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第73話 「朝の光と、変わらない習慣」


夜が完全に明けきる少し前、部屋の空気はまだ静かに冷たさを残していた。


カーテンの隙間から差し込む朝の光は細く、まるで部屋の輪郭だけをそっとなぞるように伸びている。


その中で、生活の音だけがゆっくりと動き始めていた。


⸻


キッチンでは菫(すみれ)が朝食の準備をしている。


・豆腐とわかめの味噌汁

・焼き鮭

・卵焼き(控えめな甘さ)

・白米(少量)

・ほうじ茶


妊娠してからというもの、食事の量も質も少しずつ“整える方向”に変わっていた。


派手さではなく、安定。


身体を守るための、静かな選択だった。


⸻


「……今日も大丈夫そうね」


菫は小さく呟き、味噌汁の火を止める。


その背後で、足音が一つ。


⸻


榮助(えいすけ)がリビングに入ってくる。


すでにスーツ姿。


ネクタイは締められているが、まだ完全な“出勤モード”ではない。


⸻


「おはようございます」


⸻


菫は振り返る。


「おはようございます」


⸻


そのやり取りは、もう自然すぎるほどに馴染んでいた。


⸻


テーブルには朝食が並ぶ。


榮助は椅子に座る前に一度だけ確認する。


「桜ちゃんはまだ寝ていますか」


⸻


「ええ。昨日少し遅くまで起きていたので」


菫は淡々と答える。


⸻


榮助は小さく頷く。


「では、起きてからでも間に合いますね」


⸻


その言葉に、菫はわずかに微笑む。


「最近、本当に段取りが上手ですね」


⸻


「必要に迫られているだけです」


⸻


榮助はそう言いながら味噌汁を口にする。


その動作に迷いはない。


まるで、生活そのものが“仕事の延長線”のように整理されている。


⸻


⸻


朝食が終わる頃。


寝室のドアが小さく開く。


桜(さくら)が眠そうな顔で出てくる。


「……おはよう」


⸻


菫はすぐに気づき、柔らかく声をかける。


「おはよう、桜」


⸻


榮助も椅子から立ち上がる。


「おはようございます」


⸻


桜は目をこすりながら、二人を交互に見る。


そして小さく笑う。


「今日も一緒だね」


⸻


その言葉は、何気ないようでいて、この家の全てを象徴していた。


⸻


⸻


支度の時間。


菫は桜の髪を整えながら言う。


「今日はママが送るわね」


⸻


榮助は少しだけ考えてから頷く。


「では、迎えは私が行きます」


⸻


その分担は、もはや自然なルールになっていた。


どちらかが必ず関わる。


どちらも桜の生活から外れない。


⸻


桜は嬉しそうに言う。


「じゃあ今日はママとお出かけだ!」


⸻


菫は小さく頷く。


「そうね」


⸻


その横で榮助は静かに鞄を持つ。


「では、行ってきます」


⸻


菫も一歩近づく。


そして、軽く唇を重ねる。


⸻


短く、自然に。


朝の習慣として定着した“行ってきますのキス”。


⸻


「行ってらっしゃい」


⸻


榮助は小さく頷く。


「行ってきます」


⸻


そして玄関の扉が静かに閉まる。


⸻


⸻


残された部屋で、桜が菫の手を握る。


「ママ、お出かけ楽しみ!」


⸻


菫は少しだけ微笑む。


「ええ、楽しみね」


⸻


その声には、以前より少しだけ“余裕”があった。


⸻


⸻


玄関を出たあと、廊下には一瞬だけ静寂が戻る。


ドアの閉まる音が遠くに消えたあと、残るのは生活の余韻だけだった。


菫はしばらくその場に立ったまま、わずかに息を吐く。


「……今日も、無事に行ってくれましたね」


⸻


桜はそんな菫の手をぎゅっと握ったまま、顔を見上げる。


「お兄ちゃん、今日もお仕事?」


⸻


「ええ、そうよ」


菫は自然に答える。


その声は、もう迷いのないものになっていた。


⸻


桜は少しだけ考えたあと、笑う。


「じゃあ、桜もがんばる!」


⸻


その言葉に、菫はわずかに目を細める。


「何を頑張るの?」


⸻


「いい子にするの!」


⸻


その単純な答えに、菫は小さく笑った。


「それはもう十分頑張ってるわね」


⸻


⸻


キッチンに戻ると、朝食の片付けが静かに始まる。


食器が水に沈む音だけが、規則的に響いている。


窓の外では車の音が遠くで流れていく。


それぞれが別の方向へ動き始める時間帯。


この部屋だけが、まだ少しだけ“止まっている”。


⸻


菫はふと、自分の手元を見つめる。


そこには確かに生活の跡がある。


家族の形になっていく日々の痕跡。


⸻


(これが……日常)


⸻


そう心の中で呟く。


その言葉に、違和感はもうほとんどなかった。


⸻


⸻


一方その頃。


龍雷神本社ビル。


榮助は秘書課フロアに到着していた。


エレベーターを降りると、すぐに資料整理の空気に包まれる。


静かだが、常に動いている場所。


⸻


「おはようございます」


向葵の声が横から飛ぶ。


⸻


「おはようございます」


榮助は短く返す。


⸻


向葵は資料を渡しながら、少しだけ視線を上げる。


「今日も早いね」


⸻


「いつも通りです」


⸻


その答えに、向葵は軽く笑う。


「ほんと、ブレないね」


⸻


榮助はそれ以上何も言わず、デスクへ向かう。


⸻


⸻


デスクに座ると、すぐに今日のスケジュールが頭の中で整理されていく。


会議。


資料確認。


役員サポート。


そして夕方の保育園迎え。


⸻


そのすべてが一本の線のように繋がっている。


⸻


(崩さない)


⸻


それだけを、静かに思う。


⸻


⸻


同じ時間。


菫は桜と一緒に外に出る準備をしていた。


「今日は少し早めに出ましょうか」


⸻


「うん!」


桜は元気よく返事をする。


⸻


玄関で靴を履く小さな背中を見ながら、菫は一瞬だけ立ち止まる。


⸻


(この時間も、あと少しで変わる)


⸻


妊娠している身体。


仕事の調整。


家族の増える未来。


⸻


すべてが静かに“次の段階”へ向かっている。


⸻


それでも今はまだ、朝は朝のままだった。


⸻


扉を開ける。


光が差し込む。


⸻


桜が先に外へ出る。


「行こう、ママ!」


⸻


菫は小さく頷く。


「ええ、行きましょう」


⸻


そして二人の影が、朝の道へと溶けていく。


⸻


朝は続く。


何も壊さず、何も変えすぎないまま。


ただ静かに、日常として流れていく。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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