第72話 「朝の習慣と、夜に積み重なる距離」
朝。
まだ空気が少し冷たい時間帯、マンションのリビングには淡い光が差し込んでいた。
カーテンの隙間から伸びる光が、テーブルの上の朝食を静かに照らしている。
・味噌汁(豆腐とわかめ)
・焼き鮭
・卵焼き(少し甘め)
・白米少量
・ほうじ茶
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菫はエプロンを外しながら、時計を確認した。
「そろそろですね」
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玄関の方から足音が聞こえる。
榮助がスーツ姿で現れる。
ネクタイはすでに整えられ、手には資料の入ったバッグ。
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「行ってきます」
榮助は短くそう言うと、自然に菫へ近づく。
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菫も一歩前に出る。
そして、当たり前のように。
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軽く唇を重ねた。
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ほんの一瞬。
それでも確かに“習慣”として定着した行為。
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「行ってらっしゃい」
菫が静かに言う。
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榮助はわずかに頷く。
「行ってきます」
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そして、もう一度だけ目を合わせてから玄関を出ていく。
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桜はまだ寝室で眠っていた。
この時間だけは、大人たちの静かな儀式のようなものだった。
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会社。
龍雷神・秘書課フロア。
朝の会議準備が進む中、美枝子が資料をめくりながら呟く。
「また朝の“あれ”やってきたの?」
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菫は淡々と頷く。
「はい」
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美枝子は軽くため息をつく。
「ほんとにブレないわね、あの子たち」
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菫は少しだけ視線を落とす。
「……安心はしますけど」
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その言葉に、美枝子はふっと笑った。
「まあ、悪くないわね」
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昼。
榮助は秘書課へ異動してからも、変わらず書類処理と役員補助業務をこなしていた。
ただ、以前より“人の動き”を見る時間が増えている。
秘書課では、些細な変化がすべて情報になるからだ。
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第一秘書・島津向葵が通りかかる。
「柿沼さん、午後の資料ここね」
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「ありがとうございます」
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向葵は少しだけ榮助を見る。
「最近、落ち着いたね」
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榮助は短く答える。
「環境が安定してきました」
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「……家?」
一瞬だけ間が空く。
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榮助はそれ以上は言わなかった。
「両方です」
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向葵は軽く笑って去っていく。
「それが一番いいわね」
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夕方。
保育園。
桜は菫と手をつないで出てくる。
「今日はママの日だね!」
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菫は少しだけ頷く。
「そうね」
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桜は無邪気に続ける。
「じゃあ夜はお兄ちゃんもいる?」
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「いるわよ」
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その言葉に桜は満足そうに笑う。
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夜。
玄関の鍵が開く音。
榮助が帰宅する。
「ただいま」
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部屋の奥から菫が現れる。
「おかえりなさい」
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そして自然に近づく。
今度は菫の方から。
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軽く唇が触れる。
朝とは逆の“帰宅の習慣”。
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そのあと、榮助は小さく息を吐く。
「今日も問題ありませんでした」
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菫は微笑む。
「それならよかったです」
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桜はすでに寝ている。
小さな寝息が部屋に響いていた。
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榮助は桜の布団を直しながら言う。
「この生活、安定してきましたね」
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菫は少しだけ間を置く。
「ええ……少しずつ」
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その“少しずつ”は、もう後戻りできないほど積み重なっていた。
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夜は静かに続いていく。
ただ、家族という形だけを残して。
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