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第60話「出発――鎌倉へ向かう朝」


朝は、いつもより少しだけ早く始まった。


だがその空気は、普段の“仕事の日”とは明らかに違っていた。


⸻


まだ外が完全に明るくなる前。


柊木家のリビングには、すでに灯りがついている。


菫(すみれ)はキッチンで軽く朝食の準備をしていた。


・おにぎり(鮭・昆布)

・簡単な味噌汁

・卵焼き(小さめ)


「……軽めでいい」


今日は“移動の日”。


体に負担をかけないことが優先だった。


⸻


桜(さくら)はまだ眠そうにしながらも、どこか浮かれている。


「ママ……今日だよね?」


「うん、今日だよ」


「鎌倉……」


その一言だけで、完全に目が覚めた。


「海いく!お寺いく!」


菫は少しだけ笑う。


「全部行けるかは分からないけどね」


⸻


同じ頃。


榮助(えいすけ)の部屋。


すでに着替えは終わっている。


スーツではなく、少しラフな私服。


それでもどこか“整っている”印象は変わらない。


バッグの最終確認をする。


・飲み物

・軽食

・必要書類(念のため)

・桜用のお菓子


「……問題ない」


一言だけ確認して、部屋を出る。


⸻


玄関前。


三人が揃う。


桜はリュックを背負って、すでに準備万端。


「いこ!」


「まだ早いよ」


榮助が静かに言う。


菫はその様子を見て、小さく息を吐く。


(ほんとに……始まるんだな)


⸻


マンション前。


すでに車が一台停まっていた。


運転席には健二郎(けんじろう)。


助手席には美枝子(みえこ)。


「来たな」


「おはようございます」


榮助が軽く頭を下げる。


桜は元気に言う。


「おはよー!」


美枝子は思わず笑う。


「元気ね、ほんと」


⸻


後部座席に乗り込む。


菫は少しゆっくりと座る。


榮助がさりげなくサポートする。


その動きは自然すぎて、誰も言葉にはしない。


⸻


車がゆっくりと動き出す。


行き先は——神奈川県・鎌倉。


⸻


道中。


桜はすぐに窓の外を見始める。


「まだ海じゃない?」


「まだだな」


「いつ海?」


「もう少し」


同じやり取りが何度か繰り返される。


⸻


前の席では、美枝子と健二郎が静かに会話している。


「予定通りいけば昼前には着くわね」


「ああ。渋滞がなければな」


その会話は完全に“大人の計画”だった。


⸻


一方、後ろの席。


菫は少しだけ目を閉じていた。


揺れと、安心感と、少しの疲れ。


榮助が小さく声をかける。


「大丈夫ですか」


「……うん、大丈夫」


短い返答。


だがその距離は、以前よりずっと近い。


⸻


桜が突然言う。


「ねえ!」


全員の視線が少しだけ向く。


「これ、“家族旅行”だよね?」


⸻


一瞬だけ、空気が止まる。


⸻


美枝子が先に笑う。


「そうね」


健二郎も短く言う。


「ああ」


⸻


榮助は少しだけ間を置いて答える。


「そうだな」


⸻


菫は、その会話を静かに聞いていた。


そして小さく、ほんの少しだけ笑った。


「……そうだね」


⸻


車はそのまま高速へと入っていく。


街の景色が流れ始める。


⸻


日常から少しだけ離れる時間。


だがそれは逃げではなく、“続き”だった。


⸻


鎌倉まで、あと少し。


物語は、外の世界へと動き出す。


⸻  


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