第53話 「夜の帰宅と、ほどけた距離」
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夜の住宅街は静かだった。
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街灯の光だけが一定の間隔で並び、風の音さえも小さく抑えられているような時間。
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その中で、柊木菫は帰宅の鍵を回した。
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「ただいま……」
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玄関のドアが静かに開く。
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中からは、温かい匂いが流れてくる。
肉じゃがの甘い香り。
味噌の落ち着いた香り。
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リビングから足音が一つ。
そしてもう一つ、小さな足音。
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「ママー!」
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桜が駆けてくる。
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その声の直後、柊木家の中にもう一つの気配が現れる。
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柿沼榮助。
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「おかえりなさい」
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その瞬間だった。
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桜がリビングのドアを開けたまま叫ぶ。
「お兄ちゃん、ママがいるよ!」
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榮助は軽く頷き、桜を抱き上げる。
「一緒に行こうか」
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「うん!」
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リビングの扉が開く。
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その中の光景を見た瞬間——
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空気が一瞬だけ止まった。
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菫は、着替えの途中だった。
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上は何も着ていなく裸のまま…
下はピンク色のパンツで、慌てていた様子のまま。
完全な無防備な状態だった。
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「……っ」
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菫の顔が一瞬で真っ赤になる。
「ちょっ……待って……!」
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手で隠そうとするが、動きが追いつかない。
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だが榮助は視線を逸らさない。
むしろ落ち着いた声で言う。
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「もう見えてますから」
「隠さなくて大丈夫です」
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その一言で、菫は完全に固まる。
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そして、その場にしゃがみ込んでしまう。
「……っ、もう……」
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桜はキョトンとする。
「ママ、どうしたの?」
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榮助は桜を抱えたまま、静かに続ける。
「先にお風呂に入りましょう」
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「三人で」
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その提案はあまりに自然だった。
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菫は小さく息を吐く。
「……分かりました」
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浴室。
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湯気がゆっくりと立ち上る。
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三人は肩を寄せるように湯船に入っていた。
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桜はおもちゃで遊びながら笑う。
「気持ちいいねー!」
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菫は少しだけ目を閉じる。
「……そうね」
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榮助はその横で静かに座る。
ただそこにいるだけで、空気が落ち着いていく。
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30分ほどして、風呂を出る。
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菫はまだ少し恥ずかしそうにしながらタオルを巻き、髪を拭く。
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榮助は先にドライヤーを取り、桜の髪を乾かしていた。
「じっとしててください」
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「はーい」
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桜の返事が小さく響く。
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その後、夕食。
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肉じゃが。
胡瓜の味噌漬け。
白米。
寄せ鍋の残り。
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菫はその食卓を見て、小さく笑う。
「……ほんとに全部作ったの?」
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榮助は淡々と答える。
「習慣です」
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食事の途中。
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菫がふと思い出したように言う。
「そういえば今日、美枝子さんと健二郎さんと話してて」
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榮助は箸を止める。
「はい」
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菫は少しだけ嬉しそうに言う。
「今度、家族で旅行することになりました」
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榮助は小さく頷く。
「聞いています」
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桜は嬉しそうに笑う。
「旅行!いくの!?」
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「行きます」
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榮助は短く答えた。
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その夜。
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それぞれの部屋へ戻る。
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桜はすぐに眠りにつき、
菫は静かに電気を落とし、
榮助は翌日の準備を整える。
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同じ家の中で、
三人は同じ時間を共有しながら、
それぞれの“当たり前”へと戻っていく。
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そして、その日常は、
もう後戻りできないほど自然に続いていた。
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