第74話 「昼の境界線――会社という日常のもう一つの顔」
夜が完全に明けきる前、龍雷神本社ビルの窓はまだ薄い群青色を映していた。
外の街はすでに動き始めているはずなのに、このフロアだけは別の時間帯に取り残されているように静かだった。
秘書課の空気は、いつも通り整然としている。
紙の擦れる音、キーボードの規則的な打鍵、淡々とした報告のやり取り。
その中で、柊木菫は美枝子の隣で資料を確認していた。
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「この件は、午後の会議までに整理しておくわね」
美枝子はさらりと言いながら、チェックリストに赤を入れていく。
菫は小さく頷く。
「はい、ありがとうございます」
その返事は以前よりも落ち着いている。
体調を崩さないようにという意識が、自然と動作にも言葉にも慎重さを与えていた。
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少し離れた席から、第一秘書の向葵が資料を持って歩いてくる。
いつも通りの歩調。
いつも通りの表情。
だが、菫のデスクの前で一度だけ足が止まった。
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向葵は、視線を落とす。
ほんの一瞬。
そして次の瞬間、その目は確かに“違和感”を捉えていた。
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「……柊木さん」
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菫は顔を上げる。
「はい」
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向葵の視線が、菫の体調の変化に向いているのを美枝子はすぐに察した。
一瞬の沈黙。
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そして向葵が静かに言う。
「……妊娠、してる?」
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菫の呼吸が一瞬だけ止まる。
その瞬間、美枝子がすぐに動いた。
椅子から少し身を乗り出し、はっきりとした声で言う。
「向葵さん」
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空気が一段階変わる。
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美枝子は菫の隣に立ち、向葵を見た。
「その通りよ。ただし——」
一拍置いて、続ける。
「まだ公にしていない話」
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菫は小さく息を呑む。
向葵は状況を理解する。
そして視線を少し下げる。
「……なるほど」
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その瞬間、美枝子はさらに言葉を重ねた。
「それともう一つ」
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向葵が顔を上げる。
美枝子はまっすぐに言った。
「菫のお腹の子の父親は、営業サポート課から来た榮助よ」
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その言葉に、室内の空気が一瞬だけ静止する。
向葵の目がわずかに揺れる。
「柿沼……榮助さん?」
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美枝子は頷く。
「ええ。だから余計に、今は慎重にしているの」
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菫は何も言えず、ただ静かにうつむく。
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向葵はしばらく黙ったあと、ゆっくりと息を吐く。
「……分かりました」
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だが次の瞬間、彼女の視線が菫へ向いた。
「確認だけ。本人は知ってるの?」
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菫が答えるより早く、美枝子が小さく頷く。
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同じフロア。
少し離れた通路から足音が響く。
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取締役・櫻井健二郎が現れる。
書類を持ったまま秘書課に入ると、状況を一目で把握するように視線を動かした。
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「何かあったか」
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美枝子はすぐに答える。
「少し説明していただけよ」
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健二郎は菫を一瞬見る。
「体調は?」
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「問題ありません」
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短いやり取りのあと、健二郎は向葵に視線を向ける。
「島津、午後の前に早めに一件処理しておけ」
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向葵は瞬時に理解する。
「早出ですか?」
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健二郎は頷く。
「会議準備が詰まっている。早く動けるならその方がいい」
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向葵は一拍置いて答える。
「承知しました」
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その後、健二郎は美枝子にだけ短く言う。
「無理させるなよ」
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美枝子は小さく笑う。
「あなたが言う?」
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健二郎はそれには答えず、書類を置いて去っていく。
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その背中を見送りながら、室内の空気が少しだけ緩む。
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向葵は菫に視線を戻す。
少しだけ間を置いて、静かに言った。
「柿沼さんに確認する」
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そのまま歩き出し、別フロアへ向かう。
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営業サポート課跡地に近い通路。
榮助は資料を運んでいたところで呼び止められる。
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「柿沼さん」
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向葵だった。
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彼女は真っ直ぐに聞く。
「確認したいことがある」
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榮助は足を止める。
「何でしょうか」
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向葵は一瞬だけ迷い、そして言った。
「菫さんのお腹の父親はあなたなの?」
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空気が止まる。
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榮助は少しも動じず、短く答えた。
「はい」
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それだけだった。
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向葵はその返答をしっかり受け取る。
「分かった」
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それ以上は聞かない。
ただ一つ頷き、静かに戻っていく。
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再び秘書課。
向葵は戻ると、美枝子に短く言う。
「確認しました」
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美枝子は軽く頷く。
「ありがとう」
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そして小さく付け加える。
「だから、なおさら内密にお願い」
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向葵は静かに答える。
「分かってる」
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午後。
空気は再び仕事に戻る。
だが、誰もが少しだけ“知っている状態”のまま動いている。
それでも口には出さない。
この会社のルールは変わらない。
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夕方。
窓の外の光が傾き始める。
健二郎が再び秘書課に現れる。
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「向葵」
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向葵はすぐに立つ。
「はい」
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健二郎は淡々と言う。
「明日は早出できるな?」
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向葵は一瞬だけ考える。
「可能です」
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健二郎は頷く。
「なら頼む。早めに回せる仕事は前倒しでやれ」
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それは命令というより“調整”だった。
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向葵は短く返す。
「承知しました」
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健二郎はそのまま美枝子の横を通る。
小さく言う。
「余計な負担は減らせ」
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美枝子は軽く笑う。
「それ、あなたにも言えるわよ」
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健二郎は何も返さず、去っていく。
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夕方の秘書課。
仕事は終わりに向かっている。
だが、その中で確実に変わったものがあった。
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“知っている人間が増えたこと”。
そしてそれでも崩れない、会社という日常。
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菫はデスクで静かに息を吐く。
美枝子が横で言う。
「大丈夫?」
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「はい……少しだけ」
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その声は以前より少しだけ強かった。
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外の空は、もう完全に夕方へ変わっていた。
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今日もまた、何も壊れないまま一日が終わる。
だが確かに、“何かが増えた一日”だった。




