷く。
「完全に生活完成してるわね」
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菫は少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「そう、見えますか」
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「見える」
即答だった。
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会社の外。
菫が出てくると、すぐに桜の声が響く。
「ママー!」
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桜は駆け寄る。
その後ろに榮助。
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菫は自然に足を止める。
その瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
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「おかえりなさい」
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榮助は短く言う。
「おかえりなさい」
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その言葉の交換が、今のこの家の“中心”になっていた。
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帰り道。
三人で歩く。
桜が話す。
「今日ね、先生がね……」
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その声を聞きながら、菫は横を歩く榮助を一瞬だけ見る。
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何も特別なことは起きていない。
それなのに、以前より“重み”がある日常。
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(これが、家族)
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そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
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夜。
家に戻ると、夕飯の準備が進む。
榮助がキッチンに立つ。
菫は桜を座らせる。
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この流れももう完全に自然だった。
誰がどこに立つか迷わない。
誰が何をするかも決まっている。
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桜がふと笑う。
「今日も一緒だね」
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その言葉に、菫と榮助は同時に小さく頷く。
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「ええ」
「そうですね」
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それだけで十分だった。
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夕食の匂いが部屋に広がっていく。
外の夜は静かに深まっていく。
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そしてまた、次の朝へと続いていく。
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